一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

老いては

『対抗言論 3』(法政大学出版局、2023)

 「反ヘイトのための交差路」と副題された意欲的な論集を送っていただいた。446ページの大冊だ。
 四本の特集に分類され、論説や研究報告や対談企画が並ぶ。「1、文学/批評に何ができるか」「2、暴力・宗教・革命をめぐって」「3、男性支配の重力に抗う」「4、フェミニズムと社会批評のいま」。なるほど、同人雑誌四冊分と考えれば、このヴォリュームももっともか。刊行のしかたが、私の知る時代とは変ってきているのだな。

 いずれも私ごときが感想を抱けるような特集ではない。そこは考えても無駄と知ってる分野もある。かつて自分流に考えてはみたが、力不足で埒が明かなかった分野もある。私は非難告発されるがわの人間だと思える分野もある。今さら私などにどうせよというのかという分野もある。
 いずれにせよ、ちっぽけに囲いこんだ自分の暮しの外にまで、自分の言葉を届けようとの気概など、今の私にはない。面倒くさいし、うるさい。私には私で、忙しい課題がけっこうある。

 だが興味なくもない人が登場していたり、論じられていたりもするので、かなりの論述については、これから拝読させていただくことにはなろう。
 拝見のまえに、自分に対してクサビを打っておかねばならぬことがある。言語(とうぜん言論も)自体が、もともと差別的動力を内包している。概念・定義・意味・証明・確信、いずれも差別意図(もしくは野心)なしには成立しえない。伝達の利便や思索の深化を求めて、人は言語を錬磨してきた。それは差別意識の発生と表裏一体の過程だった。
 本書執筆陣がたが、その意味での「差別」を指しているのではないことは、百も承知だ。ただ、人は差別せずには生きてゆけない動物だという根本道理をわきまえたうえで、各論を拝見しようと、自分に申しきかせるというまでだ。
 混同も極論も、論潮を混乱させるもと。己を棚に上げての論述は、百篇積み上げてみても虚しい結果に了る。

 本書には、若い友人の藤原侑貴さんが、百枚を超える力作小説を寄稿している。彼は創作一本、およそ論述など不似合いな人ではあるが、編集委員のお一人でもあるという。私にまでご恵送くださったのは藤原さんだ。
 作品はもちまえのゆったりした速度で描かれてある。世間の速度と物ものしさに同調しかねている主人公の噺だ。都市再開発にまつわる市民運動のかたちで、社会問題が身に迫ってくる。酒場などで生じた人間関係から、運動に巻き込まれざるをえない。
 しかし思い出多い母親が近年めっきり弱り、脳梗塞や初期認知症の兆候を発している。正直なところ彼には、都市再開発よりも、母の容態や閉園された市立動物園の動物たちの行く末が気がかりだ。いっそのこと、身に合うゆったりした時間を感じられる、これまでに旅慣れた東南アジアへの旅に、また出てしまいたい。だがコロナ禍だし、母から眼を離すわけにもゆかない。古風にして、どなたにもお解りいただける小説だ。

 その藤原さんが、昨年押詰ってから来宅。私とディレクター氏とが差向いでの、一年最後のユーチューブ収録日だった。藤原さんとディレクター氏とは、かつて一対のお神酒徳利のようにいつも連立って、学生時代を過ごした間柄だ。それぞれの道を行くようになって、面談の機会もなかろうから、私がお呼びした。

 「先生、安岡章太郎って、俺のこと描いてます。ほんとうに駄目な男を描いてるんですよ。知ってましたか?」
 「先生、花田清輝って、スゴクないですか? 僕この人を徹底的に読もうかなぁ」
 瞳をキラキラさせて、と『二十四の瞳』だったら云うところだろうが、残念ながらその時分の彼らの眼の色を記憶していない。ただ、やれやれと思った記憶がある。
 それから十余年、二人ともども私を気遣い、助けてくださっているのが実状だ。まことにもって、老いては……である。
 ご両人とも、どうかお気をつけなさい。背後から、松川駅近くの事件現場に立つ広津和郎が視おろしてますよ。つまり、日本近代文学ってやつがさ。なかなかどうして、部厚くって、手ごわいですぜ。

原点



 五年ぶりに、あのバブリーダンスの動画が、ユーチューブで飛び交っている。あのダンス、といってお解りでない、もしくは思い出せない向きには、蛇足紹介も必要か。

 京都に橘高校吹奏楽部があれば、大阪には登美丘高校ダンス部がある。
 2017年の全国高校ダンス選手権において、関西地区代表の府立登美丘高校が披露した「ジュリアナ」は優勝を逃した。前年優勝校だったのが連覇を逃した格好で、残念な結果ではあっただろうが、その斬新なダンスを記念に残そうと、メイキング動画をユーチューブ配信したら、火が点いた。
 百万回再生に丸一か月は要さなかった。現在では、再生数一億回越えの動画である。誰が命名したものか(本人たちではないそうだ)、バブリーダンスと称ばれるようになった。

 同校 OG にしてダンス部コーチだった振付師の AKANE さんは回想する。
 ―― あの学年は部員が少なく、技術的に下手だった。というより未経験で入部してきた初心者下級生が多かった。基礎からトレーニングするには時間が足りなかった。いっそのこと、踊りにくい衣装を着せて、簡単な動きから最大の印象を引出す踊りにした。
 芝浦のジュリアナ東京や六本木の風景や、メイン音楽に使われた荻野目洋子「ダンシング・ヒーロー」などを、部員たちはむろん知らなかったはずだ。それに先んずるアン・ルイスなど、観たことも聴いたこともなかったろう。
 オリジナル衣装を手作りするについても、えーっ、ナニコレ状態だったにちがいない。燃えたのはむしろお母さんたちだった。ここはもっとこうせなアカンワ、せやせや、こんなんだったワ。

 その年のキャプテンでセンターを踊った彼女には、「登美丘のセンター可愛過ぎ」と、若い男子ファンが急増した。卒業後、伊原六花(いはらりっか)の芸名で女優になったと聴いて、まぁあの娘ならね、とは思ったものの、映画館で映画を観なくなり、テレビも観なくなった私は、活動についていっさい知らなかった。
 数年前に、舞台「ウェストサイド物語」の主役に抜擢されたにもかかわらず、コロナ禍により企画自体が中止になったとのニュースを耳にした。六花って、あの伊原六花か。突然私は、いろいろな場面を思い出したのだった。そしてウィキペディアによって、彼女がいかに多くの仕事をこなしてきたのかを知った。

 ユーチューブチャンネル「伊原六花の STEP&GO」を覗いてみれば一目判然、顔立ちも声もさっぱりした清潔感あふれるお嬢さんだ。浪花娘らしい朗らかさも豊かだ。かといって吉本興業系の芸人さんがたのような、必死で露骨な押出し感は皆無だ。舞台や映画のみならず、テレビのバラエティー番組からも座敷はかかるだろうし、人気を博してもゆくのだろう。
 だがそれではもったいない。彼女はミュージカル舞台女優の逸材である。忘れてはならない。全国大会レベルの各校ダンス部は、いずれもお遊びお楽しみではない。かなりハードな体育会系である。そこでキャプテンだった女性である。

 紹介はここまでで、さて「伊原六花の STEP&GO」が外部とのコラボ企画第一弾として、かつての恩師 AKANE さん率いるダンシングチーム「アヴァンギャルディ」との共演動画を配信したわけだ。演しものはむろん、バブリーダンスに決ってる。
 「えーっ、今、踊れるかなあ。彼女らはずっと踊ってきてるでしょォ。わたしブランクあるしぃ」
 で、五年ぶりにこの踊りが、ユーチューブ上を飛び交っているわけだ。かつての動画も、まだいくらでも転がっている。五年間を一瞬にして跳び越えて、二本の動画を連続で視聴することもできる。感想は、ここでは申しあげない。

安心【揚】


 
 さて歳末だ。

 二十七日だったかな、坊やのお守りかたがた、早起きして飯を炊いてた朝のことさ。東隣の園右衛門の家が、今日は餅搗きだとみえて、えらく準備にあわただしい。
 搗きあがったら、隣近所へ配って歩くのが、古くから村の慣わしだ。冷えちまってはまずかろう。ほかほか湯気が立つうちに、ぜひ賞味してみてくれと、云われるに決ってる。
 おらが家の飯も炊けてはいたんだが、食事の時刻を遅らせて、今か今かと待っていたんだ。が、とうとう配りに回って来なかった。その間に、おらが家で炊いた飯は、氷のごとく冷やっこく固まっちまった。

   餅搗が隣へ来たといふ子哉  一茶
   我門へ来さうにしたり配餅   〃

 あたしぁ、村うちで冷たくあしらわれてるからねえ。八歳のときまま母が来て、腹違いの弟もできた。あたしを可愛がってくれた祖母が死んで、長男なのに江戸へ奉公に出された。以後十年以上も、帰っちゃこなかった。上方や讃岐まで流れていった時期もある。そのあいだに義母と義弟はすっかり村の人よ。
 親父が死んで、家産相続についちゃあ、義母や義弟とじつに長いこと揉めに揉めた。どうにか俳諧師と目されるようになったころ、ようやく手打ちになってね、この奥信濃へ戻ってきたわけさ。

 長年行方知れず同然だったうえに、戻ってからも行脚だ修行だ俳諧の稽古だと、しょっちゅう村を留守にした。村の衆にしてみりゃ、俳諧なんざ裕福な旦那の道楽芸よ。遊俳ってんだがね。ところがこちとらは、これでオマンマ食ってるんだ。業俳ってんだがね。村の衆はそんな男、視たことも聴いたこともありゃしねえや。気心の知れねえ怪しげな乞食坊主のように、見えたのかもしれねえなあ。
 ほとんどが義母義弟の味方よ。そうとも、冷てえもんだったぜ。餅配りの仲間外れにされるのも、合点がゆかぬわけでもねえや。

 ところでこの地方は、よくせきの事情がある家のほかは、浄土真宗の信者なんだが、それがどうもねぇ。
 他力信心だ他力信心だと力みかえって、口ばかり先へ出ちまってる連中にかぎって、こだわりの自縄自縛にがんじがらめとなって、自力地獄の炎のなかへポタンと落ちちまうようだ。
 それから、生れてこのかた畑土を塗り込んできたような土百姓が、ずうずうしいにもほどがあるじゃねえか。阿弥陀さまどうか美しく神ごうしい肌艶にしてくださいと頼みこんだうえに、頼みっぱなしのまんま本人その気になって、五体すでに仏さまみてえにすべすべツルンとなったかのように、人まえで小憎らしく澄ましかえってるのなんざ、さしづめ自力の張本人と云えようねえ。

   彼是といふも当座ぞ雪仏  一茶
   能なしは罪も又なし冬籠   〃

 親鸞上人はおっしゃってる。「隔ヌル地獄極楽ヨクキケバ只一念ノシハザ也ケリ」
 「どのように心得ればご流儀に叶いましょうか」とお訊ねすれば、お応えはかようだろうさ。「べつにこむづかしい細目などありませぬ。自力だ他力だなんだかんだと、どうでもよいことはみぃんな沖の潮目にでも流してしまって、残る人生の大事については、全身を如来さまの前に投げ出して、地獄だろうが極楽だろうが、あなたさまのお計らいどおりになさってくださいませと、お頼み申しあげるだけのことです」とね。

 さよう肚を括ったからには、口先で南無阿弥陀仏を唱えながら、春の野良仕事が始まったとたんに、人目を盗んで自分の田にだけ余分に水を引くなんぞという盗人根性を、ゆめゆめ持ってはならねえよ。
 むしろお念仏を唱えることすら必要ねえのさ。お願いなんぞしなくたって、仏さまは勝手にお守りくださっちまう。わが流儀の浄土真宗にあっての安心とは、そういうものさ。
 んじゃ、まぁこのあたりで。ごめんなさいよ。

   ともかくもあなた任せのとしの暮  一茶(五十七歳)

 文政二年十二月二十九日

一朴抄訳⑬ 了

四五輪草

 


 亭主にうとまれて親元へ返された女がね、置いてきた子の初節句をひと眼観たくても、昼日なかは人の眼があらァね。

   去られたる門を夜見る幟かな  よみ女しらず

 子を想う心情ありありじゃねえか。冷血な悪漢の心をも溶かすってやつさ。どんな鬼亭主だって、その噂を耳にすりゃあ、ふたたび女房を呼び戻さずにはいられめえよ。

 なんてことねえ一瞬でも、子どもの姿は句になったもんだった。

   柳からもゝんぐあゝと出る子哉  一茶
   蓬莱になんむなんむといふ子哉   〃
   年問へば片手出す子や更衣     〃

 行く末を想像すると、なにをしても祝い事のようだったっけ。

   たのもしやてんつるてんの初袷  一茶
   名月を取てくれろとなく子哉    〃
   子宝がきやらきやら笑ふ榾火哉   〃
   あこが餅あこが餅とて並べけり   〃
   餅花の木陰に手うちあはゝ哉    〃

 句になってねえって? あぁそうだよ。毎日が嬉しくってならなかったんだもの。まんまさ。放っといてくれ。同業の先達がただって、似たようなもんさ。

   あゝ立たひとり立たることし哉  貞徳
   子にあくと申人には花もなし   芭蕉
   袴着や子の草履とる親心     子堂
   花といへも一ついへやちいさい子 羅香
   春雨や格子より出す童の手    東来
   早乙女や子のなく方へ植て行   葉捨
   折とても花の木の間のせがれ哉  其角

 親を慕い子を慈しむ気持についちゃあ、鳥獣虫魚に隔てがねえ道理が骨身にしみてこそ、句にも眼が啓かれるってもんさね。

   鹿の親笹吹く風にもどりけり   一茶
   小夜しぐれなくは子のない鹿に哉  〃
   子をかくす藪の廻りや鳴雲雀    〃

 これも同業先達の句を出しておこうかね。

   人の親の烏追けり雀の子     鬼貫
   夏山や子にあらはれて鹿の鳴   五明
   負て出て子にも鳴かする蛙哉   東陽

 あァ、それだってのにねえ。この世には残酷なことってのが、あるもんさ。

   貰ふよりはやくうしなふ扇かな  一茶

 先立たれた肉親を詠んだ句には、どうしても眼が行っちまう。

     子におくれたるころ
   似た貌もあらば出て見ん一踊   落梧

     母に遅れたる子の哀さに
   おさな子やひとり飯くふ秋の暮  尚白

     娘を葬りける夜
   夜の鶴土に蒲団も着せられず   其角

     孫娘におくれて、三月三日野外に遊ぶ
   宿を出て雛忘れば桃の花     猿雖

     娘身まかりけるに
   十六夜や我身にしれと月の欠   杉風

     愛子をうしなひて
   春の夢気の違はぬがうらめしい  来山

     子をうしなひて
   蜻蛉釣りけふはどこ迄行た事か  かゞ千代

 昔の身分あるお人だって、変りあるまいと思うぜ。うろ憶えだけんども。

   哀也夜半に捨子の泣声は
     母に添寝の夢や見つらん   よみ人しらず

   捨て行く親したふ子の片いざり
     世に立かねて音こそなかるれ 為家卿

   人の親の心は闇にあらねども
     子を思ふ道に迷ひぬる哉   兼輔卿

 あたしかい? すっかり元気なくしちまったが、句は作ったよ。折目節目にね。

     七月七日墓詣
   木啄のやめて聞かよ夕木魚   一茶

     さと女三十五日墓
   秋風やむしりたがりし赤い花  一茶
   露の玉つまんで見たるわらは哉  〃

     さと女笑貌して夢に見えけるままを
   どう追れても人里を渡り鳥   一茶
   蟷螂や五分の魂是見よと     〃

 垢抜けねえって? 田舎臭えって? いかにもさようだとも。承知さ。
 あたしが住んでる村ってのは、奥信濃黒姫山からだらだら下りの隅っこさ。夏の声を聴かなきゃ雪の全部は溶けねえ。そのくせ秋風が吹き始めりゃ霜が降りる。
 優雅な橘だって、この地へ来ればありふれたカラタチになっちまう。万木千草ことごとくが、どんな一等地から移植したところで、駄木駄草に変っちまうのを避けようがねえってわけだ。

   九輪草四五りん草で仕廻けり  一茶

一朴抄訳⑫

稗史の力

佐藤洋二郎『偽りだらけの歴史の闇』(ワック、2023)

 五百年後にも、もし日本という国家が存続していて、日本人という国民が住んでいたとして、開闢以来もっとも長かった元号である昭和時代の事績として書き残されているのは、いかなる事項だろうか。
 第二次世界大戦の一部をなす大東亜戦争があったことは、残っている気がする。核兵器が炸裂した最初の戦争という記事も、残っている気がする。あとは、現代史の重要事項として、今容易に思い浮べられる事項とは、だいぶ異なった序列になっている気がする。

 法隆寺の大修理や、薬師寺の西塔再建が残るのかもしれない。それともスーパーカミオカンデか残るか青色発光ダイオードが残るか、天皇陛下人間宣言が残るか新幹線が残るか、私の力では見当もつかない。おそらくは意外な事項が残っていることだろう。
 見当もつかないのは当然だ。五百年後の哲学の基礎や信仰の対象が判らないからだ。したがって美意識の目処も政治統治形態も判らないからだ。どんな容姿の人びとがみずからを日本人と名乗っているかすら、確然とはしない。おそらくは人類学的分類において多様な人びとが、日本語を使う民として、日本人を名乗っている気がする。
 そしてその人びとが、その時代の日本語を駆使して日本史を編む。事項の軽重を判断し選択するのは、私たちではなく彼らだ。
 歴史はつねに、さように選択され記述されてきた。記述によって記憶され、信じられ、人口に膾炙してきた。

 この事態を、境界を接する異民族・異部族同士の侵略史に重ね、さらに同族間の愛憎内紛図に重ねて考えてみれば、書き残され伝承された歴史記述が史実を公平に記述したものだなどとは、とうてい信じられまい。
 史書に信がおけぬというのではない。歴史とは本来そうしたものだというまでのことだ。だから貴重だとも、面白いともいえる。

 佐藤洋二郎さんは、幼き日を宗像大社の地域に育ち、少年期を出雲大社の地域に過した。かくも離れた両大社にもかかわらず、建物の形も注連縄の形も、装飾や什器も、あらゆるものが瓜二つなのはなぜかと、子ども心に不思議だったという。長じて、全国の神社を、さらには離島を訪ねて歩くことを、趣味とも志ともされた。
 「佐藤の車で、連れてってもらうんだ。アイツはほんとに神社が好きでねぇ」
 わが先輩で小説家の夫馬基彦さんから、かつて聞かされた。夫馬さんは尾張一宮のご出身で、やはり神社にはなみなみならぬご興味をおもちだった。だがさすがの夫馬さんも、佐藤さんの熱と馬力にはついて行けない場面もあったそうだ。

 神社には、権力によって抹殺されたものたちの痕跡が残っている。縁起沿革に残る場合もあるが、その地に祀られてあること、その地形に祀られてあること自体が、なにごとかを証言している場合もある。それらを想像し、推理をつなぎ合せて、権力が編ませた正史には伏せられた事実を推量することがお好きなのだ。記述された権力御用歴史ではなく、事実に近い稗史(裏面史)を推量してみたいのだ。小説家としては、当然かもしれない。いや逆だ。そういう人だからこそ、小説家としてやってこられたのだ。

 蘇我氏によって伏せられた物部氏とはなんだったのか。藤原氏によって伏せられたその蘇我氏とはなんだったのか。新興武士団によって伏せられた天皇とはなんだったのか。秀吉・家康によって伏せられたキリシタン大名とはなんだったのか。
 神社縁起の読み解きによって培われた洞察力は、近現代にも援用される。薩長によって伏せられた幕府イデオローグとはなんだったのか。明治期絶対主義および軍国主義によって伏せられた近代日本とはなんだったのか。連合軍総司令部によって伏せられた日本とななんだったのか。なぜ今、中国も韓国も日本に苛立ち、理不尽な嫌がらせをやめようとしないのか。

 佐藤さんの小説に感動できる読者はよろしいが、地味な人間像を抑制された表現で描き出した渋い小説としか読めなかった読者には、ことにお若い読者には、本書をお奨めしたい。稗史は正史よりはるかに面白く、しかも人間そのものに近いと、躊躇なく全身で主張する作家が、ここにある。
 これは歴史談なんぞではない。文体こそ老境に入ろうとする作家が囲炉裏端で語るがごとき口調を採用してあるが、お若い読者は油断してはならない。権力者、富裕者、栄達者、著名者、成功者、俗物反権力者、自称知識人、成上り文化人、小物犯罪者。それらが織りなす歴史など、所詮は時勢の都合で顕在化した泡粒に過ぎぬ、正史の登場人物であって、まことの人間史はその十倍百倍も部厚くどす黒い。ただし稗史(はいし)としてしか記述されないとおっしゃっている。危険な爺さんである。

露の世


 愉しみの頂上には、まさかのどん底が口を開けてるって、とかく世間で云われちゃいるがね。

 あたしの場合は、愉しみの半分も過ぎちゃいなかった。常盤木の苗がほんの双葉ほどほころんだかという、笑い盛りのみどり児が、寝耳に水が押寄せたかのような荒あらしい疱瘡の神さんに見込まれちまった。水っぽい膿のデキモノに躰一面覆われた姿は、ようやく咲きかけた花が泥雨にしおれたようで、まわりで看ていてさえ苦しそうで辛そうで、眼を逸らしたくなるほどだったよ。

 なん日か経つとね、デキモノは乾いてカサブタになって、雪解けの谷間の土みてえに、ほろほろと落ちていった。
 やれありがたや、夫婦して悦んだねえ。さんだら法師を拵えてね、娘の躰を笹の葉で湯浴みさせてさ、病気の神さんを送り出したさ。
 米俵の両端の桟俵つまりサンダラボッチは、流し雛と同じでね、病気の神さまをこれに乗せて川へ流すという風習だ。むろん娘を洗った湯はすべて桟俵に浸み込ませたさ。

 それでもますます弱ってきてね、昨日より今日と眼に見えて衰弱しちまって、ついに六月二十一日、朝顔の花と一緒にしぼんでいっちまった。
 母親は死に顔にとりすがったまんま、泣いて泣いて、また泣いて、放そうとしねえんだわ。無理もねえや。
 この期に及んで、流れ去った水はけっして元へはもどらねえと、あたしはいちおう慰めちゃみた。散った花に元の梢に戻れは無理難題だとね。
 へっ、強がりさ。あきらめ顔をとり繕って見せたところで、恩愛の絆ってもんは、そうやすやすと思い切れるもんじゃねえや。

   露の世は露の世ながらさりながら  一茶

 あれは去る四月十六日のことだった。奥州路へとちょいと長い旅へ出る気になって、まず善光寺さんにお参りしたんだが、そこでとある事情ができてね、旅は取り止めにして戻って来ちまった。今思えば、かような不幸が近づいてるからと、道祖神さまがお引止めくださったのかねえ。

一朴抄訳⑪

正統か因習か


 編集部への〆切原稿手渡しが済んで、さて遅い朝食。珈琲館で本日一杯目の珈琲とシナモントースト。気分としては、ささやかな贅沢だ。運ばれたカップを自分流に置きなおす。
 スプーンを手前にしてカップの耳(つまみ)を左へ。と習った。粗相のないように、左手で耳をつまみながら、スプーンで掻きまわす。済んだスプーンはカップの向うがわに置く。カップを手前まわりに百八十度回転させて、右手で耳をつまみなおして飲む。オマジナイではない。六十年以上前に受けた、れっきとした躾である。ただしこだわってるわけでもなく、実行する日もいい加減に済ます日もある。

 小学校高学年での担任教諭は、戦前の女子師範教育を受けた女丈夫型の、厳しいオバちゃん先生だった。わがままで強情な悪ガキだった私は、今でもこの先生に感謝している。たまさかテストの点が良くて天狗になりかけると、呼出されてこっぴどく叱られた。マッチの擦りかたも、鉛筆の持ちかたも、この先生から教わった。紅茶の飲みかたもである。
 戦前の女子教育では、英国流の喫茶作法を日本の茶道動作に接ぎ木して、そんな教えもなされたのだったろう。茶道における、茶碗の正面を手前にしていただくという考えによったのでもあったろうか。
 紅茶から珈琲主流の時代になって、そのほうがてっとり早いと云わんばかりにアメリカ人は、カップの耳を右にして客に出すと嘆いていらっしゃった。しかし洋食器のカップに、和食の茶碗や絵付模様の平皿のごとき、正面という考えかたがあるのかどうか、私は疑っている。ともあれ粗相のなきよう左手でカップの耳を抑えて、という点は、今でも気に入っている。

 珈琲館では、お代り珈琲まで注文して、久びさに長居させてもらった。鞄に詰めたままだった読みかけ本の読書も捗った。捗るにつれ思い当ることも生じる。中村橋から春日町へかけて、未知の古書店がある。このさい運動不足解消をかねて、歩いてみることにした。寒いが、空はなんとか持ちそうだ。
 日常的なウォーキングをしなくなって、丸一年以上にもなる。疲れた。残念ながら、収穫はなかった。わが町へ戻る。居酒屋にはまだ早い。いつものロッテリアで、読みかけ本の続き。

 ロッテリアの珈琲は、カップになみなみと注いでくれる。そういえば珈琲館でも「なみなみ」だった。今では普通なのか。
 かつて日本人は、珈琲も紅茶も、カップ八分目に注いだ。玉露や煎茶の常識が、適用されたのだろう。ひと口めを飲みやすいし、熱さによる思わぬ事故も起らない。だがカップに耳が付いた珈琲や紅茶では、そもそも熱さによる事故など考えにくかろう。
 現在でもヨーローッパ人やアメリカ人には、八分目に注がれたカップを出されると、ケチだなあと感じると聴いた。それどころか途中でだれかが味見したんじゃないかと、疑う気を起したりさえするそうだ。
 珈琲館もロッテリアも、そしておそらくは日本中の喫茶店のほとんどが、グローバルスタンダードに倣って、カップに飲物をなみなみ注ぐようになっているのだろう。視た眼というか、日本人の八分目美意識など、独りよがりの因習に過ぎないということだろうか。じつは八分目美意識には、儒学にも仏法にも、それぞれ根拠となる教えがありはするのだが、珈琲・紅茶カップの八分目は、いくらなんでも画一化した形骸といえそうで、私も「なみなみ」に違和感はない。

 頃合いの刻限となり、いつもの店のいつもの席へ移動。今日のお運びさんシフトは、いつも朗らかで年寄りにも親切なバイトお嬢さんだ。ただし運んでくれた〆鯖の皿が逆向きだったので、直してからシャッターを切った。
 角型平皿の正面は、というようなことは、今さら申すまい。ただこの場合は、板前さんが客に見せようとした盛付け方向ってもんがある。躾や因習の問題ではなく、商売の問題である。ここで気の小さい老人は、考えこんでしまう。

 「ちょいと、お嬢さん」なんて切り出そうもんなら、どうでもいいことに口うるさい爺さんだと、思われることだろう。
 かといってご本人の将来を慮って、のちほど「店長さん、これこれを指導してあげたら?」なんぞと告げ口クレーマーみたいな真似をして、彼女が店長さんから叱られでもしたら気の毒だ。だいいち私は、マネージャーでも教育係でもありゃしない。
 たかが〆鯖と山葵と、大葉一枚と湯通しした若布と、醤油皿の配置の問題に過ぎない。私なんぞの出る幕ではない。が、この場合は、板前さんの顔を立てるってことも、あるからなあ。