一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

眼の記憶

 いわゆる、ひとつの……区立児童公園における、もっとも想定された用途。

 日差しの好い午前には、運動と日光浴を兼ねた散歩。近所の保育園児と保母さんたちだ。各ご家庭で保護者さんがこれを連日なさるとなれば、さぞや大変。これだけでも保育園の存在価値があろうというもの。
 ラジオ体操や朝散歩の老人たちは、とうに帰った。親たちは仕事に出掛けたり、掃除洗濯の時間帯。活発に遊具を使う小学生たちは、今は学校。中・高校生も学校。だいいち、今さら公園なんて子ども臭くってと鼻も引掛けないのか、それともたんに照れ臭いのか、普段からあまり姿を見せない。大学生や大人たちは、午後深まってからか、夜になってのお出ましだ。。
 つまり午前中は、園児たちによる独占時間帯だ。ごくたまに、園児たちに眺め入るお年寄りが、ベンチで腰掛けていたりする。

 保育園の経験はない。就学年齢前年にこの町へ移ってきた。おりしも戦後の教育再生が、ようやく末端にまで行届きつゝあった時代、ご近所に並木幼稚園ができて、そこで一年保育。私は同園の第一回卒園生である。
 就学前に幼稚園へ通わせてもらう子は、まだ全児童の半数にも届かぬ時期ではなかったろうか。
 手首をゴム編みで絞った水色の制服の胸にも、肩から斜交いに提げた布カバンにも、園の徽章が大きく、刺繍だったかアップリケだったか、されていた。制帽もあったのだろうが、記憶が薄い。嫌いで、できるだけ被らなかったのかもしれない。

 親による送り迎えなど、当然なかった。どちらさまも同じで、園で保護者の姿を視る機会など、めったになかった。通園途中の道筋に、車の往来などほとんどなかったのだろう。けしからん人災など想定する必要がないほど、さりげなくご近所の眼が、行届いていたのでもあったろう。
 それだけに、運動会やお遊戯会(つまり学芸会)で、親と連立って通園する日は、一世一代の晴れの日であり、晴れの場だった。
 一面的で身勝手な、不謹慎ですらある申しようとは承知の上で、今と当時とでは、園児にとってどちらが幸せな時代かと、ふと思ってしまうことがある。

 園庭にろくな遊具もなかったが、よく走り回った。銭湯の湯槽の兄貴分ていどながらプールもあった。
 園外散歩もにも連れ出してもらった。しかし遊具完備の区立児童公園などは、まだありえようもなかった。こゝは雑草生えるにまかされた原っぱだった。
 神社の境内を歩いた。山手通りが私鉄を跨ぐ陸橋の歩道から、富士山を眺めた。富士山とはけっして孤峰ではなく、連山とともに眺めるべきものと、子ども心に覚えた。


 「二人づつ、おてて繋いでぇ。○○ちゃんは、先生とだねぇ。帰りは、パン屋さんを覗いて。クンクンしてから帰ろう」
 パンが焼ける香りを、たまらなく佳い匂いと、この子らは覚えるのだろう。こぢんまりしたベーカリーに、まさか全員で入店するはずはないが、店の前でほんのいっときカヤカヤする。そのことは、ハラダベーカリーのご店主や若奥さまから、かねがねお許しをいたゞいてあるにちがいない。

 じつは整列のちょいと前、
 「さ、おててキレイにしたら、そろそろ帰ろうかぁ」
 と集り始めたとき、一人の女の子が、隣の二階の窓に気づいた。デジカメを手に自分らを眺めている爺さんがいる。隠れる必要もあるまいとは思ったが、いちおう首を引込めた。数秒後に首を出してみると、まだこちらを視つめていた。
 意味もない、一瞬の些細な光景が、なぜか記憶に残って、後年までおりおり蘇るということは、よくある。彼女に変な記憶が残らねばよろしいが。

遠くまで


 片方のテンプル(つる)が壊れてしまって、捨てられたらしい。枯葉やゴミがきれいに掃かれてあるところを視ると、さほど時間は経っていない。

 逃げる相手に追いすがって、いきなり顔面を殴った。そのまま連れ去られた……。サングラスをかけて逃げていたほうが容疑者で、殴ったほうが警察官であれば、裏づけ証拠となるかもしれぬ眼鏡を残してゆくとは、考えられない。となればやはり、複数犯人の仲間割れか?
 ひとつだけはっきりしている。安手のサスペンス・ドラマの観過ぎである。

 往来ですれちがって、互いに会釈しあう間柄のご近所さんは少なくないが、立ちどまって言葉を交しあうかたはと考えてみると、同年配かそれ以上のお年寄りがほとんどだ。ご近所にお住いのお若い友人や、飲み仲間は、ほとんどない。
 年配者との立ち噺となると、互いの健康状態を訊ねあうほかに、町が急速に変化してきたとの、怖れとも不信ともつかぬ慨嘆がある。
 「まったく、わけの判らない人が増えちゃって……ねーぇ。外人さんも増えたし」
 となる。

 外国人住民への差別意識というような、大袈裟なお気持ではない。マナー違反の日本人だって多い。たゞどういうご職業の、いかなるかたとも存じあげぬ新住民が、近年急速に増加傾向にあることにたいする、単純な戸惑いだと思われる。
 無理からぬお気持とはお察し申しあげるが、いたしかたもない。べつだん新住民がたの責任ではない。

 今のところ、わが町唯一の高層マンション。一階は、明るく清潔そうなクリーニング店が開業。二階以上はすべて住宅らしいが、かねて存じよりの地元のかたがこゝへ住替え入居されたという噂を聴かない。ということは、いずこかからこの町へ引越して来られたかたがたの集団だろう。
 商店街でご商売のかたがたにとっては朗報なのだろうか。だが遠くまでお仕事に出ておられる新住民がたであれば、深夜営業や二十四時間営業のスーパー四店舗と、十店舗近くもあるコンビニで、日常の用が足りてしまうのではなかろうか。

 今は昔の昭和時代、たとえ亭主が鮨づめ満員電車で働きに出てしまったところで、スーパー・コンビニはなかったし、子どもたちはごちゃごちゃいたから、商店街と学校保護者会を介して、奥さんがたの情報量は凄まじく、結果として、ご挨拶を交したことなく顔すら存じあげぬご近所さんのお噂も、自然と耳に入ってきたものだ。

 思えば私自身だって、自らのなりわいについて、ご近所さんにうまく説明できた試しがない。地元のかたに裨益した場面も、一度とてなかった。
 あの人、ちょくちょく視掛けるけど、なにしてる人? 陰ではずいぶん怪しまれたことだろう。
 「出版だってサ、雑誌かなんか作ってんじゃないの」「あゝ、『小学一年生』とか?」「講談社とか文藝春秋とか?」
 やれやれ。
 「なんかサァ、大学で教えてるらしいわよ」「えゝっ、先生なのォ、アレでぇ」
 違いますよ、まったくね。
 「作家になりたい学生さんに、なんか教えてるんだってサ」「どうしてよォ、自分が有名でもないくせにィ」

 そうこうするうちに年月が経って、深く関りさえしなければ人畜無害なるイキモノだ、詮索するにも及ぶまいと、片隅に置かれて黙認されるようになってきたのだろう。いや黙殺か。
 五十の坂を越えて、看病・介護を柱として暮すようになり、子もないからそれまで保護者会とも無縁に過してきた私は、ようやく本格的な商店街デビューを果した格好だ。
 しかしね皆さん。おゝかたの皆さんより古くから、この町におりましたんですぜ。

 新住民のなかには、私なんぞには見当もつかぬほど、遠くまでお仕事に出られるかたも多そうだ。どこでどういうお仕事をなさっているかたがただろうか。今はまだ、あの人誰? なにしてる人? の段階かもしれない。が、なん名さまかは、ゆくゆく町の中軸となってゆかれるかたがたなのだろう。
 それまでどうか、かりにお腹立ちのことがおありでも、サングラスを捨てたりなんぞ、なさらないでくださいまし。

長短

 もとは十羅刹女社と称ばれていたらしい。地元の長崎神社のことだ。

 長崎神社の創建がいつ頃のことか、はっきりした記録は伝えられてないそうだ。江戸期の大火にて喪われたのでもあろうか。そうした例は、東京には多い。
 当然ながら、コンクリート塀一枚隔てたお隣の金剛院さまとは、神仏習合時代には本地垂迹の間柄だったろう。明治期となって神仏分離の国家政策のもと、廃仏毀釈運動が起った風潮のなかで分かれた。これは資料でも口承でも、はっきりしている。

 数段の石段を昇って大鳥居。敷石に沿って歩を進めると、さらに数段昇って中鳥居。くゞったら正面拝殿へと急がずに、首を右へ(つまり金剛院さまのほうへ)向けると、鬱然たるクスノキやカシの巨木の根方の小暗きあたりに、目立たぬようにさりげなく、古い蹲踞(つくばい)が置かれてある。
 「奉納十羅刹女」と彫ってあって、講中(信仰者たち)の寄進物たることが示されてある。享保十八(1733)年の奉納とも彫られてあって、これが文献・収蔵物含めて、現在長崎神社に残る、もっとも古い年号だそうだ。

 十羅刹女とは、十柱の怖ろしい女鬼神たちだ。衆生を束縛したり、仲たがいさせたり、心の自由を奪ったり、とり殺したりする。鬼子母神と同じく、法華経の崇高な教えに出逢うことで眼覚め、改心し、帰依して、人間を護る神となった。
 当地より西のかた、同じ私鉄沿線に豊島園という、近年まで遊園地だったものが今は入浴施設となった場所があって、その裏手に位置する春日神社が、やはり十羅刹女社だったそうだ。また当地より東のかた、雑司ヶ谷には、有名な鬼子母神さまのお社もある。
 当時江戸市中からだいぶ離れたこのあたりは、次第に開墾されて流入新住民が家をなし、新たに村落共同体が形成されて、盛んに子育てされた地域だったのだろうか。子どもの健やかな成長と村落の安寧を庇護してくれる、悪女から転向した、いわば子育ての苦労を知り尽した女鬼神への信仰が、身近だったのだろうか。

 そういえば、実物を拝見したことはないが、お隣の金剛院さまに今も残る江戸中期の村内地図には、二百数十戸の家が記入されてあるものの、今日にまで血筋が繋がっている家は、一軒も視当らぬそうだ。
 災害や飢饉などの困難もあったのだろうが、家の消長や人の出入りが、共同体を相当ダイナミックに変容させていたのではあるまいか。

 十羅刹女と彫り込まれた蹲踞を写真に収めたところが、画面左上に、白くぼんやりした玉っころが写り込んでくる。で、そちらにピントを合せてみると――

 灌木の照葉の先端から糸が垂れ、先端になにか白く半透明なものがいる。蜘蛛だろうか。形が変だ。色も蜘蛛らしくはない。あるいはこういう種類もあるんだろうか。それとも産れたばかりの蜘蛛は、こんな色をしているものなんだろうか。
 意識してみると、あたりになん本も糸が垂れ、同じようなもんがなん匹もいる。もし今、彼らが若虫だとして、今年中には命を了えるのだろうか。
 長い人生と云い、あっけないほど短い人生とも云う。が、時の長さなんぞというものは、考えれば考えるほど解らない。

 この地に移ってきて、六十五年以上経つわけだが、じつのところこの町を、まだよく知っているわけではない。摑みどころのない時間だったような気もする。
 それでいて、私がオギャアと産れた日から、現在の方角へやって来ないで、反対に過去の方角へと同じ年数だけ遡っていったら、どうなるか。明治十年だ。夏目漱石はどこにいたろうか。まだ十歳の少年である。
 時間だの時代だの、人生だの成長だのと云ったところで、いゝ加減なものだ。この白い蜘蛛が、今年一杯も生きていないのだとすれば。

唄・まゝよ


 ♬人参はァ~ ヘタと尾落し 皮を剥きィ~
   ひと口大に 切ればしづけしィ~

 ♬じゃが芋はァ~ 芽とキズえぐり 真ふたつにィ~
   半皮のこし 面取りゆかしィ~

 ♬下茹ではァ~ 鍋大きめに 水多めェ~
   ぬるきうちより 具ぞ投じたるゥ~

 ♬いにしへのォ~ 匠の教へ 尊かりィ~
   菜は湯に投じ 根は水からとォ~

 ♬煮立ちよりィ~ 芋は八分 根は九分~
   昼夜で余熱 加減異なりィ~

 ♬なべてなきィ~ 今宵の嵩ぞ 根も芋もォ~
   雁もは揚げに 鍋の都合でェ~

 ♬あなかしこォ~ 世に時めきし 師や匠ィ~
   こゝまで弟子が あとは楽チン~

 ♬肝太くゥ~ 水の半量 酒注ぎィ~
   ちから借りなむ ショウガ切昆布ゥ~ 

 ♬おごそかやァ~ まずは一気に強火にてェ~
   砂糖投じて 煮立つ待つらむ~

 ♬沸きたればァ~ 醤油差しつゝ 細火としィ~
   落しふたせり あとは仏運~

 ♬デンプンのォ~ 糖となるには 十五分~
   その奥道は 鍋と相談~

 ♬あなかしこォ~ 世に時めきし 師や匠ィ~
   なべて仰せり 二十数分~

 ♬煮えたれどォ~ 味見できるは 明日ならむ~
   鍋と仏の 機嫌あらはにィ~

 ♬つね日ごろォ~ 鍋に仏に 嫌はれしィ~
   まゝよ食らふは 吾ひとりにてェ~

 ♬動観はァ~ 静観しのぐと 師の仰せェ~
   わが動観は なにをかしのぐゥ~

ふり掛ける


 今日は大事な仕事で出掛ける。重要な用件で人と会う。そういう日には「カツ」と付く食べものを摂る。もっともありふれた、庶民的なゲン担ぎだ。

 お若いかたからは嗤われてしまうことだろうが、子ども時分から三十歳ころまで、一番好きな食い物はトンカツだった。
 幼少期には、とうてい口にできる家計境遇になく、育ち盛りにいたって初めて口にし、たいそう美味かったからだろう。戦後復興と歩調を合せて食材とも料理とも出逢い、高度経済成長とともに嗜好が固まっていったという、これも世代経験のひとつだろうか。

 社会人となって、めったに休肝日のない暮しを続けるなかで、食生活の乱脈化も手伝ってか、かつてトンカツが大好物だったことすら、いつしか忘れていった。
 が、還暦を過ぎて、思い出した。それどころか、ゲン担ぎまでするようになった。これにはわけがある。
 五十歳代は丸ごと、看病と介護の十年間だった。週二日、ヘルパーさんとデイサービス施設に助けてもらって仕事に出掛けたが、それ以外の時間は、自分に行動選択の自由がほとんどなかった。

 二年半ほどの前後があったが、両親ともが他界して、私は還暦に達した。それまで行動はおろか食事献立まで、病人中心に考えざるをえなかったのが、急になにを調理してなにを食ってもかまわぬ身の上となった。目安をつけにくくなった。茫然たる自由というやつである。
 トンカツを思い出した。が、子ども時分ほどには、大好きな食い物ではなくなっていた。いつの間にか、揚げ物・油物は敬遠したい躰になっていたし、だいいち洗いものが面倒だ。一人食卓に余計な手間は禁物だ。

 とはいえ大好きではなくなったからといって、嫌いになったわけでもない。たまには食いたい。その「たまには」とはどんな時のことだろうか。などと思い想いするうちに、ゲン担ぎにいたったのだった。
 手間を惜しむ観点から、自分では揚げずに、買い食いも好しとした。また温野菜中心の食生活にトンカツ一人前は持て余す場合もあって、類似品も好しとした。
 で、重要外出の日には、ハムカツサンドイッチやメンチカツパンを食うようになった。友人の命日など、独りでもの想いつゝ過す夜には、スーパーからトンカツ弁当を買ってきて、缶ビールを飲みながら、食った。

出来立ての、いつもどおりの。

 わが常用食である、カボチャ炊きとヒジキ大豆煮は、出汁が同じ濃さで済むので、一夜にふた鍋仕立ててしまうのが便宜だ。いずれかを消費し尽して、もう一方が残り少なの場合には、数日待って同時仕立てとすることがある。
 日記に当ったところ、前回カボチャとヒジキを同時に作ったのは、五月五日だったようだ。ほゞ二週間か……。その間にカボチャ単品仕立てが一度。栄養素のバランスについては、かなり厳密に考えているほうだとは思うけれども、それにしたって、じつになんとも年がら年中、同じものばかり食っている男である。


 完全定年以降、重要案件での外出など、めったにあるものではない。
 たゞ十日ほど前に学友の通夜に参列した。焼香後には、久びさに顔を合せた連中と痛飲したために、それですっかり済んだ気分になっていたのだった。
 ふいに思いたって、何年ぶりか、うっかりすると十年ぶりくらいか、カツ丼を作ってみた。
 耄碌は隠せぬ。きざみ海苔をふり掛けてしまってから、アレッ、海苔をふり掛けるのは親子丼だったかな、などと考え込んだ。

梅雨ちかし

おやっ、ムクドリ

 ご近所の鳥たちにとって、東西南北往来の中継地となっている、音澤さんのお宅の庭木だが、人間の眼には塵埃としか見えぬ微小な種子が、大量にアスファルト道路に降るらしく、さかんについばむスズメの家族をよく観かける。
 昨日の朝はスズメではなく、単独のムクドリだった。ヒヨドリは多いが、ムクドリはやゝ珍しい。

 姿や大きさは似ていなくもない。尾がやゝ長く長身に見えるのがヒヨドリで、脚と嘴がオレンジ色がかった黄色いのがムクドリだ。
 ヒヨドリはほとんど樹上で過し、人間の姿が見える地上になど、降りてこない。人眼を避けて水浴びするときくらいのものだ。そこへゆくとムクドリは、人間に攻撃意思がないと視るや地上に降りてきて、餌を漁る。安全距離さえ保たれていれば、視られていても平気だ。
 歩き慣れているせいか、ムクドリは左右両脚を交互に出して、文字どおり歩く。ヒヨドリは地上にあっても、ピョンピョンと小刻みに跳ね移動する。スズメのように。

 入院生活のころ、隣の病棟がこちらより低層建物で、その屋上が病室の窓から見えた。雨上がりの陽光さわやかな朝、隣の屋上では、コンクリートの歪みにできた水たまりにヒヨドリのグループが飛来して、思うさま水浴びしていた。飲んでもいた。
 満足したものか一団が去ってゆくと、また別の一団がやってきて、同じように浴びた。小一時間も眺めていたが、飽きなかった。
 差額ベッド代のかゝらぬ大部屋の窓辺に立ったまゝ動かぬ、手術日待ちの老人を、看護師さんたちは不思議がった。なにしてるんデスカ? 説明すると、余計に不思議がられた。注目せぬほうが不思議だろう、と思ったが、重要任務繁多の看護師さんがたにとっては、当然の疑問だったろう。

失礼! のぞき見盗撮です。お許しください。

 さて音澤邸。なん日か前にも書いたばかりだが、お二階の屋根をも隠すモチノキの、梢あたりの上層部分は、ヒヨドリたちの定宿だ。一階の軒庇あたりの中層部分は、スズメたちの集会場である。
 鳥たちにとってはまことに居心地よろしい樹木と見えるが、その一因を、昨日発見した。幹に梯子が掛っている。どうやら幹に近い内側の余分な枝葉を、かなり剪定しておられるらしい。

 枝ぶり内部の風通しを好くするためだろう。これからの季節、虫(蛾や微小昆虫類の幼虫、そして蜘蛛)が湧かぬための対策であり、病害虫の予防でもあり、樹の健康にも有効だ。
 モチノキは枝の先端部分に精力的に徒長枝を伸ばしてゆく樹なので、ついつい各枝の先に注目しがちだが、内側を空けることも大切である。
 ご当主、六十数年前の原っぱ野球では二塁手二番打者というタイプだったが、あい変らず地味にご器用なもんだ。

 小鳥たちに居心地良い空間であれば、大型鳥類も眼をつける。
 十字路を挟んで向き合うファミマの前の電線に、カラスが二羽とまって、この樹を窺っていた。三日ほど前のことだ。
 カァカァとカラスがひと鳴きふた鳴き。ピィーッ、ピィーッと鋭いヒヨドリ独特の鳴き声。普段なら必要に応じて、ひと鳴きふた鳴きのところを、なん羽もがいっせいに十鳴き二十鳴き。臨戦状態の緊張感がみなぎった。
 樹木の内側ではスズメたちの集団がワチャワチャと、バリ島のケチャのごとくに鳴きつのっている。
 なにやら有事到来の不穏な気配に足を踏み出すこともできず、私は青信号を三つほどやり過した。

 結局カラスは譲歩したと見えて、二羽がもつれるようにして東へ飛び去っていった。八幡さまの桜の老大樹かフラワー公園のケヤキへと、帰っていったのだろう。
 これからの時期は、カラスの子育て季節だ。今は巣造りの資材集めだろうか。それともなにがしかの栄養補給だろうか。
 梅雨がくれば、カラスの気が立つ時期もやってくる。巣で子育て中のカラスに無頓着な(無知な)人間が、うっかり近づいたり真下を歩いたりすれば、威嚇されたり糞をかけられたり、子どもと侮られると攻撃されたりもする。

 主木モチノキの周りに数本の樹木。ヤツデのごとき灌木も混じる。そしていみじくも音澤邸の塀からは、バラも身を乗出して咲いている。

浮世床


 歳暮カタログを撮影してから、まだいくらも経っていない気がする。百貨店の中元用カタログが、もう来た。

 なにもないことは好いことだという、これも一例だろうか。日々是好日とは、いかなる含意だろうか。
 いやそれは思い上りか。大切なこと、心に留めおくべきことが山ほどあったのにもかゝわらず、それらを視逃し聴き逃して、記憶していないだけだろうか。その嫌いはおゝいにある。

 まだテレビを観ていたころ、気に入った宣伝にこんなのがあった。伊東四朗さん主演だった。
 「社長、××さんから、○○海苔が届きましたぁ」
 「ふぅん、○○海苔、贈っとけ」
 「え~っ、同じものを返すんですかあ?」
 「社会通念というんだ。憶えとけっ!」

 進物には心配りが不可欠だ。まず予算。高からず安からず。先さまのお好み。甘党か辛党か。お人柄は。ご家族孝行かご自分本位か。ご家族構成は。お年寄り・お子たちはおありか。ひっくるめて心配りである。
 さようなのではあるが、さらにその上に、伊東四朗社長おっしゃるとおり、社会通念ってもんがある。手前どもをお気に懸けてくださっていると同じくらい、当方もあなたさまを気に懸けておりますという挨拶だ。
 先さまは、この商品がよろしいとご判断されたのだから、それをお返しする。ともすると、お好きではあっても日常生活には少々贅沢と感じて、普段使いには一段下の品をお使いかもしれない。だったらなおさら、いたゞいた品は先さまにも無駄にならない。

 それとは逆の社会通念もある。毎回同じ品物をお届けする方式だ。おかげさまで変りなく無事に過しておりますとのお報せである。
 アソコは判で捺したように、いつもコレだねぇ。もう少し工夫はないものかしらん。さように嗤われてもよろしい。アソコからまたアレが届く季節になったという想いが、あんがい侮れないと、やがて判る日が来る。
 会社でも、お得意さまや取引先への進物選びは、総務課長の腕の見せどころだ。

 それにしてもじつに豪華なカタログと、毎回痛感する。当然ながら、食品・飲料が中心だ。豪勢だなぁ、美味そうだなぁと嘆息する。が、羨ましいと憧れたことは一度もない。無鉄砲な日々に散在した、あぶく銭のおかげである。

 広告費と交際費はけっしてケチるな、という部署に勤務したことがある。社員全員を食わせていると思って、積極策に出よという社命だった。
 ゴルフをせず、車の運転もできぬ私は、ひと苦労した。幸いなことに、胃腸と肝臓は、人一倍頑丈にできていた。狭い業界ではあったが、アイツと付合うと、美味いもの食えるよ、面白いところへ連れていってくれるよと囁かれるようになるまでには、ひと骨折った。
 不必要に美味い、食と酒だった。堪能しながらも心のどこかで、こんなもん一生食えなくたっていゝや、と思っていた。今もって、そんなもん食いたいとも思わない。

 桝井論平さんが「パックインミュージック」のパーソナリティーをなさっていたあるとき、永六輔さんからの教えということで、こんな噺をされた。
 偉いさんの鞄持ちでも腰巾着でもかまわないから、高級料亭や一流レストランの料理を口にできるチャンスがあったら、遠慮せず物怖じせず、しっかり食っておけ。同時に、学生食堂の最安値定食や掛うどんの味も忘れるな。両方味わってあるということが、なにより大切だ。
 なるほどと、理由も判らぬまゝに感心したものだった。今は、自分流にではあるが、同感納得する。ま、その間ざっと五十年。

 ところで、その桝井論平さんがご出張だかご視察だったかで、かなりの期間をかけてヨーロッパを巡られる機会があった。初めての経験に、ご不安もあったそうだ。
 永六輔さんから贈られた餞別の言葉は、かようであったという。
 「次の国、次の街へ移動したら、まずもって床屋へ飛込め。地理不案内で言葉も通じぬ土地で、落着いて町の空気を感じ、人を観察するには、それが一番だ」
 これまたなるほど。浮世床ということは、世界中にあるのかぁ。