一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

玄関番調髪

 

 梅雨が過ぎれば、夏到来。年中行事だ。

 玄関番のネズミモチが葉を密集させ、徒長枝を伸ばしてきている。樹形の内部を風通し好くさせておかねばならない。虫対策であり、病気対策でもある。
 秋深まるころに、冬支度として手を入れる場合には、地上部の負担をできるだけ軽くしてやり、翌年の芽吹きを促すためにも、強めに剪定する。だがこの時期には、風通しが回復しさえすればよろしいのだから、徒長枝を摘み、あまりに込み入った葉を整理するていどでいい。
 両手で扱う刈込み鋏でもあれば、ジャカジャカと樹形の外枠を刈ってしまって、ものの五分でおおかた片づいてしまいそうだ。しかし当方所持の道具といえば剪定鋏一丁だけだ。ご隠居さんが縁側から降りて、松の盆栽をポチンポチンと手入れするようなアレである。徒長枝の一本づつについて枝元はどこかと探ったり、ひっつかんだりしながら、ポチンポチンを繰返すのだから、非能率だ。

 ネズミモチは実を着けるので、鳥が種子を運んでくる。広くもない敷地内に、いく年もかけて五株が芽吹いた。放置したら育ち過ぎてしまって、始末に悪戦苦闘したこともある。他はどうにか始末したが、これひと株だけは着地場所が幸いした。拙宅の殺風景な玄関を見張る玄関番として、この場所に長居してもらうこととなった。
 これも縁というものだろうか。

 
 横顔である。

 ここ数日、体調がよろしくなかった。躰が重く、ときに頭痛もした。すぐに眠くなった。血圧を測ってみると、つねの高血圧以上ではない。原因不明という場合のほとんどは、もっとも単純な原因とすら称べぬ原因によるものだ。との経験則にたち返ってみた。疲れているのだろうか。そういえば、先週は出かける機会も多かったし運動もしたから、歩数に換算すればかなりの運動量だったかもしれない。疲労蓄積という、しごく単純な原因によるのかもしれない。
 昨日の日記をそそくさと仕上げ、夕刻七時には床に着いた。こんな時刻に就寝したことはない。眠れるだけ眠ってやれ、という気分だった。ワールドカップの対ブラジル戦はもともとダイジェストニュースで観るつもりだったから、惜しくはなかった。
 午前一時まで眠った。尿意に起されずに六時間も眠れたのは久しぶりだ。まだ眠れそうだ。ふたたび床に着く。そこからはいつものように、およそ二時間おきに眠りから醒め、トイレに立った。が、まだ眠れそうだ。
 結局今朝の七時まで、なんと十二時間も床に着いていた。おかげで快調である。頭のなかに充満していた霧が晴れ、躰も動く。しかし油断は禁物だ。疲労蓄積と睡眠不足とが原因のひとつと判明したからといって、他の原因が皆無というわけでもあるまい。調子に乗ってすぐさま動き出すと、症状がまたぶり返すかもしれない。

 で、今日はもっとも軽い作業にしておこうと、思い立ったのが、玄関番の調髪だった。

一滴の味



 「二番茶だからね。おいしいよ」
 急須に二杯目の湯を差すとき、お師匠さんはかならず云い添えた。
 一杯めは急須が十分には温まっていない。茶葉も十分に開いてはいない。適度の間をおいてから淹れたとしても、茶の味がどこか直線的で、ナマだ。はいお茶でございます、という味だ。二杯目の湯を差すころには急須が馴染み、茶葉も蒸されて存分に開く。お好みはいろいろだが、飲んで味が好いのは二番茶だ、というのがお師匠さんの揺るぎない説だった。

 ご近所に和裁のお師匠さんが、独りで暮していた。昭和時代のことだ。大声で陽気に喋り、豪快に笑うひとだった。終戦直後は池袋駅西口のゴチャゴチャした一画で、一杯飲み屋を経営していたらしい。文字どおり女の細腕一本である。やがて駅周辺を綺麗にするといった時代が来て、追い立てられたそうだ。
 その後どういう時代を経たものか、芸が身を助けるといった按配で、部屋借りの住いが小規模な和裁教室となった。みずからの出自について、生立ちについて、経歴について、めったに語らぬ人だった。酒も呑んだが、昼日なかはお茶にこだわりが強かった。

 母も弟子の一人だった。晩年の母が熱中したのは編み物だったが、和裁はそれより前のことだ。戦前の女学校被服科の教育はたいしたもので、ひと通りのことを母は承知していたが、同好の婦人たちとピ-チクパ―チクお喋りしながら針を動かすのが楽しいらしく、足繁くかよった。また女学校レベルを超えた本格の和裁技術に、興味を惹かれることも多かったようだ。娘ほどの齢の教室仲間と、飽きることなく交際した。
 「さて、だいぶ根を詰めたね。肩凝ったね。お茶にしようか」
 お師匠さんのひと言で休憩に入る。二番茶の説が披露されるのは、そんなときだ。

 茶に関するお師匠さんの説にはもうひとつ、最後の一滴説があった。湯呑に茶を注ぐさいには、急須に湯を残してはいけない。最後の一滴まで絞り出すかのように注がねばならない、というものだ。こちらは急須の底に残った茶にタンニンが溶け出しては躰に毒だという、いちおうの科学的根拠もありそうだ。が、お師匠さんはそうは云わなかった。
 「もう出ないと思っても、急須を傾けて待つと、最後の一滴がゆっくり玉になってきて、やがてポタリと落ちる。この一滴が、湯呑全体のお茶をおいしくするのよ」
 本当だろうか。

    
 旧い仲間の音楽家から、銘茶の中元が届いた。数年前に大病を得られて、半身に不自由が残る身でありながら、左手一本でピアノを弾いて、レッスンを続けている。東京の教室はむろんのこと、名古屋や九州の教室へも、定期的に出かけている。
 私はなかば承知で、無沙汰を続けてきた。闘病しつつの晩年には、彼をこよなく尊敬し、周囲にあってなにくれとなく気を遣ってくださる人たちに取巻かれて過すのがいい。間違っても互いの黒歴史を暴き合いながら、下品な笑いに興じる旧友悪友なんぞが詰めかける筋合いではなかろう。

 以前別のかたから、同じ商品をいただいたことがあった。そのときにはティーバッグ方式で淹れて、ご馳走になった。ふと思い立って、今回は煎茶用の急須を使ってみようかという気が起きた。
 食器戸棚の奥の収納を探ると、出てくるは出てくるは、朱泥造りの煎茶用急須が、六つも七つも出てきた。母がため込んだものだ。気に入って買って使ってみたら、なにかしらシックリ来ない点があって、また買ってしまったのだろう。
 その評価の手きびしさと微妙さについては、私なんぞに解るはずもない。だがともするととの疑いが、ないではない。母はお師匠さんの「最後の一滴」説に共感していて、傾けた急須の注ぎ口の先端で、ゆっくりと玉になってやがて落ちる一滴が、本当に湯呑全体の茶を美味しくすると、信じていたのではなかったか。
 はて、現存する急須たちのどの注ぎ口が、母の気に入りだったのだろうか。

元気をもらう

 

 マクシム・ゴーリキーの短篇翻訳冊子をいただいた。月に一度の集金人さんからだ。

 テレビも日刊新聞も遠ざけた暮しをして久しいが、世の中の底辺の動向をうっすらとでも感じたくて、とある週刊新聞とだけは今も付合っている。ことに地元の細ごました課題や、都議会区議会のもようが報告されるので重宝している。その週刊新聞の集金人さんが、毎月の末近くなると立寄ってくださるのである。
 はじめは互いの職や経歴を披露し合う間柄ではなかった。数年経ったころ、彼は学部こそ違え、同母校出身の先輩でいらっしゃると知った。今でも趣味でロシア語の勉強をコツコツと続けておられ、ご自身の翻訳稿が完成するたびに、手造りの小冊子とされて、お手渡しくださる。以前にもチェーホフとツルゲーネフとをいただいた。今回はゴーリキーである。頭がさがる。

 お返しにもならぬが、『蟻の周辺』を一冊お渡しした。
 「へぇー、お若いかたが、こういうものを作ってくださるんですかぁ。羨ましいですなぁ」
 と、感嘆しきりだった。いや、感嘆しているのは、こっちなんだが。
 昨年大患を得られて、集金担当さんが変り、先輩は再起不能かもしれぬという噂までが飛び交った。が、療養とリハビリの効果いちじるしく、見事に復帰なさった。ただしヘルメットを被り自転車を駆っての集金は控え、効率がさがっても歩いて廻ることにしたという。それが好かったのだろう。もはや大患前と遜色ないほどの復調ぶりだ。
 先月の集金時には、マイケル・ジャクソンのムーンウォークの練習を始めたいとおっしゃっていた。今日伺ったところでは、奥さまからもご家族からも厳しく叱られて、まだムーンウォークは始めていないそうだ。

 用足しに出るつもりだったが、わが町内での軽い運動に切換える。駅の階段の昇り降りとする。途中に二か所の踊場があって、下から13,15,15,の計43段である。これを十分間連続で、昇り降りする。それ以上はやらない。週二回までとする。それ以上はやらない。老人の健康管理の専門家による教えを守っている。


 鉄道に乗っての用足しは明日以降に日延べして、駅前のゼッテリアに入店する。カウンター前には、ウーバーイーツの配達員さんがたが行列をなしている。降り出すのやら降らぬのやら、空模様のはっきりせぬ日曜日だ。出前を取って自宅で過そうというお客さまが多いのだろうか。
 わが方はといえば、いつもの絶品チーズバーガーと珈琲だ。二階席の隅っこに陣取って、ゴーリキーを読もうかと思うだけのことだ。
 そして帰り途に、サミットストアで梅干とニンニク紫蘇漬けとを、ビッグエーでは牛乳のリットルパックとインスタント珈琲とを、買って帰ろうと思っている。 

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【以前の口上の繰返し】
 当「一朴洞日記」のセレクト冊子『蟻の周辺』を知友にお届け申しあげたいのですが、日ごろメールやSNSでの交信をさせていただいていて、お届け先を存じあげぬばかりに、お届けできずに失礼してしまっているかたが、少なくありません。
 お届け先が判り次第、お送り申しあげます。

 また、雑司ヶ谷「古書往来座」(池袋より徒歩7分、03‐5951‐3939)店頭にてもお渡しできます。お店のかたにひと声、おかけください。
 同店の通販サイトである「オンラインストア『往来座編集室』」へお入りくださいますと、通販にてお求めになれます。ただしその場合には、本体無料ながら、荷造り送料のみ申し請けます。

【繰返しもうひとつ】
 『江古田文学』編集部主催の「文章講座」で、今年もお喋り申しあげます。息をして動くナマ多岐をお眼にできる最後の機会となるかもしれません。(昨年も一昨年も申しましたが。)
 日 時:7月18日(土) 14:00~15:30(受付開始は 13:30~)
 会 場:日本大学藝術学部 西棟5階、文芸学科ラウンジ
      (西武池袋線「江古田」北口より徒歩2分)
 参加費:3,000円
      (文芸学科生および江古田文学会会員は無料)
      当日受付もできます。ただし、お席は予約者さま優先となります。

再登板選手

 

 強力なベテラン選手が、再登板する運びとなった。

 一週間ほど前のこと、ご近所の奥さまからメロンのお裾分けに与って、久びさにわが食膳に果物が載ると大喜びをした。当日と翌日とに分けて、そっくりいただいたのは申すまでもない。どんぶらこっことメロンが乗ってきた舟とでもいうか、大ぶりの皿が残った。これになにかを盛って、お返し申しあげるべきが常識である。
 ところが奥さまは、最近の健康診断における血液成分数値の関係で、自重しておられる食品が多いとおっしゃる。またアレルギー体質で、摂取できない食品もおありだという。さらに加えて、断捨離というか家財の整理に着手しておられて、この皿もどう処分したものかと思案していた不用品だとおっしゃる。なろうことなら私の手もとで成仏させられぬかとまでおっしゃる。

 ところがこの大皿たるや、全体が蘭の花をかたどり、縁には花やツボミや葉の浮彫りがあしらわれた、たいそう垢抜けたデザインの皿だ。拙宅にはありえない意匠である。私が常用するのは、丸皿ならまん丸、角皿なら正方形か長方形と決っている。
 寸法は、私が用いるカレーライスの皿よりも深く、私が用いるスープ皿よりも大ぶりだ。似たサイズ感の食器は、わが食器棚にはない。これは使える。ありがたい。

 
 外出に不向きな空模様となることは明白だったので、昨夜のうちに乾物の大豆を水に浸けておいた。ここのところ麻婆茄子にこだわり過ぎの感があったから、つねの作り置き惣菜であるヒジキ大豆へと、いったん戻すすもりだ。その先の夏向き惣菜については、また別に考えることとして。
 ひと晩といわず、丸一日も浸けておくと、それだけでもかなり灰汁が出る。軽く水洗いしてから、さらに灰汁出しの下煮をする。レシピには一時間とあるようだが、私の頼りないガスレンジでは、そんな時間では済まない。途中でいく度も、杓文字の縁で灰汁取りを繰返す。
 表面が柔らかくなって、かすかに芯が残るていどまで煮たら、湯切りして冷ます。いくらか余熱も通るだろうか。で、少量の酒をも加えた薄出汁で本煮に入る。これまたレシピには三十分とあっても、それでは済まない。その中ほどの、完全に火が通って豆の芯が抜けたころに、薄塩を差すのだが、私は醤油にしている。ごくごく薄くである。
 鍋底に煮汁がわずかとなったら火を止め、蓋を取らずに冷まし、煮汁を豆に吸わせる。煮るというよりも、炊き上げる感じだ。

 で、ようやく通常のヒジキ大豆の工程へと入る。この二十年に百回をはるかに超える回数を手掛けてきた作り置き惣菜だが、昨年から乾物の大豆を使うようになって、二日がかりの大仕事となってしまった。独居の暇人なればこその酔狂である。


 いや今日は、ヒジキ大豆について語るべき日ではなかった。メロンの舟として拙宅に逢着した蘭の大皿である。
 餃子スープだ。玉ねぎ、人参、ウインナ、竹輪、それに冷凍餃子。具だくさんに仕立てても、たっぷり盛りつけられる。これは具合がよろしい。美味い。
 断捨離候補として戦力外通告されそうだった老練選手が、どっこい、予想もしなかった場所で再登板して、花形選手となった。

雨が来るゾォー



 サンシャインビルは拙宅の真東にある。かつては中層ビルの草原に一棟だけ抜きん出るようにそびえ立っていた。今では並いる高層ビル群のなかの一棟だ。

 ラジオが云っている。
 ―― このスタジオから眺める新宿副都心が、霞んできました。小雨が降り始めているのかもしれません。――
 珈琲を飲み了えたら、作業開始とのんびり構えていたが、イケネという気になった。11時49分に台所が揺れた。速報が番組に挿入される。震源地は茨城県だという。近いナ。津波の心配はないという。
 こうしちゃあいられない。とりあえずは地震より雨だ。別コースをのろのろ進んできた台風7号と8号とが、日本周辺で出逢う恰好だ。明日の午前中からは8号が、夕方から夜にかけては7号が、梅雨前線を刺激して大雨を降らせるらしい。

 物干し場に不安がある。もっぱらコインランドリーを利用して、自宅で洗濯しなくなってからというもの、物干し場へ揚る機会がめっきり減り、よろず手抜きが続いてきた。屋外排水溝の目詰りが進行しているにちがいないのだ。

 
 コンクリートの囲い部分にも、防水塗装した床部分にも、年月相応の傷みがあらわだ。長年放置されたままの、かつての道具たちや植木鉢たちが、ガラクタとなって散在している。土ぼこりや砂ぼこりが、雨水によって排水溝へと押寄せる。格子状になったり網目状になったりしている排水溝口では、ほこりが積って泥化する。小さな植物たちが視のがすはずはなく、抜け目なく根を張り、芽を吹く。さらには木屑や、時にはプラスチック片までが押し寄せる。目詰りを起す。過去には、物干し場の床が水浸しになったことさえあった。

 かすかに小雨が降り出している。急がねばならない。
 植物を引っこ抜く。泥を掻き出す。手袋は利かない。素手の感覚が一番だ。しかし奥までは届かない。潮干狩り用のハンド熊手でもあれば便利だが、そんなものはない。壊れた柴ほうきが転がっていたから、その柄部分を使う。
 除去した泥やゴミは、バケツに集める。目詰りを回復させたからといって、周辺にゴミを放置したままでは、ひと雨来れば、すぐまた排水溝へと殺到する。イタチごっこだ。ホースで水を流して、ごく粗雑でもよろしいから周辺をさっぱりさせておかねばならない。

 
 排水溝は二か所ある。北西隅と南西隅だ。いずれも雨どいを伝って、地下の下水溝へと直結している。
 いよいよ雨が降ってきた。雷の遠鳴りすら聞えてくる。とにもかくにも、明日の大雨を地下へと通す算段だけして、作業を了えるしかない。

 台所へ戻り、手を洗う。ラジオは「ひるのいこい」を流している。野菜園芸を愉しむ女性リスナーからの、急速に成熟してきたトマトのヘタが可愛いとの便りが紹介された。次の女性リスナーからは、草花の挿し目が大成功して、花壇へと植え替えたところ、溢れんばかりに一杯となったとの便りがあった。
 どちらも好い噺だ。いかにもお幸せそうだが、お二人とも、現在の心境にいたるまでには、私なんぞが想像もできぬご苦労がおありだったのだろう。私なんぞは、恵まれたほうなんだろう、きっと。
 12時46分に、まだ台所が揺れた。今度は千葉県北東部が震源だという。一時間前も今回も、やや長い揺れだった。近いせいだろうか。


 日藝は拙宅の真西にある。目視はできない。周辺の丈高いビルの位置関係から、想像するのみだ。
 「現在のご自分を形成したのは、どんな経験もしくは才能だったと、お考えでしょうか?」
 ある時、若者相手にお喋りした会の末尾で、質問されたことがあった。奇妙なお訊ねだ。功成り名を遂げた著名人か成功者かに向けて発すべき質問ではないか。私ごときに訊ねてなんとするか。しかし若者の意向をおろそかにもできまいから、やや考えてから真剣にお応えした。
 「我慢、だったと思います。恥じや屈辱をやり過すか耐えるかする能力が、多少はあったのかなと思います」
 期待した返答とはおおいに異なったらしく、若者たちは一様に白けた表情をしていた。

根津をぬけて


 東大を裏門から出れば、眼の前が弥生美術館(高畠華宵)と竹久夢二美術館だ。大正ロマンと銘打たれてある。若者たちにとっては日常であるイラスト文化・カワイイ文化の源流だ。ぜひとも観ておいて欲しいスポットである。

 散歩ルートとしては、南の池之端~上野方面へと辿るか、北の谷根千方面へと辿るか、分岐点だ。今回の若者代表は、根津神社を所望している。よかろう。
 不忍通り沿いに界隈のご商売の特色を眺めながら歩くのも好し、裏道を抜けてサトウハチロー旧居跡などを眺めながら「弥生町」の地名について語り合うも好しだ。しかし若者たちはサトウハチローを知るまい。当日若者たちに選んでもらおう。

 
 根津神社境内へと足を踏み入れる前に、昔ながらの飴屋さんに、ちょいと寄りたい。うっかり通り過ぎてしまいそうなほど小体な店だ。五十年以上も前に、金太郎飴を一袋買った。以来今日まで、ごくたまでしかない根津神社詣でのさいには、なにかしら一袋づつ買って帰ることにしてきた。お奨めである。
 今日はわが一推しのニッキ飴を買った。二百五十円。

 親父さんと談笑していると、やはり神社へと向う途中らしい若いカップルが、私の右横で足を停めた。観たこともないご商売に興味津々のご様子だ。
 「ねえ、ニッキってなあに?」
 恥かしいから黙ってろよと云わんばかりに、男子はなにも云わない。私も黙っていた。口出ししそうにはなったのだが。
 「お嬢さん、シナモンのことですよ。面白いですよね。シナモントーストとかシナモン風味のパスタなんて聴くと、私ら老人は、それなぁにと訊いて、ニッキと説明されて安心する。もっと齢上の大爺さん・大婆さんがたは、ニッケと云ってました。もとは漢方の肉桂ですから、それが正しいのではありますがね」
 だが若者に向けて要らぬ口出しをすれば、たいてい嫌われる。後悔する。


 境内には、スマホやカメラを構える外国人さんがなん組もいらっしゃった。大鳥居に、山門に、池の鯉に、千本鳥居くぐりに、拝殿前の輪くぐりに、そして拝殿に。只ただ緑一色の、整然たる玉づくりのツツジ山なんぞにレンズを向ける、私みたいな人はなかった。当然だ。四月五月のころ、この山一面が満開のツツジ群にどれほどの色に染まるかを、観たことがないかたがたなのだから。
 手指の浄めを了えた日本人参拝者たちが、次つぎと左右に輪くぐりしてゆくのを不思議そうに眺めながら、立ち尽してスマホを操作する西洋人さんがあった。珍しく独り観光らしい。三十代ほどのいかにも知的職業といった、長身のご婦人だ。解説を検索していたのだろう。やがて納得したような表情で、自身では輪くぐりせずに踵を返した。
 神楽舞台の脚に寄りかかって、彼女の行動の一部始終を眺めていた私と、一瞬眼が合った。が、彼女は無表情で足早に立ち去った。


 裏参道から出て、千駄木・谷中方面へ。往来堂書店さんがある。新刊書店だが、この街の読者にこの本をお薦めしたいとの、ご店主の眼が通った品揃えをなさるので有名な書店だ。若者には一見を奨めるが、今日は入店しない。
 裏道へと入る。まさかこんな路地奥でと思える場所で、小さなご商売をなさる店がいく軒もある。「住みたい街ランキング」というような下品かつ無責任なアンケート記事で、吉祥寺だの自由が丘だのと云われることが多いが、じつはこの界隈を挙げる回答者も案外多い。さような志向のかたも、まだまだ多いと見える。
 右へ左へと緩やかにいく度も蛇行する道筋が特色の、誰が名づけたか「へび道」へと出る。むろんもとは川だったから、このような蛇行を見せているのだ。
 へび道が三崎坂(さんさきざか)へとぶつかる角が、ペチコートレーンさんだ。ご無沙汰を続けているが、かつてお礼の言葉もないほど、お世話になった店だ。ご繁盛店で、たまに通りかかることがあっても、たいていは満席に近い状態だから遠慮して通り過ぎてきた。今日はさいわいにも、小テーブルがひとつ空いていた。アイス珈琲とケーキのセット、今日の菓子は洋梨のタルトだった。

まだあった本郷



 三四郎池。涼やかな風が渡ってくる。よかった、ホッとした。これなら若者たちをもご案内できる。

 近ぢか、古本屋研究会の若者たちの尻尾にくっついて、本郷を歩く予定がある。近隣の古書店散策を兼ねて、東大構内見学をも含む本郷散歩の企てだ。こんな場合のための年寄り一匹。限られた時間を効率よく歩くための要所解説は、しなければなるまい。
 とはいえ私自身も久しぶりに歩くコースだ。情報が古い。記憶も薄れている。いかに伝統ある街とはいえ、今の本郷が私の知る本郷であるはずがない。ちょいと歩いてみようかという気になった。下見というばかりでなく、若者たちにはそこまで説明するまでもない、私本位の興味ということもあって。

 かつてはおよそ年一回、新入生会員が加わるたびに、歩いたコースだった。本郷通りの西岸というか、東大構内とは道を挟んだ対岸一帯に、軒を連ねるようにいく軒もの古書店があった。神保町を別格として、早稲田通りに次いで本郷通りも、古研にとって欠くことのできぬ散策コースだった。
 だが古書店の経営形態が変った。時代のしからしむるところだ。店売りだけでは立ちゆかない。展示会や古書市、通販、そしてネット販売が重要となり、店舗はそうした活動の根拠地との位置づけとなった。
 そこへもってきて、古書店ならどこでも学生が出入りするという時代でもなくなった。マンモス大学の周辺でさえあれば本屋の経営は間違いがないなんぞという、甘い時代は遠く去ったのである。早稲田通りも本郷通りも、今なお有力店が姿を留めているとはいえ、昔日の賑いからはほど遠い状態だ。

 むしろ若者たちにとっては、本郷および近隣地域の歴史的・文化的意味合いを体感してもらうことのほうが有益だ。むろんこの私もかつては、そうした関心から界隈を歩き、母校でもない東大構内を歩いたりもしてみたのだった。

  
 丸ノ内線「本郷三丁目」から本郷通りがわへと歩き始める。春日通りがわへと歩けば、今は大江戸線「本郷三丁目」だ。いったん屋外へ出ての乗換駅となっている。
 覚悟はしていたが、街並が変ってしまっている。憶えのない飲食店が建ち並ぶ。やはりなとガッカリしかけたとき、あった。地下の名曲喫茶「麦」の看板だ。往来に張り出してはなく、道行く人の邪魔にならぬように、ビル内に引っこんだ感じで立っていたから、危うく視落すところだった。
 トイレに立つにも帳場へ向うにも不便な、通路の果ての奥まった席に長居して、ずいぶん本を読ませてもらった。カツサンドイッチが気に入りのメニューだった。

 本郷通りと春日通りとの交差点。ここでは若者たちに江戸の地理を把握してもらわねばなるまい。春日通りを東へくだれば湯島天神をかすめて上野広小路から御徒町、西は水道橋・後楽園・東京ドーム。本郷通りを南へ行けば神田明神を経て神田から江戸市中、北は東大の先を白山上へと左に折れれば、神保町から来た白山通りに寄添って巣鴨へ。つまりは中山道だ。
 江戸幕府の防火行政にあっては、ここまでを江戸市中とした。名残りとして……あった。「本郷もかねやすまでは江戸の内」これがあってくれぬことには。かねやすさんでは、つねの商品のほかに季節商品として、涼しげなわらび餅の幟を立てて、一推し商品としておられた。

 春日通りを渡る。左手へと菊坂をくだれば、樋口一葉や宮沢賢治の旧居跡ほか文学散歩の一帯だが、初回ではさすがにそれほどの時間はあるまい。菊富士ホテルの物語なんぞも、今の若者たちから興味をもってはもらえないだろう。
 東大赤門は耐震構造の補強工事とかで、スッポリと覆いがかけられてある。若者たちにここをくぐってもらえないのは残念だ。補強工事の完成は来年の秋だそうだ。
 その代り正門ではと進んでみたら、健在だった。正門前の「ルオー」だ。最長寿の喫茶店兼レストランである。二十数年も前、初期の古研メンバーと歩いたさいには、この店の二階で「柴田翔も大江健三郎も、食ったのかなァ」なんぞと云いながら、感慨深げにカレーライスを食う若者たちがあった。


 正門を入る。左右同型の学舎が整然と建ち並ぶ、東大ならではの銀杏並木風景だ。早稲田大学へは、現在の会員メンバーを案内したことがある。左右対称なんぞ、どこを視回してもありえようもない早稲田と、左右対称ばかりの東大との対照を、若者たちはどう感じ取るのだろうか。
 銀杏並木の果ては安田講堂だ。これまた寸分の狂いもなき見事な左右対称である。さてこの講堂について、私は若者たちになにを伝えるべきか。あるいは口をつぐむべきか。判断に窮する。生半可のままむやみに語ってよろしい問題とも思えない。
 外来の若者のみには限らない。名物のクスノキの大樹が気持の好い木蔭をつくっていて、環状にコンクリートのベンチが設置されてあり、本を読んでいる若者や、ノートパソコンを開いている若者がある。今の東大生だろう。彼らに向けて、古い東大 OB のジジイたちは、なにをどこまで語ってきたのだろうか。

 名物のクスノキを横目に、三四郎池へと進む。池の畔の樹木たちがいっせいに育って、水面上へと身を乗出していて、私の記憶よりも池が小さくなっている。しかし風情に変りはない。これはいい。これならば、若者たちになんでもお伝えできる。