一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

カレンダーの師走



 来年のカレンダーを頂戴すると、いよいよ歳末到来との気分になる。

 会社員時代、および看病・介護時代には、玉カレンダーを壁に掲げてあった。全面格子にひと月分の玉(数字)だけを大きく印刷した、表紙を含めて十三枚つづりの、小ざっぱりデザインによる大判カレンダーである。予定事項を書込む余白がたっぷりあって、もっとも実用的だった。外出・面会・約束・申込み・締切りなど、記入しておくべき行動予定がふんだんにあった。
 年を追うごとに、さほどの余白は必要なくなってきた。やがて書込みの量は無きに等しくなった。

 今では拙宅に三種類のカレンダーしかない。居間の壁には、わがメインバンクたる巣鴨信用金庫さんから配布されたカレンダーが掲げられてある。縦長サイズの上半分が絵画のカラー写真で、下半分にふた月分の玉が並んだ、表紙を含めて七枚つづりだ。記入用の余白はこれで十分足りる。わが家にあっては最大型のカレンダーである。
 最小型となると、長財布ほどの大きさの、浅草今半さんのカレンダーだ。これからの時期に進物や手土産の買い物をすると、おまけとしてくださる。壁掛け用にも卓上用にもなる工夫がされてあって、私は冷蔵庫の横面に掛けて重宝している。ゴミ出しの曜日やベーカリーの休日など、台所にあってちょいと確認したりする用となる。
 あいだの中型は日本共産党のカレンダーだ。ふたつ折り状態でいただくときは週刊誌大で、開いてふた月ぶんが見えるように掛けてもその倍サイズに過ぎない。寝室で箪笥の横面に吊るして、ベッドから見えるようにしてある。就寝前や起床直後は頭がぼんやりしていて、今日はなん曜日だっけ、なにをする予定だったっけと、情けないほど初歩的なことを思い出したりするのに必要となる。

 カレンダーとは用途が異なるが、ほかに暦の関連で申せば、金剛院さんが冊子状の暦をくださる。有名な高島易断による易学暦の仏法版のようなものだ。仏教行事予定のほかに、干支や節季にまつわる事柄や法事の作法、それに歳時記的な話題も盛込まれて、毎年たいそう読みでのある冊子となっている。
 あとは手帳にカレンダー機能がある。高橋書店刊行の同じ型番の手帳を使い始めてから四十年ほども経つだろうか。途中で会社員時代に、日本生産性本部のものや産業能率協会のものを試した年もあったが、結局は高橋書店のものに戻った。約束事の少ない編集で自分本位に使える点で、私には最適の手帳と感じている。
 
 本日まず先頭を切って、共産党の来年カレンダーをいただいた。そんな時期になったのだと、改めて実感させられる。
 今週中にはロフトにでも出向いて、来年の手帳を調達しなければならない。郵便局に寄って、お年玉つき年賀はがきも。こちらも購入枚数が近年激減した。

冬の陣



 いただきものをする季節がやってきた。かたじけなくもあり、悦ばしくもある。やれやれふたたびこの季節を迎えられたかとの、感慨もある。

 先頭を切って、従兄からの郷里名産品詰合せである。野菜味噌漬けと海鮮甘酢漬けと、海草塩漬けと魚卵塩辛だ。それぞれ詳しくは、以前の日記で紹介した。
 味噌漬けの袋には、大根と茄子と、長い胡瓜と生姜とが漬け込まれてある。大根・茄子・胡瓜は新潟県産、生姜はタイ産と表示されてある。細かく刻んで、わが膳の角皿に半年間、毎食ひと切れづつ載る。
 甘酢漬けの袋には、鱈のすき身と鱈子と、生姜とキクラゲ。開封してしまえば、一週間足らずでいただいてしまう。
 もずくの塩漬けは、念入りに塩出ししてから三杯酢だが、酢の物小鉢で三回かせいぜい四回分だ。以前は越後方言で「もぞく」と表示されたものだが、近年は全国標準に合せる店が多い。今も「もぞく」商標のままで通す製造会社があるかもしれない。私をして云わしむれば、太平洋のもずくと日本海のもぞくとは、植物学的には同一であっても、別の食いものである。ヌルッと喉ごしの「もずく」と、プツプツ歯ごたえの「もぞく」である。色はもずくがより緑であり、もぞくがより黒みを帯びている。
 瓶詰の魚卵塩辛の材料は真鱈の子で、北海道とアメリカ産と表示されてある。ということは、ブレンドされてはあるもののほとんどが輸入品なのだろう。時代におもねらぬ激烈な塩っぽさで、微量を箸の先にとって粥飯になすり着けることで、絶品となる。このていどの小瓶商品を、私は半年かけていただく。
 いずれも私にとっては、古里の訛り懐かし、みたいな食品だ。

 すっかり暗くなり、身震いするほど冷え込んできた午後八時ごろ、玄関チャイムが鳴った。宅配便だった。長年顔馴染の男で、お名を伺ったあげくに間違えてはかえって失礼なので、あえて「クロネコさん」とお称びしてきた。独り住まいの私が必ず在宅する時間帯を承知してくださっていて、時間外に配達してくださったりする。
 配達員はふつう三年か早ければ二年で、配置異動されるそうだ。いろいろな経験を積ませ、見込みある配達員には業績不振地域や懸念部門のテコ入れに参加させるという。つまり将来の幹部候補を選抜するためと、逆に使えぬ担当を閑職へ追いやるために、頻繁に異動があるそうだ。
 ところがわが「クロネコさん」はこの地域を六年半も担当している例外的存在だ。上司からの度重なる奨めを固辞して、この地域のスペシャリストとしていつも快活な笑顔で、巨きなワゴンを連結した自転車で走り回っている。無遅刻無欠勤だと誇らしげに語っている。古アパートの裏木戸の掛金の外しかたから、どこそこのお婆ちゃんの顔色がここのところ優れないことまで知っている。ひょっとすると行方不明になった飼い猫の居場所だって知っているのかもしれない。

 「またこの季節が来たね。しばらくのあいだ、ご面倒をおかけするけど」
 「なんもです。オレがいるときは大丈夫だけど、非番の日に当っちまうと、解んねえ奴が変な時間に伺っちゃったりするかもしんねえけど」
 「定年になったからね。私も前よりはだいぶ、在宅するようになったから」
 二度足を踏ませてしまったおりには、缶珈琲をひと缶、もち還ってもらうことにしている。買物の途上などに、彼の自転車姿を視かけることがたびたびある。町の顔の一人だ。忙しそうに仕事中だから、あえて声掛けしたことはない。
 「なんもです。声を掛けてくださいよ」
 「ああ、今度からそうする……」

忘恩いくつか



 佐古純一郎の文芸批評に注意深く耳を傾けていた時期がある。

 早稲田だ三田だ赤門だといった文学青年街道を歩んだ人ではない。学生時代に亀井勝一郎の門を敲き師事した。海軍に応召し、対馬守備隊の通信兵として敗戦を迎える。戦後洗礼を受け、創元社角川書店に勤務した。創元社と縁の深かった小林秀雄からも指導を受けたそうだ。退職後は文筆のかたわら大学講師生活を送り、母校二松学舎大学の教授にして学長をも歴任した。信仰者としては、牧師さんである。

 鬼の首を獲って文芸ジャーナリズムを騒がせるような批評はしない。戦争体験者かつ信仰者として、おだやかな口調で根源を説く。著作や評論の表題に明瞭だ。「文学はこれでいいのか」「文学になにを求めるか」「文学をどう読むか」などなど。
 『小林秀雄ノート』は直接指導を受けた先人を身近にあって理解した人の強味があり、今日の尖鋭な論客はどうおっしゃるか知らないが、入門書としては今もって有効だろう。
 『椎名麟三遠藤周作』は両受洗作家を信仰者の側面から眺めた、異色の作家論だ。ほかの切口から作家理解に及ぶほかない後学にとっては、またとない参考指摘を含んでいよう。
 私にとってはご恩ある書籍たちだが、人心の根源に立ち還って静かに内省する殊勝な時間なんぞは、もう私には訪れまい。佐古純一郎を古書肆に出す。

 ただし『近代日本思想史における人格観念の成立』一巻だけは残す。
 明治期前半の丈高き先人たちが、西洋語の術語のあらかたを漢字に移して日本語化しておいてくれた。おかげで後進は、哲学も科学もその他の学問も、ある段階までは自国語のみで進めることができる。文学そのほか言葉による技芸もさようだ。
 その各論的実例として、パーソナリティー(personality)が「人格」と表記されて文界・学界・ジャーナリズムに登場したのは、いつ誰によって、いかなる経緯によったのだろうか。著者は明治年間の新聞・雑誌・著作・講義録を博捜して、初出を追究してゆく。時は明治二十年代、「人格」という用語を喧伝した人として、井上哲次郎といった名も挙ってくる。文人でもジャーナリストでもなく、体制側も体制側、時の東京帝国大学教授だ。
 おそらくこの研究にはまだまだ先がある。究明の側面だけでなく、影響と拡がりの問題、英語パーソナリティーと日本語「人格」とは正確に同義か、それとも汎用過程で変質を遂げたかという問題、その他である。貴重にして興味尽きぬ一書だ。

 師弟関係ということだったのだろうか、書架では佐古純一郎の隣に亀井勝一郎のごく月並な普及本が二冊残っていた。このさい古書肆に出す。
 三十歳代に一度、六十歳手前でもう一度と過去に二度ほど、蔵書処分を敢行した。六十手前のとき、亀井勝一郎はあらかた出したはずだ。まあこれくらいは基本だからと、眼こぼししたものだろうか。記憶にないが。
 あとに残るのは、変色しきった文庫版『島崎藤村論』のみだ。さすがにこれは、古書肆ご店主にご迷惑だろう。


 自分には学究の素質がない、学問的環境もないと、ごく若いうちに自覚した。引け目から、なにかに取りかかろうとするさいに、基本力の不足を補うべく、まず概説を抑えようと図る癖が身に着いた。二列横隊に詰められた書架の後列から、その残骸が出てきた。
 『講座 日本思想』全五巻を古書肆に出す。『近代日本思想史講座』のバラ本三冊を古書肆に出す。

 四十歳前後のころだったか、池田晶子という面白い文筆家が登場した。三田の哲学科を出たたいそう美形の女性で、女優さんだかモデルさんだかを兼業しているとの触込みで、小ブームが巻起った。
 お叱りを受けると承知で申せば、哲学エンターテインメントだ。哲学用語も学問的術語もいっさい用いずに、哲学を祖述もしくは紹介したエッセイである。思わず膝を打つほど面白かった。

 哲学とは本来、難解な論理体系のことではない。「哲学する」という動詞がまずあって、その抽象名詞化として派生した名詞に過ぎない。では「哲学する」とはいかなる動詞かと申せば、「知恵を愛する」という行動・態度を指す。考えつつ行動する、また行動しながら考えることが好きだ、という意味である。
 明治期の丈高き先人がたに対する忘恩ながら、フィロソフィーに対する哲学という訳語だけは上出来とは申しかねる。直訳的に「愛知」としておけばよろしかった。名古屋市のある愛知県の愛知である。裏返せば、あの一帯は哲学県と称んでも差支えない。

 池田晶子が云ったのは、ねぇみんな、肩の力を抜いてランララランで哲学しようよ、ということだと私は読んだ。深く同意した。
 しかしこの手の文業は、手口を了解してしまうと、あんがい早く飽きがくる。その後長く愛読者であることはできなかった。
 惜しくも早逝した有能な文筆家だったが、今回古書肆に出す。

ごっこごっこ



 「もーいいかぁい」
 ほかに人影のない児童公園に、黄色い声が響きわたる。五歳くらいの、度の強い眼鏡をかけた男の児だ。

 本日のチャント飯。いつもどおり主菜なしのただただ品目重視だ。
 ・粥飯(昆布・若布・生姜炊込み、トッピングは擂り胡麻・ちりめん山椒・青さ粉)
 ・玉ねぎ天ぷら(1/2 個分)、つゆは酒・醤油・砂糖でいい加減に。
 ・納豆(一パック)
 ・ウインナ(一本)ケチャップソテー
 ・大根菜(いただきもの)甘酢漬け少量(ワサビ和え、おかか載せ)
 ・鮭そぼろ佃煮(いただきもの)少量
 ・イワシ味付缶詰
 〈本日の角皿〉・出汁巻玉子一切れ
        ・らっきょう一粒
        ・生姜味噌漬け(いただきもの)スライス一枚
        ・梅干し一個
        ・魚卵塩辛(いただきもの)茶匙1/2
        ・ニンニク味噌漬け一個
        ・6Pチーズ一個
 すべからくスーパーで買ってきたものか、いただきものだ。調理というほど手間をかけたものはない。カレーか肉じゃがか、トリごぼうか揚げびたしか、夜鍋作業で下茹でや油どおしして多少は手間暇かけたものが、なにかしら一品だけ切らせずにあるが、いずれも煮物系保存食と分類されて冷蔵庫に。日にもう一回のテキトー飯か、さもなければ間食にて消費される。

 「もーいいかぁい」
 母親はベンチの背後か植込みの陰に身をひそめる。正しくはひそめた振りをする。すぐに見つかるように加減しているらしい。
 滑り台に登った男の児が、そっぽを向いて数を数えるつかの間にも、母親はスマホを覗いている。真剣そうだ。なにか気がかりなことでもあって、じつは気もそぞろなのだろうか。児のほうは母と遊べる今が真剣なのだろう。よりいっそう高い声を張りあげる。
 「かくれんぼ」ごっこ、「鬼ごっこごっこだ。

 自炊老人と名乗っちゃいるけれども、私のは炊事ごっこだな。
 看病・介護時代は、まだしも真剣な炊事だったかもしれない。以後は「ごっこ」だ。ともあれ真剣時代と「ごっこ」時代とを合せれば、かれこれ二十五年のあいだ、この粗末な腕前でわが血肉を維持してきた。
 今日も完食。梅干しの種が一個残った。

雲の秋



 今年の十一月は酉の日が二回だ。昨日が二の酉だった。
 年寄りが人混みへのこのこと出ていっても、人さまにご心配をおかけせずに済みそうな、久しぶりのお酉さまである。どなたにも声を掛けずに、独りで歩いてみようかと、楽しみにしていた。

 新宿花園神社へ欠かさず出掛けるようになったのは、五十歳ころからだった。飲み疲れてタクシーを拾い、たまたま同方向へ帰る学生二人と池袋まで同乗することになった。十月下旬のことだ。花園神社の前を通過するとき、石塀に張られた横断幕が眼に着いた。今年の酉の市はなん日なん日と、デカデカと予告されてあった。
 「寒いわけだなぁ。もうお酉さまだよ」
 「へっ、先生、オトリサマって?」
 面喰った。日本近代文学を勉強して、将来は小説を書きたいとうそぶく学生二人が、酉の市を知らない。二人とも関東出身ではなかったから、育った身近に酉の市はなかったかもしれない。別の呼び名だったかもしれない。それにしたって…いくらなんでも…。
 「お酉さまを知らねえんじゃ、一葉も鏡花も、荷風久保田万太郎も、読めたもんじゃねえなあ」
 軽く呆れた口調を装ったが、内心は愕然としていた。

 さっそくその年から、身近にうろうろする学生諸君を伴って、酉の市を歩くようになった。半分は課外実習のつもりだった。数年後には学生サークル古本屋研究会を立上げたので、サークル行事ででもあるかのように、毎年歩いた。
 学生諸君はどんどん卒業してゆき、またまた入学してくる。二十年も歩けば、当方もくたびれてくる。新宿花園神社の混雑は格段に凄まじいものとなった。外国人観光客がかなりを占めるようになった。好みの熊手を物色する客よりも、自撮り棒で撮影する客の姿が目立つようになった。
 最初のころ共に歩いた連中は四十代となっているから、だれかにバトンタッチできぬものかしらんと弱音を吐きがちとなったおりしも、疫病騒ぎが起きた。そして私は定年退職となった。
 若者たちに江戸文化を語る使命なんぞからは、お役御免だ。今年あたりは独りで歩いてみようかと、楽しみにしていたのだ。

 私の半生はとかくさようなのだが、前々日が急に冷えこみ、ひどく鼻水が垂れた。日に三包も葛根湯を呑んだが、快癒しなかった。翌日は鼻がむずかり、くしゃみが出た。快方に向ってはいる証拠だ。私の鼻風邪は鼻水に始まり、頭痛や関節痛を経由して、くしゃみによって残菌を吐出すをもって終了するのが定常コースだ。
 当日(つまり昨日)は、ポケットティッシュの三個四個も携帯すれば、出掛けられぬでもない体調ではあった。が、弱った老人が人混みを歩いて、インフルエンザでも頂戴しては事件だ。漫画的なマサカは、きっと起る。
 鉄道に乗るのは諦めて、金剛院さまへの墓詣りに変更した。今月の二十六日が亡父の命日だ。しかし年になん回かしかない少々込入った仕事が入る予定なので、命日は前倒しとした。

 ダイソーに寄って、亀の子タワシを買う。包装袋に亀の子とは書いてない。棕櫚の葉とも書いてない。天然素材とだけ書いてある。在りし日の亀の子タワシほど丈夫ではなさそうだ。二個入りで百十円。墓石の汚れが著しいことに気づいてはいたが、手抜きを決め込んできた。年末一回の掃除では行届かぬだろうから、今月あるていど手を着けておこうと思い立ったわけだ。
 花長さんでは、今日はおかみさんお一人のお店番だった。
 「お母さん、いつも思うんだけど、おぐしが見事な銀髪になられましたねえ」
 「その代り、すっかり抜け禿げました」
 「とんでもない、たいそう上品なもんじゃありませんか。お手入れもさぞや?」
 「遺伝でしょうねえ。母が若白髪で真白でした。子供心に年寄り臭いわねえと思ったもんでしたが、気がつけば自分がもうすっかり。いやだわ、戦前の噺なんかして」

 金剛院さまでは、まず庫裏へ顔出しして線香をいただく。境内に咲いている花と生っている実はなんでしょうかと、お訊ねしてみた。さぁ、私にはさっぱり判りませんと、若住職のお応えこそさっぱりしたものだった。境内の樹木手入れから灌木や草花の植栽全般は、旧くからの地元職人である秋村造園さんが一手に仕切っておられる。
 「さようですか。でしたら写真を撮らせていただいて、図鑑で調べてみましょう」
 「そうなさってください。私も知りたいです」
 えっ、結果を報告しなければならないということ? 口は禍の元。
 昨日一昨日の冷えこみから一転して、厚着したりマフラーを巻いたりでは汗ばむ陽気となったゆえか、墓地を眺め渡すと三組の先客があった。

 懸念したとおり、墓石の汚れはひどいもんだった。年内にあと二回は洗わなければならない。墓石背後の、塔婆立てとの間に、タワシを一個置いてきた。墓詣りのついでにわずかづつでも磨いたり洗ったりできるようにである。通りかかる人からは見えないから、持ち去られることもあるまい。
 最小区画の墓所の狭苦しい隙間で作業すると、腰も背中も肩もすぐ痛くなる。足元が危うくなり、転びそうにもなる。深呼吸するつもりで背筋を伸ばす。空一面に、いかにも秋、といった雲だ。
 来年こそ独りで酉の市へ。向う一年間、生延びる目的がひとつできた。

穴の目方〈口上〉



 つねの日記に挟まりまして、番外のご挨拶を、ひとこと申しあげます。

 ドーナツを数える単位は、なんでごいましょうか? 専門家がたの業界用語は存じませんが、一般庶民の慣習にては一個二個でございましょう。
 ドーナツ一個の重さは、いかに数えたものでございましょうか? 諸成分混合され成型された固形部分で、○○グラムということでございましょう。
 ドーナツの大きさ(寸法)は、いかにお伝えしたものでございましょうか? 丸型でしたら直径○○センチで厚みが△△センチと、お伝えするのでございましょう。算出せよとなれば、体積計算でございますから、底面積×高さでございましょう。数学お得意のおかたは、曲面部分に微分積分を用いてなどとおっしゃるかもしれません。

 ところで、重さと大きさの算定(また把握、また表現)基準が不統一だということを、お気になさるかたは、あまりいらっしゃらぬようでございます。重さにはドーナツ中央の穴が含まれておりませんが、大きさには穴の寸法も含まれております。
 申すまでもなく、穴には容積(空間寸法)のみがあって重量は零グラムだと、検討もされぬままに信じられているからでございましょう。しかし本当でございましょうか?

 衛生観念が極度に発達した現代では、ドーナツが個別包装されてあったりもいたします。片隅に小さく「プラ」と印刷されました透明な特殊紙の袋に一個づつが個別包装され、さらにそれをなん個詰めというように販売されたりもしております。
 価格といたしましては、個別包装の中身が一個いくらでございます。固形部分と穴とを含めての金額でございます。馬鹿を云え、穴はタダだよ、無料で付いてくるんだ、とおっしゃいますか?
 ではいかがでしょうか? お客さま、このドーナツは穴が開いておりませんが、味も重量も同じとなっております。そうご案内しても、買っていただけるものでしょうか? お客さまはのなかには、穴になにがしかの値打を感じて、ドーナツの定価は穴の値段を含んだ金額だと、認識していらっしゃるかたもおいでなのではありますまいか。
 さよう、穴には重さも栄養価もございませぬが、寸法があって、また美意識をくすぐるなにがしかの作用があって、したがって存在理由もあって、それに値打を感じる人もありうるということではござますまいか。定価の一部を穴の代金として支払っておられるお客さまもおいででしょう。

 当「一朴洞日記」は、昨日投稿いたしました「西洋思想? もういいや」をもちまして、開設してよりちょうど一千本目の投稿となりましてございます。このご挨拶が千一本目の投稿でございます。事情により日に二本投稿した日もございましたから、日数といたしましては、連続九百三十六日目となります。
 ここまで続きましたのも、お立寄りくださった読者の皆みなさまによるお励ましのおかげと、改めて深くふかく感謝申しあげたき想いでございます。まことにありがとうございます。

 ときに、とりたてての特色に乏しく、役にも立たず意味もなさぬと自覚しながら、自分はこんな日記でなにを書こうとしてきたのでしょうか。そんなことは死に臨んで思えばよろしいので、書く前に考えるべきことじゃないとは、むろん承知しております。それでもついつい思い浮んできてしまう自問でございます。
 私はドーナツの穴のごとき文章を目指しているのではなかろうか。実用に役立たず社会的な意味もない、したがって大部分のかたにとっては無価値の文章。穴もドーナツのうちとお感じのごく稀な読者さまだけが、ふと気づいてほんのいっとき立停まってくださる、そういう文章を書こうとしてきたのではないか。これからも書いてゆこうとしているのではなかろうか。一千投稿を機に、さよう思い当りました。

 次に口上申しあげますのは来春、投稿日数一千日達成のおりでございましょう。それまで皆さま、どうかご機嫌よう。引きつづきよろしくお願い申しあげます。
 一朴 拝

西洋思想? もういいや


 大きなことを考えたり、決断したりすると、たいてい間違えるようになった。

 修身斉家治国平天下と『論語』は云う。まずは自分の身を修めることからという意味だが、乱暴に云い換えれば、テメエの頭の上の蠅も追えぬくせしてデカイ口を叩くんじゃねえ、という意味だ。が、文言もさることながら、順序が勘所だと読んでいる。仁は身近から順に施してゆくほかないのだ、という含意だ。
 衣食足りて礼節を知る、とも云われる。これも身に覚えあるし、実例を世間によく視かける。「頭の上の」とは順序が逆の教訓と、読めなくもない。古代の賢人らは、ああでもあるしこうでもあると、そりゃあちょいと見には矛盾撞着する真理をいっぱい云っているさという、これも一例だろうか。
 わが身の耄碌について考えた場合、とにかく大きな問題・重要な問題については分別盛りのかたにおすがりして、腕に覚えのある些細な問題のみにかまけて過すのが無難と思われる。

 大学に入ったころ、西洋哲学についても少しは解りたいと、念じたもんだった。それまでに薫陶を受けた恩師からは、かように釘を刺されていたのだ。
 「哲学ってやつはひと繋がりでね、どこから入っても結局はプラトンアリストテレスまで遡っちまう。そこへゆくと文学はいい。好き嫌いの主観から入って、しかもある点から先には関心ないと、遮断することもできるからね。サルトルなんぞもね、文学部分だけを読んで、哲学部分にまでは踏込まないのが賢明だね」
 むろん私の学力の限界を視越したればこそのご忠告だったろう。哲学科でカントを読まれたのち、国文科に入り直して、東京大学の卒業証書を二枚お持ちという、いささか変人めいた恩師だった。

 そうは云ったって、まったく無知というわけにもゆくまいと、入学後の私はまず広い視野に立った概説や総論を探そうと考え、古本屋を歩いて、バートランド・ラッセルの『西洋哲学史』を買いこんだ。
 当然ながら、噺はイオニア海岸のミレトス学派から始まるわけで、ソクラテス登場にまではなかなか至らない。今読み返すとけっこう面白いのだが、二十歳の私には気が遠くなるようだった。加えて、溜り場の喫茶店や麻雀荘での先輩がたからは、ケッ、お前そんなもん読んで、馬鹿じゃねえの? と、おおいに嗤われた。
 なるほど、たしかにこの入門法は道のりが長過ぎると自分でも感じて、以後は必要が生じたときに哲学人名辞典を引くかのように拾い読みしただけだった。若さゆえの早計かつ短慮である。今想えば、砂を噛むような退屈かつ迂遠な道であっても、いったんは読み切っておくべきだった。
 七十過ぎての後悔なんぞは役に立たない。ラッセル『西洋哲学史』を古書肆に出す。

 学科の垣根を踏み越えてあちこちの教室を遊んで歩いているうちに、自分の関心の中心は日本の美意識の伝統と系譜だと、見当がついてきた。大和魂と漢才(からざえ)だの、優美と静寂美だの、「たをやめぶり」と「ますらをぶり」だの、弥生的原型と縄文的原型だの、様ざまな二項分類の周辺をうろつくようになっていった。
 おそらくは西洋にも似た伝統があるにちがいないと見当をつけ、ディオニソスとアポロという問題に逢着する。むろん血気盛んな未熟学生にとってはアポロなんぞはあと回しで、まずディオニソス観念に飛びついたのだった。
 それでなにが解ったのか、その後の人生に良い影響があったのかと問われれば、答はノーである。
 カール・ケレーニー『神話と古代宗教』『ディオニューソス――破壊されざる生の根源像』二書を古書肆に出す。
 アンリ・ジャンメール『ディオニューソス――バッコス崇拝の歴史』を古書肆に出す。
 ミルチア・エリアーデ世界宗教史』全三巻を古書肆に出す。

 書架において、それら名著大著と隣り合せて収納してあったということは、当時なんらか関連づけて考えていたのだろうが、記憶していない。
 シモーヌ・ヴェーユ『ギリシアの泉』を古書肆に出す。
 生田耕作 編訳『愛書狂』を古書肆に出す。
 しょせん私ごときには、たとえば『中公 世界の名著』のような、詳しい解説と年譜が添えられた代表作アンソロジーがあれば足りる。そういうアンソロジーのごくごく古いものとして、『世界大思想全集』(河出書房)の端本二冊が出てきた。スピノザライプニッツ篇とレッシング・シラー・ゲーテ篇だ。高橋義孝訳の『ラオコーン』など、少々気を惹かれはするが、きっと今の私には理解できまい。古書肆に出す。