一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

師の申さく

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窪田章一郎(1908‐2001)
『窪田章一郎全歌集』(短歌新聞社)口絵より切取らせていたゞきました。

 棋士たちは、師匠から日常頻繁に盤を挟んで手ほどきを受けつゝ、成長してゆくわけではないという。入門時に顔合せをかねて、棋力・棋風を診ていただくために一局。一人前の棋士として巣立つときに、お祝いとして一局。それらを含めても、せいぜい数局だそうだ。

 入学五年目にして三年生になった夏ごろ、卒業論文は窪田章一郎先生のご指導を仰ごうと決めた。やがて志願の時期が来て、ご研究室へ参上した。西行で書いてみたかったが、なにせ眼の前の師は日本一の西行学者だ。あまりに畏れ多いとなれば、慈圓あるいはその他の新古今歌人で。心づもりといっても、いゝ加減なものだった。
 「そういう新しいところは、卒業後に自分独りでも読めるからねぇ。学生でいるうちに、できるだけ遡っておくほうがよろしいんだが」

 チッ、新古今を「新しいところ」って云われちゃったよ。度肝を抜かれて退散してから数日後、もう一度参上した。
 「萬葉前期、たとえば人麻呂で書いても、先生にご提出可能でしょうか。ご指導いたゞけましょうか?」
 上代を扱って根回しなしで提出すれば、まず山路平四郎先生か武川忠一先生へと割振られる。両先生ともご講義を拝聴していたし、尊敬申しあげてもいたが、こゝはなんとしても窪田先生に付きたかったのである。
 「それは、私でよければ、読みますけれども」
 「(シメタッ!)では是非そうさせていただきたく存じます」

 留年古参学生の強味で、最終学年に取得すべき単位など、ほとんど残っていない。我流ながら読む時間はふんだんにあった。読むほどに、萬葉は闇を深めた。じつに面白かった。ちいさな疑問が、とてつもなく巨大な難問に思えてきて、身動きがとれなくなったりする。停滞足踏みし、グロッキー状態となって息も絶えだえ。助けを求める気持で、師を訪ねた。
 正門から研究棟へは坂道を上るのだが、足が重い。

 「人麻呂と他の萬葉歌人とのあいだには、根本的な相違があると見えてしかたありません」
 「そうでしょうねぇ」
 「えっ?」
 相当挑発的な暴論をぶつけて、師から多くの解を引出そうとの心づもりだったのに、あっさり同意されて拍子抜けというか、面喰った。
 「時代の、用字・用語の、技法の相違などは、ことごとく注釈書にて解明されておりました。賀茂真淵佐佐木信綱や、お父上窪田空穂先生の註釈に歴然としておりました。ですが人麻呂と、後年のたとえば山上憶良との歌のスケールの違いは、解明されません。先生、なにがこうも違うのでしょうか?」

 この不出来な学生に、どう云って聞かせたら解るだろうかというように、師はしばし黙された。
 かなりの頻度で、タバコを喫むかただった。といっても二服、多くて三服吹かしてはもみ消される。大型の灰皿に、長いまゝの吸殻が菊花模様のように丸く並んでいた。
 たおやめぶりと申そうか、物柔らかに、やゝ女性的な言葉遣いをまじえて話すかただった。にも拘らず、息詰まるほどの存在感があった。窪田空穂のご長男で、物心ついたときから、土屋文明だろうが折口信夫だろうが、父と同じ学者歌人のオジサンと視て育った人だ。
 「歌心(うたごころ)が違うわけねぇ」

 たったそれだけ? この数週間、組上げてはご破算にしてきた我が思索と仮説のあれこれは、いったいなんだったのか。
 「歌心かぁ……」
 ほとんど気もそゞろで、正門への坂道をふらふらと下った。

 数か月後に、また難問が出現した。かなり逡巡した揚句、師を訪ねた。
 「巻●の●番は、古来名歌とされ、遠く離れた巻●の●番は、他の人麻呂歌と一緒に、屑籠にまとめられたような扱いです。情景は同じ、詩情も同趣、用字・用語も似かよっております。同時に、もしくは相前後して詠まれた歌と思えてなりません」
 「そうでしょうねぇ」
 「えっ? でしたら先生、一首は目立つ位置に置かれた名歌、もう一首は屑籠。どこにそれほどの差があるのでしょうか?」
 このときも師は、タバコに火を点けられた。
 「調べ(しらべ)が違うわけねぇ」

 「調べかぁ……」
 この日も私は、ふわふわした気分で、坂道を下ったのだった。

 私が師から対面でご指導いたゞいたのは、初めの志願面談を除けば、都合三回に過ぎず、うちの二回が、「歌心」と「調べ」である。
 パイドロスのように、ソクラテスから膝詰めで懇々と教わる機会はなかった。だからでもあるまいが、その後も何十年か遠回りした。ずいぶん手間が掛った。
 今は解る。いや、師の仰せのごとくにではあるまいが、私流に解る。歌心が断然違う。調べがかなり違う。一目瞭然だ。ほかの云い表しようは、ない。

 「歌心」と「調べ」たった二語か。なんぞとおっしゃるかたは、文学には不向きである。私にとっては、師から授かった巨きなご恩であり、その後長く私の根幹を支えてきてくれた珠玉の財産だ。多くの学生がお慕いする人気教授であられたが、私ほど貴重なお教えをいたゞいた弟子が他に何人あったことかと、密かに己惚れている。
  

気の毒

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プラトン(前427ころ-前347)

 美しい青年は得であるか? 師から、より多くのことを、授けていたゞけるものなのか。だとしたら俺は……。

 プラトンに『パイドロス』という、お奨めの問答篇がある。さほど長くもなく、読みやすい。有名な『パイドン』とは別物である。『弁明』『クリトン』とは違って、入門篇として教科書に採りあげられたりはしないが、面白さでは引けをとらない。

 「だれかと思ったら、そこへ行くのはパイドロスじゃないか」
 「いゝところでお会いしました、ソクラテス。かねがねお噺を伺いたかったのです。これからお時間ありますか?」
 「私は若者とトークすることが、なによりの愉しみなんだ。ましてや君のような美しい若者から誘われて、この私が、ことわるはずがないじゃないか」
 この辺が、ちょっと怪しい。教科書に採りあげられないのは、案外この辺の事情かもしれない。

 小高い丘の大樹の根かたに、二人は腰を降す。近くを川が流れ、気持よい風が渡ってくる。この日のソクラテスはノリノリで、興味あるQ&Aがいくつも交されるが、なかにこんなのがある。好きな箇所だ。

 「文字というものはエジプト人の発明と聴きましたが、それ以前の人たちの暮しは、さぞや不便だったことでしょうねえ、ソクラテス
 「いやいやパイドロス、そこは考えものだ。どんな時代だって、人は精一杯生きてきたんだ。文字を持ってしまった我われがその時代へ迷い込んだりしたら、そりゃ不便だろうさ。けど文字という考えそのものがなかったんだ。そのなかで彼らなりに心を働かせて、全力で暮していたことだろうさ。記憶力とか理解力とか、おそらくは今の我われとは比べものにならぬほど、優れていたことだろう。不便なんぞ、感じてはいなかったと思うがね。なまじ文字を知ってしまったがゆえに、我われがかえって失ってしまったものが、大きいのじゃあるまいか」

 定年近くなってからのなん年間か、私の言葉が若者たちに通じなくて、しばしばうろたえた。また彼ら同士が交流している言葉を、傍で聴いていて、それで通じているのかと、不思議に感じる場面もあった。
 二人の作家の文章の違いはなんですか、とのお訊ねに対して、スピードが違いますと答えても、まず理解してもらえない。色彩感覚が違うでしょうと答えたりしようものなら、なおさら通じない。

 反対に、彼ってイタイ人だよねと云われても、解ったような解らぬような想いがする。ザンネンナ人だよねと云われても、同様だ。典型的にイタイ人と典型的にザンネンナ人との違いであれば、語源からの推測で、かろうじて思い浮べられる。が、その中間、境界はとなると、私には無理だ。
 おそらくは画像や映像から受取った表情なり人間像なりを、感覚的に消化した者同士が、共有するニュアンスを言葉に表して、交流しているのかと思う。視聴覚世代の到来であり、デジタル世代の到来でもある。

 ソクラテス老人のご指摘を拝借するならば、若者たちにとって私は、文字発明以前の人間ということになる。そしてイタイ人でもザンネンナ人ですらもなく、たんに気の毒な人なのだろう。

〈自由研究〉マッチ

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商品形状(左より)、ダイソー、サミットストア、ビッグエー

1.仕様・販売価格(税込)・製造元
 ダイソー:小箱6個組、110円。cf.2個当り36円67銭。(株)日東社
 サミット:小箱6個組、118円。cf.2個当り39円33銭。大和産業(株)
 ビッグエー:小箱2個組、62円70銭。(株)日東社

2、商品位置づけ・陳列棚
 ダイソー:食器や台所用品など生活雑貨の末尾(レジ直前)。
      乾電池各種・使い捨てライター等と共に、日常消耗品として陳列。
 サミット:トイレ消臭・下駄箱消臭・たばこ消臭など、芳香剤の隣り。
      線香・ロウソクと共に陳列。
      (芳香・消臭との関連性と墓参・仏壇用品としての位置づけ)
 ビッグエー:食料品のディスカウント・スーパーにつき、雑貨は本来対象外。
      わずかの陳列スペースに、洗剤類・トイレットペーパーなどと。 
      24時間営業店につき、緊急需要に応じる補充雑貨として陳列。
      

3、実質販売価格の比較考察
 (算定方式)●1着火(1本)あたりの価格を算出する。
       ●火薬部分破損による使用不能の軸(今回2本)も商品に含める。
        (今回は品質・性能の比較ではないので。)
       ●各商品1箱の収納本数を数えるが、念のため各2箱数える。
        (製造工程の誤差を考慮して。)

 (調査結果、2箱計と各箱内訳)
 ダイソー:85(43/42)  
 サミット:82(42/40)
 ビッグエー89(44/45)
 (調査所見)
 消費者の心憶えとしては、マッチ小箱は40本入り。着火ミス等の不測事故に備えて数本のイロ(おまけ)が付いている、と認識するのが相当かと思われる。

 (計算式)
 ダイソー:36円67銭÷85=43,14銭(四捨五入で、1本43銭)
 サミット:39円33銭÷82=47,96銭( 〃 1本48銭)
 ビッグエー:62円70銭÷89=70,45銭( 〃 1本70銭)
 (1着火あたりの価格結論および所見)
  消費者の心憶えとしては、市販マッチ2着火につき1円のコストと把握が妥当。
  ビッグエーは以下三点の理由により、例外価格である。
  ①もともと商品仕様が、小箱2個組で商品化されている。
  ②食品専門店であって、雑貨は例外商品である。
  ③24時間営業店としての緊急需要への対応商品である。

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4、研究余滴
 ●対象商品製造元の(株)日東社と大和産業(株)は、いずれも兵庫県姫路市に本社があり、関連会社と販売網にて全国展開している会社である。
 ●両社共通の営業品目は、マッチを中心に、ポケット・ティッシュ、団扇、紙おしぼり他、紙による生活雑貨を基礎に、販促商品・生活衛生商品の開発へと発展している。
 ●会社設立は、両社とも大正年間。ただしそれ以前からマッチ製造には従事していたとのこと。家内手工業もしくはマニュファクチュア段階の地場産業が、この地域にあったと考えられる。
 ●今治のタオル、児島のデニム等と同じく、日本産業発達史における瀬戸内地域の一事象として、注目・記録・研究の余地があろう。

5、研究後の感想(むすび)
 ●マッチを仏壇・墓参あるいは防災用品の観点からでなく、日常台所用品と捉える場合には、当然ながらチャッカマンとのコスト比較が問題となる。今後の研究に委ねる。
 ●最後に。この研究は、ほとんど役立つとは思えない。そこが眼目である。(以上)

 

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 十日ほど前に書いたはずなのに、まだブロンズ・カウボーイの動画を観ている。
 彼は通常土曜日ごとに動画アップするそうだ。二〇一四年からの動画が拾えるところをみると、ウェブ上にいったい何百の動画が浮んでいるものか、数えられない。しかたなく、高評価ボタンをクリックして、未見動画と一度観たものとを識別できるようにしている。
 いかほどの腕前をもった、いかなる芸人さんかは、とうに承知した。飽きないのは原則一回限り登場して二度と現れない、観光客たちである。

 アリゾナ州、オールドタウン・スコッツデイルという街らしい。州都フェニックスからやゝ北に位置するスコッツデイルは、最新設備のホテルからゴルフ場まで完備した、大きな近郊リゾート地だという。その外れにオールドタウンという観光風致地域があって、西部および南部の旧い街並みを愉しめる一画があるようだ。
 レストランやカフェの造りも、わざわざ古風に統一されており、土産物店が並び、郷土博物館らしき施設も見える。のどかなバスが地域内を循環し、稀には馬車まで見える。日本の歴史観光地に人力車が辻立ちしていたりするのと同じだろうか。

 いかに多民族国家アメリカ合衆国とはいえ、動画に登場する観光客たちがあまりに多彩であることに眼を視張っていたのだったが、アリゾナと知って得心がいった。
 アリゾナといえば、カリフォルニア南端の東側に隣接する州だ。そのさらに東はニューメキシコ州、またアリゾナの南は国境で、メキシコに接する。つまりアメリカのなかでも、ことに多民族性の際立った地方なのだろう。

 西部劇に心躍らせた少年にとってアリゾナといば、ガラガラ蛇の名所だった。メキシコへ逃れようとするおたずね者を追って、賞金稼ぎのガンマンがやってくる。テントどころか満足な敷物の持合せすらない。馬の鞍やら水筒やらを枕に、木陰で寝ていると、荒地にちょろちょろ生えた藪の中から、貝殻を擦り合せるような気味悪い音が近づいてくる。危機一髪、拳銃をぶっ放して蛇の頭を粉々にする。そんな場面を何度観たか知れない。

 今では州都フェニックスは人口において、ニューヨーク、シカゴ、ロサンゼルスをもはるかにしのぐ、全米一の大都会だ。その近郊に、テーマパークのような一画があるということらしい。
 土産物屋の店頭には、メキシコ風の柄や色合いの衣類や布類が積上げられ、先住民族風のアクセサリーがぶら下っている。歩き回る観光客も、白人・黒人・先住民族系・メキシコ系、それにアジア系の姿もある。ドッキリ! を仕掛けられて思わず「あゝびっくりした」と呟いて歩み去る客もあった。これらの人びとが驚いて絶叫する姿、身を揉んで笑い転げる姿、感動したり悦んだりする姿が、観ていて飽きない。

 ある出版編集者に急用が発生して、待合せ場所に横光利一を一時間も待たせてしまったことがあったそうだ。駅だか百貨店だかの階段脇だった。いかに温厚な横光先生とはいえ、さぞやオカンムリに違いなかろう。きついお叱りを覚悟して、息せき切って駆けつけた。ところが横光利一は近くのベンチに平然と腰掛けて、階段を降りてくる人並みを、一時間ずっと眺めていたそうだ。
 「君ぃ、人間の顔というものは、じつにいろいろあって、飽きないもんですねぇ」
 その日、打合せのあいだじゅう、横光はしごく上機嫌だったという。

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 ひととおりでない人生を歩んできたことだろう六十歳前後のご婦人も、驚き、笑い弾ける瞬間には、初めてボーイフレンドとデートしたときと、たぶんあまり変らぬ表情を見せる。
 笑いとは不思議なものだ。そして横光利一の云うとおり、人間の顔とは、じつに飽きないものである。

ところで×2

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『地の群れ』ATG機関誌(パンフを兼ねる)とチケット半券。熊井啓監督作品(1970.1.)

 慎重に考えたら何も云えなくなってしまう。それは不誠実だ。チャランポランに考えてこそものが云える。それが誠実というものだ。

 映画『地の群れ』の原作は井上光晴の同名小説。この作家と作品については、こゝでは語らない。戦後(昭和後半)文学史においてあまりに重要な作品につき、ことのついでに語れるような作品ではないからだ。

 長崎県佐世保で、少女強姦事件が発生した。診察した医師とその家族を軸に、背景があぶり出されてゆく。
 海沿いのじめじめした埋立て地域。荒涼として町の整備計画も手つかずのまゝで、貧しい人びとの巣窟と化している。ケロイドを隠し、肉体の不調を抱える原爆被爆者たちが、寄集って暮している。付近には、古くからの被差別地区がある。また在日外国人たちも暮している。米軍基地もある。刑務所もある。それでいてカトリック教会もある。

 日本のおゝかたが戦後復興を謳うなかで取残され、それどころか蓋をされ見捨てられ、しわ寄せとも犠牲ともなってきた、猥雑性と聖性とがゴッタ煮になった地帯だ。
 貧しき者・弱き者たちは、互いに身を寄せ合い助け合うか。そんなことはない。反目し合い、差別し合う。そんな中で、被差別地区の可憐な少女が、被爆者集落の青年から強姦される事件が起きた。怒りはいずこへ向かってゆくか?

 被害娘の母は身の危険をも顧みず、日ごろ余人が足を踏み入れることなどありえない集落へと、単身で怒鳴り込みにゆく。
 ――あたしたちが部落なら、あんたたちは血のとまらん腐れたいね。あたしたちの部落の血はどこも変らんけど、あんたたちの血は中から腐って、これから何代も何代も続いていくとよ! 嫁にも行けん、嫁もとれん! しまいには、しまいには……

 劇団民藝にあって、幾多の激しい台詞を口にしてこられたろう北林谷栄さんだが、これほど凄まじい台詞は、他にあったのだろうか。
 この母がいかなる目に遭ったかは、これから作品をご覧になる、また原作小説を読まれるかたのために、お預かりしておこう。
 さらには被害者の娘自身が、母の身に降りかかった顚末を引起した元凶は、加害者たちというよりも、じつは我が集落の古老たちの意識だと気づいて非難する場面は、今もって深く深く考えさせられる。

 ところで『地の群れ』原作にも映画にも、今では使用に細心たらねばならぬ語や言回しが、たくさん出てくる。いわゆる「炎上」の突込みどころ満載である。
 が、言葉に罪はない。言葉狩りはナンセンスである。臭いものに蓋をしたところで、我ら庶民の性根が改まるわけではない。それどころか、考えて気づくきっかけを失ってしまうことにすらなりかねない。
 じかに対面する相手を気遣う場合以外は、私はチャランポランでゆく。

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 被害に遭った少女を演じた準主役の紀比呂子(きのひろこ)さんはこの時、まだデビュー間もなかった。テレビドラマ数本に顔を出していた程度ではなかったろうか。
 目鼻立ちのくっきりした聡明そうなお顔立ちで、色気とか女性らしさというよりは、さっぱりと清潔な感じの少女だった。
 三條美紀さんの娘さんだ。お母さんも、眉毛に賢さが滲み出るような、独特な眼ぢからを失わぬ女優さんだった。それでいてお齢を召されてからも、中年女性の知的な色気が匂い立つようだった。時代が違うと申せばそれまでながら、色気という点では、お若い娘さんより、お母さんのほうが上だった。

 だがこの娘さんは、熊井啓監督から大役に抜擢された直後から、テレビドラマの当り役が続き、あっという間にお茶の間人気抜群の娘女優となった。文句なしに、息子の嫁にもらいたい女優ナンバーワンだった。
 それから十年ほどで、もう存分に仕事したとの思いだったのか、結婚を機にあっさり引退してしまわれた。惜しむ人はさぞ多かったことだろう。

 ところで、紀さん主演のドラマにあって、そのお友達という役どころで、ちょこんと出てくる若手女優さんがあった。紀さんに較べると、たゞ笑顔が可愛いだけの、まだ摑みどころのはっきりしない新人女優と、観られていたかもしれない。
 いやいやいや、この娘のほうがいゝんじゃねえのと、例によって脇役探しが趣味の私は、密かに記憶し、その後を注目した。
 案の定、彼女はその後も息長くお仕事をされた。今の池上季実子さんである。べつに自慢げに申すことでも、ないけれども。

カケガネ

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 門扉のカケガネが合わない。我が家の下、地中では、なにが起っているのだろうか。

 夜の音に、じっと耳を澄ませて過すことがある。真夜中は深閑として音もないなどというのは嘘で、じつに多くの音が聞えてくる。夜間ならではの音というわけでもない。昼間も音は鳴っているのだろうが、気づかずにいるだけだ。

 自動車が通る。日昼であれば聴き過しているのに、軽自動車かトラックかまで区別がつく。
 筋向いのマンションのどこかの部屋から、外国語の夫婦喧嘩が聞えてくる。この時期はめっきり少ないが、温かい季節には窓を開け放しているものか、頻繁かつ派手だ。
 裏の児童公園のベンチからも、声が届く。酒気帯びの高笑いもあれば、携帯電話の長話もある。外国語の通話も混じる。
 隣接するコイン駐車場には、仮眠または休息のかたでもあるのだろうか、夏は夏なり今は今なりにエンジンかけっ放しの音がする。早朝五時に出てゆくトラックや大型のバンなど働く車たちには、前の夜から泊り込むドライバーさんもあるらしい。
 いずれも地域社会の、人間生活の音だ。

 家内の音も、深夜は耳につく。旧式の冷蔵庫は突然びっくりするほどの音をたて、しばらくしてやむ。足温器サーモスタット効果で時どき鳴る。電気ストーブも鳴っている。エアコンというものを放棄して何年にもなるが、エアコン対ストーブ・足温器連合軍とでは、音の面ではどうなのだろうと、埒もないことを考えたりする。昼間は気づかぬ掛時計も、意識して聴くと鳴っている。いずれも正当な理由ある、生活機器の音だ。

 強い風が吹いてくると、裏口の扉がガタつく。外では門扉もガタついて金属音をたてる。あっちもこっちも、わずかづつ寸法がずれて、噛合わせが甘くなってきているのが判る。
 得体の知れぬ音に、気味悪くなることもある。乱雑に積上げられた書籍や書類などが、不自然な重心に耐えかねて、わずかに滑ったり崩れたりするらしい。明日出す予定のゴミ袋や、近日ランドリー行きの洗濯物袋が、音をたてることもある。
 いずれも音量としてはかすかなものだから、昼間であれば気づかずに過ぎているのだろうが、深夜にあっては妙に驚かされる。

 家が鳴る。これは怖い。内装の木材の継ぎ目がきしむのだろうか。壁がわずかにたわむのだろうか。それとも柱がゆがむのだろうか。六十三年前、川岸だったこの辺りの土地は緩やかなに傾斜していたのを、盛り土して整地し宅地化した。名残で、拙宅と街路には今も、わずかながら高低差がある。
 地中では六十三年間、いかなることが進行してきたのだろうか。植物たちが根をはびこらせ、毎年水分養分を吸上げては枯れていった。ミミズや土蜘蛛はじめ地中動物たちや微生物たちは、絶え間なく活動し続けてきた。その結果、現在の地中組織と成分とは、どのようになっているのだろうか。空洞でも、できていなければよいが。

 何年も前から、かすかな地盤沈下やひずみが露わになってきている。
 そこへもってきて、隣近所は時ならぬ解体ブームであり、普請ブームである。東京都の耐震・防災計画の一環としての、道路拡幅事業だという。お上にとっては耐震・防災に違いあるまいが、近隣地主さんがたにとってはビジネスチャンスだ。たとえ再開発に直接関わっていない土地であっても、将来の町内地図を念頭に、資産価値を高める構想へと走る。

 私は未来になにを残そうでもない。人並み以上に裕福な老後を送りたいわけでもない。中の下か、下の上の最期で結構だ。
 取残されたボロ家は、ひずみの進行を加速している。今年から、門扉のカケガネがはまらなくなった。


 

じつはすでに

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ATG機関誌(プログラムを兼ねる)、チラシ、半券(1966.7.11)

 心に刺さった小さなトゲが、人の一生を左右する。

 映画史に暗い高校生でも、『市民ケーン』の題名は知っていた。めったに上映される機会のない、旧い名作だと聴いていた。なんと、昭和十六年に製作された作品だ。日米開戦直前のこととて、日本の庶民に公開されたのかどうかは知らない。
 さすが、アートシアターはありがたい、などと考えて入館した記憶がある。
 
 二十五歳になったら途方もない遺産を相続することと引換えに、親からも無邪気な雪遊びからも引離され、孤独な英才教育下に置かれた少年の、その後の一生。彼は膨大な遺産のうち鉱山事業にも工場経営にも不動産業にも興味を示さず、新聞事業のみを相続した。
 権力に気遣って尻尾を振る新聞が横行する時代に、彼の新聞は歯に衣着せず不正を暴き、権力者をこき下ろした。大衆人気は沸騰した。反面どこかしら、大衆を自分の目的実現の道具と視ているようなふしもあって、解りにくい男だった。
 巨万の富を築いて時の人にのし上ったものの、権力者からは共産主義者とのレッテルを貼られ、労働組合からはファシストとのレッテルを貼られた。

 歿後、後輩の新聞人たちは、彼ケーン氏とはいったい何者だったのかと、その人間像探求のプロジェクトを立ち上げた。ことに臨終のきわに呟き残した「ローズバッド(バラのつぼみ)」との謎めいた一語の意味が詮索された。
 旧い後見人や相棒や部下や使用人、最初の夫人(大統領の姪)や二人目の夫人(歌手)らに面会・取材して歩く。『舞踏会の手帖』みたいな構成だ。しかしついに突き止めるには至らなかった。

 取材チームのキャップ「すべてを手に入れ、すべてを失った男だ。バラのつぼみもそのひとつに過ぎなかろう。そんな一語で、人の一生が説明できるものでもあるまい」
 博物館五個分とも云われる膨大なコレクションが館から運び出され、これまた大量のガラクタ類が巨大な暖炉に次つぎと放り込まれてゆく。
 「そんなものも、燃やしてしまえっ」
 子どもが雪上で遊ぶソリが、火にくべられる。めらめら燃えてゆくソリの表面には、紅いバラのつぼみの画が描かれ、ローズバッドと書かれてある。雪深い北の町で、貧しいながらも母と暮していた少年が、愛用していたソリだった。
 ケーンは、世の人びとが口を揃えるような、すべてを手に入れた人ではなかったのだ。

 高校生には、難解な映画だった。当然である。アメリカ史についても、世界恐慌についても、新聞界についても、なんの基礎知識も持合せなかったのだから。
 だが幕切れのソリの画の意味は、理解した。おもて向き理屈っぽいことを云ったところで、人の心の奥底に引っ掛っているのは案外そんなものだ、というふうに。

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 今、観なおしてみると、内容もさることながら技法的にも、これは大変な傑作だ。レンズの絞りを目一杯絞って(そのぶん光量を極端に上げなければならない)、手前と奥の双方にピントが合うように撮る、パンフォーカスという撮影法はこの作品が最初とされているのは有名だが、それだけではない。
 ワンカットがとにかく長い。説明的なクローズアップを挿入することはない。役者たちは、舞台での芝居のように、むずかしい台詞の掛合いも微妙な表情も、一気に通す。とんでもなく緊張感に満ちた撮影現場だったことだろう。

 『市民ケーン』を観た溝口健二は、「アメリカにぼくの真似をした奴がいる」と云ったそうだ。『元禄忠臣蔵』のころ溝口組で美術を担当していた新藤兼人さんが、証言しておられる。そう思って観れば、『雨月物語』にも『山椒大夫』にも、『赤線地帯』にだって、画面には似た匂いがあるかもしれない。

 ところで、母親と幼少風土とから切り離されて、自己中心的な愛情乞食の怪物に育ったケーンの前に「市民」と付いているのは、なぜだろうか。
 西ヨーロッパなりイタリー・スペインなりアフリカ諸国なりから、なんらかの意味で切り離された人びとであるアメリカ国民は、多かれ少なかれ「ケーン」なのだとの見立てではあるまいか。
 とするならば、グローバル化とか外国が近くなったとか、帰化外国人による国民多彩化とか英語教育が早期化したとか、美味しそうなプラス面の背後で、旧弊日本人のケーン化という問題は、発生しないのだろうか。日本が表面上日本であり続けてはいても、じつはすでに日本ではないというような問題が。