一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

宴のあとの宴



 こんな感じだろうか。ヤマ勘でかつ丼を作る。初挑戦だ。

 ビッグエーには、お弁当なんでも298円という棚がある。たまに利用するとしても、俵おにぎり弁当か、ミニ助六寿司か、せいぜい海苔弁当だ。ハンバーグ弁当、唐揚げ弁当、ましてやヒレカツ弁当となっては、その値段で所望する当方に誤りがあるだろうと思えて、これまで手を出したことはなかった。にもかかわらず一昨日、ついにヒレカツ弁当を買った。翌日には、台所などしている時間はなかろうという予定が控えていたからだ。
 しかし現実はもっと厳しかった。ゲン担ぎのメンチカツサンドを買い食いして第一食とするのが精一杯で、第二食のゲン担ぎ候補であるヒレカツ弁当に手を加える時間など、とうてい捻出できなくなった。お役目のギリギリまで、準備に時間を盗られてしまったのである。しかもお役目の興行の後は、当然ながら宴会となる。夜更けて帰宅してから、自炊という気にもさすがになれない。ヒレカツ弁当は二日間も、わが冷蔵庫で休むこととなってしまった。

 三日目の弁当を、白飯と小型のカツ三片とを分ける。他になにも付合せのない超シンプル弁当で助かる。黒胡麻を振られた白飯には、霧吹きするようにかすかに水で湿らせ、ラップして電子レンジにかける。
 小丸フライパンに出汁を張り、酒と砂糖とを投入。煮立ち始めたらスライス玉ねぎと小口切り竹輪とを投入。玉ねぎへの火の通りを看ながら、醤油を差し、ヒレカツなるものをひと口大にカットして中央に置く。さらに煮立ち加減を看ながら、溶き玉子を周囲に回して、蓋を閉じる。
 丼に盛った白飯上へと移す適当な器具がないので、油切り用の網杓文字で代用してみたが、懸念どおり形が崩れた。
 ビギナーズラックというべきか、すべてヤマ勘で進行したわりには、視た眼はともかく味加減は悪くない。しかし同じ加減をもう一度繰返すことはできない。
 なにはともあれ、スーパーの弁当は生ものでさえなければ、翌々日までは大丈夫だとの証明にはなった。


 ところで興行には、珍しいかたもお運びくださった。かつて池袋のジャズシーンを牽引した伝説の「ケニーズバー」のマスターご夫妻だ。奥さまからは、みずからお手製のおはぎと白あんとをいただいた。私をベタな甘党と目されて、「ちょいと塩を利かせ過ぎたかも」とのご口上付きだったが、とんでもない。私は塩あんだって、大好物なのである。白あんのほうは、どれほど裏漉しすればこうなるものかというほど、きめ細かくクリーミーだ。大匙で舐めてしまうのがもったいない。こちらも塩が利かせてある。


 お若い友人のお一人からは、馴染の浅草今半の佃煮を楽屋見舞いとして頂戴した。
 人さまへのお使い物として常用する浅草今半の商品を、自分ではめったに食したことがないと、以前の日記に書いたことがある。彼はそれをお読みくださったのだろう。だったら食わせてやろうとの、お心遣いだろう。
 別のお若い女性の友人からは、沼津からの帰りだといって、西伊豆郷土料理と銘打たれた塩鰹の茶漬けを頂戴した。茶漬けの素にも、フリカケにも、酒の肴にもなる重宝な一品らしい。たいそう塩がきついから気をつけよと、商品説明書に書かれてある。塩鰹の知識は皆無だが、視くびられては困る。村上の塩引きを知っている年寄りだぞ、こちらは。 

 たくさんのいただき物をするようになった。齢をとったせいだろう。
 若く威勢の好かった時分には、なかったことだ。通販会社のコピーライターとしても、零細出版社の社員としても、下請け穴埋めの原稿書きとしても、著者や依頼主や取引先への気遣いや心くばりをすることこそあれ、人さまからお気を遣っていただける身分だったことなど、一度もなかった。
 近年はどちらさまからも、なにかと好くしていだだける機会が増えた。これは齢のせいであって、自分の実力ではない。包装紙をほどくたびに、また包みを開けるたびに、そう思う。

最後の虫干し



 本番90分前。荷物の用意と身支度とを了え、楽屋へと移動する。文字どおりの楽屋なんてもんは、もちろんあるわけがない。いつもの店の、いつもの席だ。エル字カウンターの曲り角の席だ。会場からは、眼と鼻の近所である。
 カルピスソーダ、ポテトサラダ、ニラ玉。仕事までの時間待ちだからと、店長に云いわけしてからの、ノンアルコール入店だ。

 ご来場のお客さまに配布予定のレジュメ(というか目次書き)を点検しながら、本日興行の粗筋と重点とを確認する。演し物は川端康成。ただし文学論に傾かぬよう要注意だ。あくまでも酒場にして食堂である会場へとお越しくださったお客さまへの、宴会前の余興としてのトークである。お示しする川端肖像写真の拡大コピーも用意した。


 R18指定めいた噺も混じる。読者を惹きつけるために作家が仕掛けた、必死の手管に関する噺も混じる。採り上げる作品が『雪国』である以上、映画作品ほかによって世間に流布する世界と原作小説とのあいだには、かなりの相違があると言及しないわけにはゆかない。
 この作品を構想したのは、ノーベル文学賞に輝く「巨匠川端」なんぞではなくて、今後の生涯を小説家としてやってゆくためにはと思案する、野心も不安も満々の気鋭作家だったのだということを、文学専門外のお客さまにもぜひとも感じていただきたい。その点を呑込んでいだだければ、さまざまなご職業に就き、あるいは子育てに奮闘中のかたにも、この作品がお解りいただける。それが私の願いでもある。
 さらに加えて、今でこそ名作として崇め奉られ、それどころか語り尽された古めかしい物語とまで思われかねぬこの作品が、当時にあってどれほど新しい芸術観に支えられてあったのかも、ご理解いただきやすくなる。

 幸いにして、多数のお客さまが越しくださった。主催者のご店主さまの思惑が、なんとか満たされた会にはなった。懸念したとおり、喋くりは下手くそになっていた。どうしてみようもない。
 終了後、椅子ばかりにしてあった店内に長テーブルを戻し、酒場仕様に復元させて、お客様がた相互の交流会となった。世代も職業も異なるかたがたが、あちらの三人組こちらの四人組と分れたり、ときに入替ったりしながらの自由宴会の風景は、好ましいものだ。トークライブに起用していただく悦びは、これに尽きる。

 演し物は旧いネタだ。いわば虫干し興行である。とあるトークライブで『雪国』を扱ったさいの音源が CD として残っている。むろんプライベートディスクだ。そのときの主催者さまが録音してくださったものだ。日付は、2006年9月である。
 20年前はもっと下手くそだった。しかし声は、今よりもはるかに聴き取りやすかった。つまりは、齢をとっただけで、たいして上手くなってはいない。
 川端康成について私見を語るなんぞという機会が、ふたたび訪れるなどということはもはやあるまい。おそらくは、これが語り納めだろう。これより上手くはなれなかった、ということだ。

涼しい朝



 涼しい朝だ。そよ風も吹いて、肌寒ささえ覚える。

 君子蘭の花がしおれてから、もうなん日にもなる。傷みの目立つ葉はそのままなのに、花茎だけが軟弱になるらしく、地に横たわってしまった。断続的に降り続いた吹き降りにやられたのかと思って、引起してみた。どうやら私の浅はかだったらしい。花茎だけが地に横たわるのは、彼女らの予定の行動だったらしい。
 花の跡に、果実のごとき玉っころができている。茎が地に横たわると、これが茎の先端から離れて、着地するらしい。運好く着地場所に恵まれれば、新しい球根を形成することにでもなるのだろうか。引起した茎の先からすでに玉っころが離れて、切株のような断面となっている箇所もある。なるほど各人各様に、作戦の玄妙というものはあるもんだと、舌を巻く想いが湧いた。
 すでに地に横たわって、役割のおおかたを了えつつある茎を引起してみたところで、自力で立ってはいられない。わがステッキを支柱として無理やり危うい立ち姿にさせて、手速くシャッターを切る。いい加減な支柱などをかわして、すぐさま横たわってしまうからだ。


 今朝、玄関から出てみると、門扉のすぐ内側で、ムラサキゴテンの一叢がいっせいに開花している。繁殖力・移住力の旺盛な種族だから、飛地のごとき小規模な群叢はあちこちにある。だが他のどこも開花していない。門扉内側のこの一群だけだ。
 この連中は、壁ぎわや塀ぎわ、段差のある窪んだ角などに茂る。背後が遮られてあることが安心なのだろうか。風通しの方向が限られてあることを好むのだろうか。人間や動物たちが歩かぬ位置を選んでいるのだろうか。それとも地下に埋設された土台を伝って移動するように、棲息圏を拡大しているのだろうか。
 この連中の茎は、節で連結したような構造で伸長していて、草むしりに遭っても、ポキポキ折れる。地上部の葉がむしられることはあっても、地下部分は巧みに温存される。けっして根絶やしにされぬための、老獪な構造を進化させてある。
 また葉の色合いが独特で、空間を彩るアクセントとして他に換えがたい存在感を示してくれるので、当方としても血相を変えて根絶やしに務めるという気にもなりにくい。立地条件の選択と心理作戦との両面において、生存の知恵に優れた連中だ。

 命であるからには、いずれの連中にも固有の作戦がある。作戦は密なるをもって良しとす、ということか。


 さて今日は、お役目の出番の日だ。ご近所のベーカリーにて、ゲン担ぎのメンチカツサンドを買う。今日の相方はツナマヨパンとした。

 準備はまだ完了していない。夕刻の本番までに、用意しなければならぬ事や物がある。なんとかなりそうだと、目算を立ててはあるのだが。
 この日記は、予約投稿機能を用いて、後刻投稿の手筈とする。投稿されるころには人さまの前で、恥知らずな駄弁を弄しているはずだ。

一夜漬け



 台本を書く。久しぶりだ。魂消るほど下手くそになっている。

 人さまの台詞ではない。自分で喋るトークの筋立てと要旨だ。思い出しメモである。
 かつてであれば、数日前にできあがっていた。それについてぼんやり反芻したり推敲したりの数日を過した。最近は駄目だ。いったん仕上げた筋立てを忘れてしまう。辿り直そうとすると、また組立て直しになってしまう。つまりは認知症の症状だ。
 だったら前日に迫ってから渾身の集中力をもって一気に台本化し、その集中力の持続のままに本番へ突入してしまったほうが、まだマシだ。出たとこ勝負のアドリブだって、そのほうが成功しやすかろう。もともと台本化できぬからこそのアドリブではないか。ボケた頭から咄嗟に浮び出るボケだからこそ、まことのボケではないか。耄碌の滑稽さを露わにさらけ出してこその、老人トークではないか。近年にいたって、さように考えるようになった。老化に抗いきれぬようになっての、居直りである。

 とはいえ主題については、なん日も前から考え続けてはきた。思い出そうともしてきた。旧いタイプの思索者だから、頭に浮んだ言葉を文字に書きながら辻褄を探ってゆかなければ、論旨が集約されてこない。プリンターの足もとに無雑作に積みあがった反古紙をひと掴み取って、裏白に書き連ねながら考える。
 本線の組立て。脇筋への脱線と省略。理解を助ける対照例の提示。参考文献や関連逸話の紹介。思い出し始めると、きりがない。他人には判読できそうもない乱暴な走り書きによるメモが、枚数ばかり増えてゆく。これらをすべて喋るとなれば、三時間も四時間もかかるだろう。しかも密度が薄い。あまりに冗漫だ。与えられた出番はせいぜい八十分だ。
 そのうえ聴いてくださるお客さまは、文学部の学生ではない。作家志望の若者でもない。ご職業に就かれる社会人か、かりに若者であっても他分野に志を抱く若者たちだ。お勉強も教訓も要らない。愉しくなければ「噺」じゃない。お勉強と勉強とは違う。


 今日一日は、台本に集中しよう。炊事も草むしりも厳禁だ。暮しの雑用はいっさい無視だ。ビッグエーで明太子おにぎり一個とお~いお茶とを買って、電車に乗った。
 練馬では、跨線橋型の空中公園へと出る。中央付近に喫煙スペースが設置されてある。橋上の定点観測スポットから、つつじ公園のケヤキ群を遠望する。変りない。とあるベンチで弁当を使いながら、鳩たちにおこぼれを撒いている老人がある。八十羽ほどの鳩たちが、彼を取巻いている。以前にもお見かけした記憶がある。
 離れたベンチに腰を降して、私も明太子おにぎりを食う。めざとい鳩が三羽、私の周囲にも近づいてきた。こちらを観察している。眼が合った。私はおこぼれを撒いたりはしない。睨めっこの時間が一分近くあって、当方を値踏みし了えたものか、また定連の老人のほうへと、鳩たちは離れていった。

 ドトールに入店する。アイスティーとベルギーワッフル。ミルクではなく、レモンのミニカップを選ぶ。さっきのおにぎりとワップルとで、本日の第一食に代える。
 台本に集中する。一時間ほどで、かなり削ぎ落せた。ひと休みだ。ドトール各店には喫煙ブースが設けられてあるので、助かる。
 読みかけの文庫本から、短いものを二篇読む。巧みな文章は、こちらの頭まで整理してくれるようだ。台本に戻る。あと一時間で、眼鼻がつくだろう。となれば、清書して入力だ。夕刻までは間がある。外はまだ暑そうだが、いったん帰宅せねばならないだろうか。そうなれば、またビッグエーに寄って、ボックスティッシュを買って帰らねばならない。
 一階の退店口へと降りる。螺旋階段だ。これまで無意識に昇り降りしてきた。どういうわけか今日に限って、眼を惹かれる。つまりはこういうことなんだよナと、自分でも説明のつかぬ感慨が湧いた。

たった七十年



 深夜に降り始めた雨が、大雨とはならなかったもののそのまま降り続き、夕方に止んだ。涼しい一日で、助かる。家でじっとしている。
 そうなればなったで、稲の作柄には障りがないか、葉物野菜は大丈夫なのかと、生産に従事した経験もないくせに、気がかりになる。生意気なもんだ。

 わが町に一棟だけ、高層マンションがそびえている。住人だと名乗るかたと、顔を合せたことはない。異なる生活サイクルのかたがたなのだろう。
 西武線池袋駅のホームから地下改札口への階段をくだろうとすると正面に、内からの光線に派手な色彩を放つ大きな広告板が、いやでも眼に入る。わが町の高層マンションだ。青空にそびえる全景の写真が、近未来の宇宙都市のようだ。
 半年も一年も掲げられっぱなしだということは、今でも入居受付中なのだろうか。それとも市場価値や評判を維持するために、取引き不可能でも広告だけは続けているのだろうか。
 わが町の駅周辺や商店街界隈には、再開発の噂が絶えない。西武鉄道や開発会社や不動産会社による巨大な思惑が、激しく交錯しているのだろう。地べたのわれら平民の耳目に届かないだけだ。十年後二十年後には、今そびえているマンションが目立たなくなるほどの景観を呈するようになるのだろうか。
 京王プラザホテル一棟だけが弧峰のごとくにそびえていた、新宿駅西口から視た風景を、今でも憶えている。孤峰状態がなん年かあってから、住友三角ビルが建ち、三井青ビルが建ち、さらになん年かして変な双子ビルが建って、都庁が引越してきた。
 サンシャインシティービル一棟だけが孤峰のごとくにそびえていた、拙宅物干しから視た風景を、今でも憶えている。孤峰状態がかなり続いてから、周囲にあれこれが建ち始めた。今では拙宅東方に高層ビル群が遠望でき、サンシャインはそのうちの一棟に過ぎない。

 町は、そこで活力をもって暮す住民がたのものだ。もちろん新たなご商売人や、この町で子育てなさる新住民がたをも含めて。そのかたがたのご都合と、意思と美意識とによって、いかに変貌してゆこうとも、老人が口出しする筋合いではない。当りまえだ。
 ただ、ここはこんな町だったんだがなァと、後ろを向いて呟くくらいは許して欲しい。けっして人に聴かれる声は発しないから。たとえば――。

 仕舞屋に、シャッターが降りている。この場所にはかつて、帝国銀行の支店があった。ある日、保健所職員を装った男が来行して、疫病予防の消毒薬と偽って毒を服ませ、十二人の行員を殺害して金を奪った。昭和二十三年(1948)のことだ。
 犯人とされた男には死刑判決がくだったが、終始一貫無実を主張。刑は執行されぬまま、男はその後の長い生涯を獄中に暮した。真相は、今もって謎だ。


 わが町の神社は、近在の末社を統括する格付けの社で、今も九月第二週末の祭礼には、歩こうにも身動きとれぬほどの賑いとなる。少し離れた隣町の落合に育たれた泉麻人さんも、幼少期にはここまで遊びに来られたそうだ。

 江戸時代には安産や子育ての守り神として、庶民の信仰を集めたらしい。が、ご多分に漏れず明治時代となってからは、神仏分離の政策からお隣の金剛院さまとは切離され、国家神道の一翼を担う役割を果した。
 大鳥居の脇の、いわば門番の位置には「御大典記念」の石柱が立っている。「公爵近衛文麿」と彫られてある。大鳥居をくぐった先には「日露戦役記念」の平べったい大石碑が立っている。「元帥公爵山縣有朋」と彫られてある。裏へ廻ると、日露戦争へと出征した当村民の名がビッシリと彫られてある。近衛が、また山縣が、好きだ嫌いだという問題ではない。そういう村だったのだ、ここは。

 境内の目立たぬ隅っこには、参道の眼の前に鉄道駅ができた経緯が彫られた石碑が立つ。現在でこそ駅前に神社があるなんぞと人は云うが、鎮守社の鳥居前に鉄道が敷かれ、あまつさえ駅ができるなどということは甲論乙駁、村民意を二分する大問題だった。骨を折る人があり、生涯を賭ける人があって、年月をかけて駅開設へと至った。その経緯が固有名詞つきで彫られてある。

 拝殿の両脇には袖社が祀られてある。片方はお稲荷さまであり、地元でご商売なさる住民が商売繁盛を祈願に訪れる。もう片方の社の前にはこの地から第二次世界大戦へと出征して還らぬ人となった御魂が祀られ、小鳥居の脇には忠魂碑が立っている。
 日本の近現代史をどう考えるかの問題ではない。そういう先祖が、また先住民が住んできた土地なのだ、ここは。
 幾多の地層が積み重なるこの地で、かすかな表層をなす七十年ほどを、私はこの町に住んだ。そして十年後二十年後のこの町の風景については見当もつかないと、しきりにうろたえている。


 うろたえたところで、なにができるわけでもない。
 一年中カボチャを食う男を自称しながら、しばらく間遠だった。それではならじと、数日前に川口青果店に寄った。間遠だった心理的理由を考えると、どうやら歯応え口触りが、猛暑向けでない気がしていたらしい。だったらその点を中和させるには、と考えて、玉ねぎをスライスして大量に食うことにした。
 家に籠って自炊するぶんには、べつだん町の変化にうろたえることもない。

お役目ひとつ



 正しく申せば、世間さまから託されたお役目なんぞは、すでにひとつもない。自分で課して、勝手に背負ったり日延べしたり、ようやく果した気になったりしているだけのことだ。

 熊谷守一美術館へと赴いた。入館するのは久しぶりだ。いつでも行ける徒歩圏内だけに、かえってご無沙汰してしまった。
 展示作品は格段に増え、展示方法も変化していた。かつて常設展示室だった一階展示場では、あまり画集に採り上げられる機会のない初期油絵作品が、手厚く展示されてあった。世に知れた熊谷様式確立以前の、いかにもその時代の洋画常識を彷彿とさせる、茶色・琥珀色・チョコレート色が勝った諸作品が並ぶ。初めて観る作品がほとんどだ。若き日の夫人を描いた肖像画などは、ここ以外では観られまい。多くの熊谷ファンにとっても、驚きの一作だろう。工芸やブロンズ作品もあった。
 二階展示室がいわば第二常設展示場となっていて、自由無礙な熊谷様式の晩年を示す。水墨画に彩色した作品や、書が並ぶ。石から身を乗出す蝦蟇(がま)や、六羽で群なすカラスなどは、思わず足が動かなくなるほどの神品かと思える。著書で有名な「蒼蠅」の書もあった。
 三階展示室はギャラリー榧(かや)として企画展示室にも貸画廊にもなる展示場だが、今は版画による熊谷守一作品再現展となっている。木版・凸版・リトグラフという三様の版画技法により摺り出された熊谷作品が並ぶ。画集などでお馴染みの夢見るような熊谷様式の色と形については、ここでまとめて観られる。

 一階ロビーは券売カウンターでもあり喫茶コーナーでもある。久びさにゆっくりと鑑賞を済ませてから、アイス珈琲を注文した。そして退出するさいに『蟻の周辺』をお納めした。
 熊谷守一についてブログに記しおいた日がかつてあって、その日記を編集委員が選抜してくださっていた。べつだん内容に取柄のある文章でもないし、お配りした知友の外へとの拡がりが予想される文章でもないが、万々が一、いずこからか美術館関係者のお眼に着くことでもあったら、さぞやご不快だろう。笑止千万とは承知のうえで、やはり恥を忍んで、ご挨拶だけはしておかねばなるまい。文字どおり、お眼汚しである。
 刷上りを手にして以来、ずっと気になってきた。ようやく役目というか用件がひとつ済んだ。


 要町駅まで歩いて、地下鉄で池袋へ出ようとする。地下二階から有楽町線に乗るか、それとももう一段くだって、地下三階から副都心線に乗るか、面倒な駅になった。
 電光掲示によると、副都心線のほうが二分ほど早く到着する。が、それぞれの池袋駅から本日の目的地までの距離や、途中の階段やエスカレーターのありようを想像すると、有楽町線のほうが楽だ。二分差には換えられない。有楽町線を待った。

 池袋では、散髪を済ませた。私の禿げ具合、残り髪の伸び具合だと、月一度で上々どころか、やや贅沢とすら云える。四十日に一度か三か月に二度でも耐えられる。幸いなことに月に一度ていどは、どなたかとお会いしたり人さまの前へと出たりする用件も発生するから、それを目処にさせてもらうとちょうど好い。
 近ぢか、自分で自分に課した小さなお役目がある。役割が小さくはあっても、人さまを巻きこんで、お世話になって、お手数を煩わせるからには、責任は小さくない。気息を整えるためにも、散髪は不可欠だ。

 いつもならここで、冷房を求めてタカセ珈琲サロンへ直行するところだ。ところがドッコイ、今日は駅へと戻り、練馬まで。いつもならそこで、モスバーガーに立寄るところだ。ところがドッコイ、今日は西口(セイユ―がわ)改札口から出て、ブックファーストに入店。小さな買物をする。
 解りきったような小さなことでも、確かめておかねばならぬことがある。これもお役目ゆえだ。
 結局はドトールに入店。読書タイムとなる。今日の間食は、「ごろっとりんごのアップルパイ」とアイスレモンティーとなった。
 自分で自分に課すことがなければ、お役目も発生しない。しかしアップルパイの味もない。

書かれて残ったもの



 放送作家として、テレビドラマの脚本家として、すでに著名だった向田邦子が、途方もない文章家として突如姿を現したのが、第一エッセイ集『父の詫び状』だった。

 雑誌に連載された二十四篇が並ぶ一冊の末尾が『卵とわたし』だ。
 紙風船だろうが饅頭だろうが、丸いものを拵えればかならず最後の綴じおわりの跡が不細工に残る。だのに鶏の卵はなせ、完璧にツルンとしているのだろうか。子どものころから、不思議でならなかったという。小学生のころ、家でチャボを飼ったそうだが、卵を産む瞬間を視届けたさにあれこれ工夫し苦心したけれども、ついに秘密を解明できなかったという。これだけでもひとネタだが、一篇はとんでもない展開となる。
 時は日支事変が始まったころだ。児童たちは学校で、従軍兵士らへの慰問作文を書かされた。「銃後の農作業は私たちが手伝いますから、兵隊さんはご安心のうえ、どうか戦地で~」というような定型が横行するなかで、邦子少女はチャボの飼育と卵の不思議とについて、克明に綴った。
 転属もしくは一時帰国した兵士らがいく人も、革臭く汗臭い軍服姿のまま向田家の玄関に立ち、敬礼した。型にはまった慰問文を読み慣れた兵士らにとって、邦子少女の慰問文は涙が出るほど嬉しかったそうだ。感激屋にして外面のよろしい父親は、そのつど兵士らを料理屋へと招いた。物入りで困ると、母親の愚痴は止まらなかったという。

 眼に見え手に取れるがごとき具体性こそが人の心に届くと、無意識のうちに選択できる文才が、少女には備わっていたのだろう。栴檀は双葉より芳し。後年の向田邦子の文章術をも作風をも予感させる。
 その文章術は向田邦子を今なお色褪せぬ作家たらしめてはいるが、かつて邦子少女はその天分ゆえに、両親に多大なる散財を強いた。
 じつになんとも、好い噺が残ったものである。


           向田邦子 1929(昭和4) ‐ 1981(昭和56)

 テレビドラマの脚本家としての向田邦子を、むろんそれ以前から知っていた。特徴的なドラマに驚く茶の間の、私も一人だった。が、文章家としてその人に感心して舌を巻いたのは、ずっと後年だった。おそらくは四十歳前後だ。『父の詫び状』は単行本で読んだ。それからでも三十五年は経つ。
 すっかり忘れていたが、私はこの人から大切なことを学んだようだ。正鵠を射る言葉に窮するが、文章に必須なのは知識でも学識でも情報でもなく、肉眼で視て手に取って、撫でさすってみては舐めて味を確かめた具体性だ、というようなことだ。現在の私の常用語にすれば、採りあげる話題の第一次情報性・第一次資料性ということだった。

 零細出版社の社員でいながら、下請けの埋草雑文ライターとして、時たまは署名原稿の依頼もあるという頃だった。地方新聞の婦人面や家庭面に、飲み食いについてのコラム600字とか、同じく地方新聞の文化面に、新刊図書の紹介コラム800字とかが、わが舞台だった。たまに舞込む全国紙の書評面だの、文庫本の後付け解説などは、私にとっては大舞台だった。
 そうした稼業においては、たとえどんな短い雑報記事にあっても、へぇそんな物があるのか、そんな事があるのかという、読者にとって些細ではあっても耳寄りな具体的事実をひとつでも潜ませておくことが命綱だ。それを読み取ってもらえれば、次の原稿の注文が来る。どんなに上品だろうが高尚だろうが、学識が披露されてあろうが、その些細な事実が含まれてなければ、原稿は失敗である。次からは起用してもらえない。

 というようなことを、向田邦子の文章から学んだのだったろう。ほとんど忘れていたが。
 つい最近、話題の具体性ということを、将来ある若い書き手に説明したくて、ふと向田邦子の文章に思い当り、「まづ隗より始めよ」とばかりに、三十五年以上ぶりに『父の詫び状』を一読してみた。圧倒された。具体性の連続だ。というよりも、物語から具体性部分だけを抜き出して、圧縮して陳列したような一冊だった。
 四十歳の私には、気負いも自惚れもあったのだろう。なるほどそうか、これを参考にして、栄養として頂戴して、自分はもっと先まで行こうなんぞと生意気に考えたと見える。だから実践のなかで、栄養源については忘れてしまったらしい。だが今にして読み直せば、兜を脱ぐしかない。私はついに、ここまでは書けなかった。 
 いやむろん、これからだってなにかを書けるとは思っちゃいるけれども。