一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

いじけ抄





 本日は佳き日である。他愛のない日常。

 早朝であれ昼下りであれ、その日起床後たゞちにおこなうことは、検温、体重と血圧の測定、それらのメモだ。いく日ぶんかまとめて専用帳面に転記し、さらにそれが溜るとグラフを作成する……ことにしてある。クリップされたメモ用紙の束が厚くなってきている。測定はまめなのに、転記のほうがついつい怠けがちになるからだ。
 牛乳かカルピスかアイス珈琲か、たまたま冷蔵庫にあったものをマグカップに注いで、デスクに向い、パソコンを立上げる。来信メールを一覧し、迷惑メールや不要の情報メールを「ごみ箱」に捨てる。 SNS 上の来信もひととおり検分。緊急大事件などがあった場合には、案外時間を要する。歯磨き・洗顔が後回しになっている。

 自分のブログと YouTube に異変がないか改める。私の粗雑なお喋りを ko-h さんがまとめてくださってきた YouTube チャンネル「隠居夜咄」の、たゞ今現在視聴数が、11,111 回と出た。本日は佳き日である。
 チャンネル開設いらい一年三か月ものあいだ、ストップウォッチで測ったように週一ペースでアップロードしてきた新編集動画が、こゝひと月ばかり足踏みしている。この夏、ko-h さんが重なる災厄に見舞われてしまったからだ。

 第一は、ご夫妻同時に疫病感染してしまい、大変なご不便を余儀なくされた。ご本職にあっては学習塾の塾長である彼にとって、夏期講習の時期はそれでなくても繁忙期だ。書入れである。日程調整や人員手配ほか、さぞや往生されたことだろう。幸いご夫妻とも日ごろからすこぶる体質強健と見え、時日を経て後遺症もなくご本復なさった。
 第二の災厄は、長年ご愛用の編集用パソコンにとうとう寿命が来てしまい、装備一新の必要に迫られた。耐用年数をとうに超過している装備を、ご機嫌伺いながら騙しだまし使ってこられたそうだが、とうとうついに、にっちもさっちも……と苦笑された。
 これを機に、より汎用性の高いマックのシステムに換えられたそうだが、そうなると従来の編集ソフトのことごとくが流用できなくなり、かなり初期段階からの設定し直しにご苦労なさっているとのこと。夏期講習や新学期業務の合間々々に、ぶつ切れこま切れ時間を活用してチョコチョコッと、という作業ではないのだろう。ご丁寧に説明いたゞいても、私にはさっぱり見当がつかない。
 画像作成、ふ~む、要するに光と影との感光バランスでしょう? こちとらオートフォーカスのアパレルフォトの認識から一歩も出られない。

 さような事情で、開設いらい初めて、ひと月以上の新作アップ無しの事態を迎えているが、その間にもこの世のいずこかには、チャンネルを覗き観してくださるかたがおいでと見え、わずかづつ数字が動いてゆき、おかげさまで本日佳き日を迎えた。登録者数183名さま。むろんご登録などなさらずに、一回こっきりお耳にされて二度と聴く気になれんわと去って行ったかたが多いのだろうが、それでも備忘のために一応登録だけでもしておこうかとご判断くださったかたが、これだけおいでということだ。
 登録者数十万人を超えて、YouTube から「銀の盾」を賜るなどという有名人がたと較べると、なんとさゝやかにして目立たぬ活動であることか。
 ちなみに、わが「一朴洞日記」はご登録者150名さま。ちょうど一年前ころ最大152名という時期があり、気の迷いから醒められたかたが出て147名さまに減り、以後数か月にお一人くらい新規の出逢いをいたゞいて、ほとんど数字動かず150名さまである。とはいっても、日々のアクセス数は50からせいぜい70程度。なんらかの事情で180だの200だのに突出した日がいく日か、30台に凹んだ日もいく日かある。
 ほかに FaceBookTwitter 経由でのわが知友お立寄りもあって、総アクセス数がたゞ今 36.700 余り。私としては勿体なくもありがたき数字ではあるけれども、世間一般を見渡してみれば、なんともさゝやかにして目立たぬ活動だ。

 目立たぬことに不満や無念があるわけではない。いかにも自分らしいと感じている。いや違う。本音は我ながら、もっと傲慢だ。活動とは、本来かようなものだと考えている。実力以上に数字が上るのははしたない、不潔だと感じる。恥かしい。
 むろんいじけた自意識である。身銭切っての同人雑誌にばかり書き、世間の隅っこで金にならぬ仕事ばかりこなしてきた男の、ねじくれた文学観に過ぎない。 
 しかしその感覚を反省し改める気は、今のところない。それどころかかえって自覚し直す見聞が、この数日間にあった。稿を改める。

朝食まで

マロンデニッシュ、紫芋ホイップクリーム、アイス珈琲。

 急に思い立って、池袋まで。数日前に山手線に乗換えて日暮里まで赴いたばかりだ。週に二度も鉄道を使うなんて、さてなん年ぶりだろうか。

 私鉄改札口から百貨店の地下一階名店街へと滑りこむ。小さい鏡の前に立って、体温を自動検査してもらい、手をアルコール消毒。いつまで続くか判らぬが、これも新風俗。後世のために書き残しておこう。
 常づね疑問だった。勝手知ったる両口屋是清や浅草今半のブースへ向う入口脇に、長らく酒類販売コーナーがあった。先ごろから地方の名産品や珍味珍食品の特設コーナーに様変りしている。さて、酒はどこへ行った?
 百貨店の店員さんの姿が見当らない。酒売場の移転先を、テナント店の販売員さんに訊ねるのも気が引ける。待て待て、私のような能天気が天下に私一人とは考えられない。百貨店サイドも先刻予想して、どこかになにかの手掛りを残してくださっているにちがいない。つまりなんらかのインフォメーションがあるはずだ。

 あった! 地下二階への下り階段口の天井近くに、これを視よとばかりに「酒蔵」という電飾看板が。どうやらこれだな。
 酒類売場はさらに下った地下二階に移転。装いも新たに、総面積ははるかに広くなっていた。形態も一新され、いく軒かの酒屋がテナントとしてブースを連ね、勘定場は一か所でなく各店ごとにお支払いする仕組みらしい。自主仕入れ・自主販売を放棄して、スペースブローカーに徹する方針となったのだな。

 初心者の瞠目。各店競いあってお洒落な空間造りだ。陳列の工夫、ちょっとした照明効果、眼を惹く品揃えなどなど。眼の利くかたがご覧になれば、品揃えの差異化などにも気が配られてあるのだろう。
 ビールなどない。日本酒も大手有名酒造のだれもが知る銘柄など見当らない。スーパーで買えるような商品は、こゝにはないのだ。地方酒造の地酒は一画に少々。それも大吟醸だの原酒だの樽出しだのと、ものものしい商品ばかりだ。焼酎も然り。
 売場の大半は、ワインの見本市と称するがごとし。重そうな扉を押して入る、低温ワイン室もある。日本人はいつから、それほどワイン好きになったのだろうか。ワイン音痴の私はいまだに、パーティーの最初に出される冷えた白ワインが一番美味いと感じている。それと山梨県在住の友人が贈ってくれる、ラベルが貼ってないガラス瓶のワインが。きっと味わい深いワインなど、この齢になるまで口にしたことがないんだろうな。わざわざ求めて、今からワイン道に入門しようとは思っていない。
 そうか、酒売場はこゝへ移ったのか。今度ゆっくり来てみよう。せっかく来た記念とばかりに、梅酒をひと瓶、買ってみた。果実酒類についても、全国各県産のさまざまな種類が取り揃えられてある。ひととおり試してゆくのにも、骨が折れそうだ。

 外へ出てみると、池袋東口方向を周回する可愛らしいコミュニティー・バスが客待ちしていた。自動車であれ鉄道であれ、以前は小ぶりな車輛を「マッチ箱のような」と形容したもんだったが、マッチ箱が日常必需品でもなくなりつゝある現在、形容は陳腐化しているのだろうか。これも時代風俗の一端だ。書いておこう。
 これに乗ると、グルッと廻ってこゝへ還って来られるのだろうか。それともどこか終点で降ろされてしまうのだろうか。今度やってみよう。おかげで池袋へ出てくる理由がひとつできた。

 振返ると、百貨店の屋上から三階あたりまで、長い長い垂幕がいく本か吊り提げられていて、眼玉企画や新開設の案内が告知されてある。中の一本に、酒蔵〈SAKAGURA〉と、でかでかと書かれてある。なぁんだ、こゝにも出ていたじゃないか。
 ローマ字添えは外国人さん向けだろうか。漢字を読めない日本人向けだろうか。それともコピーライターのコンプレックスだろうか。

 池袋まで出てきたときのお約束となりつゝある、ロータリーの中洲に設けられた喫煙所で一服。かような場所では、まだまだ紙巻派が多い。加熱式愛用者は五人に一人といったところか。喫煙者全体のなかでは、もっと比率が高いのかもしれない。
 これまた定番ルートのタカセ珈琲サロンにて、軽い朝食というか曖昧な間食というか、つまり本日の第一食。栗デニッシュと紫芋パン。
 江戸時代のある時期までは、庶民は今の私と同じく一日二食だった。かような用足しを「朝めし前」と云ったのだな、きっと。

暗い絵

野間宏(1915 - 91)、『暗い絵』執筆のころ。

 ふだんは忘れていてもかまわない。世相がきな臭い匂いを漂わせだしたとき、ふと思い出して読返す気になる小説に、野間宏出世作『暗い絵』がある。

 主人公にして語り手でもある深見進介の昭和九年、十三年、二十一年が重層的に凝縮されている。一篇末尾で昭和二十一年の進介が、かつての自分らの「仕方のない正しさ」を本当の正しさに立直してゆかねばならないと宣言するくだりが、ひとり野間宏に留まらず、日本文学全体のあるべき進路と読者から支持され、野間は新たに登場した新作家いわゆる戦後派の代表的存在と位置づけられた。

 正しさがなぜ「仕方ない」のか。志を同じくした三人の仲間たちはいずれも、昭和十三年の段階で逮捕投獄され、獄中死していったからだ。活動中に検挙されたものもあった。従軍中なのに外地で検挙され、飛行機で内地送還されて投獄されたものもあった。いずれも節を曲げずに、劣悪な獄中環境で死んでいった。いかなる僥倖か、進介ひとりが検挙を免れ、敗戦後まで生残った。
 結末が死であるような「正しい」思想なんてものがありうるのか。進介の胸中には「正しさ」への疑念がわだかまっている。それでもどう考えたって、論理的帰結としてはこれが正しい。さような帰結へと、彼らはいかなる道筋で到達したのか。

 昭和九年、進介は京都大学の学生だった。前年には法学部の瀧川幸辰教授が時局にかんがみ芳しからずとして大学から追放された。学生は反発したが、運動は圧殺された。その年は、日本共産党の理論的指導者と目されていた幹部が、獄中で転向声明を発表し、全国の進歩的学生らに衝撃を与えた年でもあった。国家権力の弾圧によって、無産者運動が雪崩を打つように崩壊し始めていた時期である。
 暴風のごとき潮流にあって、反ファシズム運動はどうあるべきか、進介と同志らは進むべき道を模索する。

ピーテル・ブリューゲル(1525頃 - 1569)、『死の勝利』(部分)。

 美しいとも心地よいとも申しかねる、むしろあまりのグロテスクに眼を背けたくなるような画集に一同が観入って、この風景こそが我らの内面を代弁しているようだと語りあう場面から『暗い絵』は始まる。彼らを圧迫して来る力は正面からだけでなく、搦手からも側面からもやって来た。
 官憲や大学当局から眼を付けられているだけではない。小心な地方公務員である父親からは、過激な運動に関るなと懇願の手紙が来る。家族の情である。恋人には思想信条を巧く説明説得できない。恋愛の立往生である。行きつけの定食屋にはツケが溜っているばかりか、店主からの借金も返す目処が立たない。病母の療養に手一杯の父から仕送りが途絶えているからだ。貧困問題である。
 加えて、大学当局とよろしく裏取引して合法活動をしている学生組合の学友たちは、なにかにつけて冷笑するかのように、進介らを見下してくる。虫の好かぬ連中だが、無視してしまっってはアルバイトの口を紹介してもらえなくなるから、無下に絶縁もできない。文字どおり前門の虎、後門の狼だった。
 いく重にも重苦しく暗い内面を抱え込んだ進介らが、かろうじて共感できたのは、未来に向けてひろがった輝ける青空でなかったのはもちろん、へんぽんと翻る赤旗でさえなかった。吐き気を催すほどグロテスクな、この世の終末を呪っているとしか見えぬブリューゲルの画集だったのである。

 昭和二十五年に発表された「『暗い絵』の背景」という回想文で、獄死していった同志のモデルたちとの交友を明らかにしている。京大の学友に、優秀なリーダーがいた。小学校での幼馴染に、町工場に勤めながら神戸の運動組織で活動し、理論勉強をよくする男がいた。同じく幼馴染に、造船所に勤めながら組織活動に巧みな男がいた。『暗い絵』では三人の学友と設定されてあるが、モデルたちは三者三様の資質と環境にあったようだ。
 野間宏は彼らの橋渡しもしくは結節点として、芸術理論をもって包摂する役目を果そうと心掛けたもようだ。具体的組織戦術論としては、統一戦線論だ。一本の旗のもとに全員が同一方向を向くことには、人により無理が伴う。脱落者も生じやすい。だからそれぞれの暮しのなかで持場を守り、全体として運動を前進させるとの考えかたである。フランスのパルチザンの考えかたが、それに近かろう。
 統一戦線の考えかたはさほど古いものではなく、野間宏の学生時代にはまだ、日本共産党中央からは要注意の分派活動としか視られていなかったし、学生運動のなかでも、多くから疑問視されていたという。

 しかし統一戦線という「夢」は、敗戦後に作家となって以後も、野間宏の根柢を支えていたと思われる。政治面では、新日本文学、人民文学、日本共産党が絡む込入った関係のなかで、他の作家たちから不思議がられる態度や行動を見せた場面があった。
 文学面では、あの立場もこの視点も同時に包摂せねばならぬと心掛けるあまり、作品の構想はどんどん巨大化していった。ついには「全体小説」を提唱するまでに深化発展していった。

 全体小説の提唱にまつわる論議は、かつて幾多の論客により取沙汰されたが、それでも解決に至ったとは思えない。時代が移って次なる様式の小説が現れ、時流の中心となってゆくなかで、棚上げ保留とされたまゝの感じがする。それはそれで必然のなりゆきだったろう。
 しかしである。野間宏が「全体」と云い出さずにいられなかった内心の動力については、今もなお、時に応じて思い返さねばならぬことが、あまりに多い。八方塞がりのなかで、「仕方のない正しさ」を締め殺さずに貫くには、との問題である。
 時流にまた世相に、きな臭さが漂いだすと、『暗い絵』が帰ってくる。

お風呂

 本橋麻里

 「一緒にお風呂に入りたい美人アスリート、トップ10」。アンケート体裁の、他愛ない思いつきのような YouTube 動画だけど、考えさせられちゃった。
 恋人にしたいとか、H したいじゃねえんだ。一緒にお風呂。ビミョー。

10位 本橋麻里カーリング
9位 藤澤五月カーリング) 

〈アンケート・コメントから〉本橋選手は推定 H カップ。藤澤選手は姉さんのように相談に応じてもらえそう。
〈ジジイ感想〉逆だろうが。たくましい本橋と可愛らしい藤澤だろうに。競技におけるスキップという役割に引張られて、そうなるのか。全体をとおして「胸」への言及が多いのは、回答者が十代か、せいぜい二十代前半の男子に限られていると思われる。

8位 加藤 優(野球)
7位 坂口佳穂(ビーチバレー)
6位 仲田歩夢(サッカー)
〈コメントから〉砂を払ってあげたい。汗を拭いてあげたい。疲れて帰った彼女をマッサージしてあげたい。目立つ。
〈ジジイより〉ご奉仕願望が顕著。美形スポーツ選手を見上げてかしづきたい青少年の大群。解る。けれど君たちにはまだ早い。その前に、通り抜けねばならぬ段階がある。

5位 渋野日向子(ゴルフ)
4位 阿部 詩(柔道)
〈コメントから〉こゝでもまた胸への注目あらわ。風呂場で阿部選手から、締め技か寝技で一本取られたい。
〈ジジイより〉将来有望な青少年たちだ。たゞし正直過ぎるダロウガ!

――こゝで10位以下の多数得票選手たち。
 高梨沙羅(スキージャンプ)冬季限定種目で割損したか。
 野口啓代・野中生萌・伊藤ふたば(スポーツクライミング)細身かつ筋肉。競技がメジャー化するにしたがい、今後ますます人気上昇確実。
 八木かなえ(重量挙げ)柔道の阿部 詩 選手と同様、ツヨカワイイ・タクマシイ系。
 須崎優衣(レスリング)同上。
 清水梨紗・北川ひかる(サッカー)スピードとルックスのミスマッチが魅力。
 黄金世代の三人(卓球)険しい切磋琢磨。競い合う女子の姿。
 木村文子(陸上100ハードル)陸上から一人だけとは意外。マラソン・駅伝には候補多数。フィールドの跳躍種目ともなれば、有力候補に事欠かない。ところが青少年男子諸君にとっては、モデル体型よりも胸なのか。

石川佳純

3位 池江璃花子(水泳)
2位 本田真凛(フィギュア―スケート)
1位 石川佳純(卓球)
〈コメントから〉池江選手の白血病克服はヒロイン美談としても高評価。美肌の秘訣を聴きたい、もあり。本田選手、とにかく一緒に入りたい。
〈ジジイより〉3位2位とも、競技の華やかさと露出度高いユニフォーム。テレビ中継での扱われかた。さもありなん。特筆すべきは1位の栄冠に輝く石川佳純選手だ。追撃する同種目の黄金世代を尻目に、この姉貴の人気には凄味がある。

 青少年男子諸君の選んだ十人のうちで、爺さんと意見一致したのは、本橋麻里さんと石川佳純さんの二人だけだ。というより他の八人を、爺さんはろくに知らない。
 世界選手権への出国時には、関係者以外に空港での見送りはゼロ。帰国時出迎えには横断幕が張られて、黒山のファンがいっせいに振る小旗の波また波。テレビ中継により突如として湧き起ったカーリング・ブーム。さぞ面喰われたことだろう。カーリング界発展のために、本橋さんは果敢に役割を担われた。水着写真集のオファーにまで応じられた。
 ブームが去れば静寂に戻る。そして冬季五輪でまた盛上り。彼女の眼には、なにが見えたのだったか。本橋麻里さんと聴くと、苦労した女性・強い女性という感じが、私にはする。

 石川さんには、女子力の高い人というイメージがある。熱狂的ファンと自認する倖田來未さんのライブステージを観た直後に、その倖田さんと思いも寄らなかった直接対面するという、テレビ番組のサプライズ企画があった。突然訪れた感激の瞬間に見せた少女・石川佳純の表情には、まことに惹かれるものがあった。
 また長年の卓球修業や中国人コーチとの暮しをとおして、一流卓球選手の多くは中国語に習熟するが、同じく中国語堪能でも、福原愛さんと石川佳純さんとでは、受ける印象がまったく異なる。福原さんは、外国人の可愛らしさを残したまゝ、それをも武器に冗談混じりに自己表現してゆく積極型だが、石川さんは反応・相槌・表情が自然で、感受性が中国語と足並み揃えて流れてゆく感じがする。素直でこだわりのない人柄が伝わってくる。

野田朱美

 ところで、お前のトップ10 はと急に訊ねられても、考えがまとまらない。今年現役引退されたけど、バスケの篠崎澪さんが入るのは確実だが、あとは……。
 時を遡ってもよろしければ、青少年男子諸君がよもや知るはずもないリストから、野田朱美さんを挙げておこう。かつての女子サッカーナショナルチームのポイントゲッターのお一人である。澤穂希さんや川澄奈穂美さんが人気を博した「なでしこ」より、もうひとつ前の時代の名選手だ。引退後は日テレベレーザの監督をなさり、その後いくつかのチームで監督またヘッドコーチを歴任された。日本サッカー協会のお偉いサンのお一人である。ま~凄いんだから。文句なくカッコイイ選手だった。
 現在だって野田朱美さんだったら、今日も気苦労大変でしたねと、風呂場でおみ足を揉んで差上げても。

千駄木私景


 谷中散歩を一段落して、千駄木方向へ移動するまえに一服。かつて若気の至りとしか申しようのない会話をずいぶんした喫茶店が、今も健在だ。店内はいく度も模様替えされて、今風になっちゃいるが。

 名代の佃煮屋さんと煎餅屋さんは、今も向いあっている。食堂にして喫茶店でも甘味処でもある、花家さんとあづま家さんの両店が隣同士に並ぶという、都内でも珍しかろう風景も、記憶のまゝだった。
 しかし記憶なんぞというものはじつに手前勝手にして他愛のないもんだ。バスケ部の先輩と声荒げての大喧嘩となり、一同揃って摘み出されてしまったのが、さて花家さんだったかあづま家さんだったか、はっきり思い出せない。どちらかではあったのだが。
 街並だって、古い写真と眺め較べでもしてみれば、ずいぶん模様替えが繰返され、変化していることだろう。シャッターが降りている箇所など、昔はこゝになにがあったか、とんと思い出せない。
 ルノアールの狭い喫煙ブースに閉じ籠って、あれこれ蘇ってくるのは、気恥かしい記憶ばかりだ。

 「夕焼けだんだん」「谷中銀座」では撮影を控える。私が知るこの界隈は、そんな名で称ばれるようになっちゃいなかった。谷根千ブームよりも前の時代である。「その道を右手へ入ったところが名人志ん生が住んでた家です。今は息子さんの馬生さんがお住いです」そんな時代だった。
 昼席を了えて、早くもご機嫌になられたものか、まだ日のある暮れかたに、馬生師匠がお足もと危うく帰ってゆかれるお姿を、いく度もお見掛けした。
 気をとり直す。今回は想い出散歩ではなく、目的がある。谷中銀座を足早に抜けてしまって、売切れてしまうまえにアップルパイを買わねばならない。

 和食の店である。創業ご店主がたいした趣味人で、俗に申すキの付く鉄道マニアでいらっしゃった。コネを用いて払い下げられたか、マニア間の交換市で入手されたかした鉄道グッズが、店内にも入店導入路にも溢れ返っていた。
 音楽ファンでもあったご店主は、つねに芸大音楽学科の学生を可愛がり、さして広くもない店内ではあったが、ソロやデュオのライブがしばしば催された。
 一九八〇年ころのこと、中国へ出張した私は濃紺の人民服を自分用に買って帰った。それを視たご店主は、これはイイこれはイイとさんざん誉め倒したあげく、持ち帰ってしまった。中華人民共和国の人民服が、国鉄機関区での整備員の作業服と似ていたからだったろうか。
 飛び抜けて個性的であられた創業ご店主が亡くなられてからは、しだいに疎遠となって数十年。今の経営者については存じあげない。


 さんさき坂からへび道へと折れる角に「ペチコートレーン」がある。カフェレストランにして、夕方からは知る人ぞ知る酒場となる。音楽ライブも、しばしば催される。
 界隈に、シンガーソングライターにして出版編集者でも文筆家でもある異能多彩の人近藤十四郎さんがお住いで、なん年前になるだろうか、彼の企画による月例トークライブ「ペチゼミ」がこのお店で催されていた。地元密着型の、なんとも心温まる、快適空間だった。
 私の出番は二か月に一度で、イラストレーターにしてエッセイストの金井真紀さんと、隔月交互出演というかたちだった。

 近藤さんも金井さんも、手短にご紹介できるようなタマじゃないので、今は詳細を控える。
 金井さんは『酒場學校の日々』『世界はフムフムで満ちている』『働く動物と』などで、最適な挿絵をご自分で描き添えられる文章書きとして、頭角を現し始めたころだった。その後『パリのすてきなおじさん』が当り『世界のおすもうさん』『戦争とバスタオル』ほか、いずれも意表を衝く着眼と余人には及びもつかぬ行動力とで、面白く柔軟な新境地を拓いてゆかれた。
 近藤さんがそこまで狙っておられたかどうかは伺い損ねたが、これから昇り龍の勢いを見せそうな金井さんと、落日直前と申すべきか、未来はないが過去が色々だったらしい気配の私とを、地元のご定連に交互にお見せするという、思い返してみてもなかなかの企画だった。
 私にとっても、自分の暮しでは出逢う機会などありえない種類のかたがたと新たなご面識を得られる、思い出深い経験をさせていたゞいた。

 さて、帰るとするか。めっきり疲れやすくなった。帰宅ラッシュのピークをやり過すべく、地下鉄千駄木駅への下り階段の脇にあるサンマルクカフェで一服する。
 と書いたところで、じつは散歩からすでに二日経っている。アップルパイは無事に買えた。一人家族の至福、すべて自分で平らげた。

谷中私景

〇 日暮里駅前

 駅前より、北方向(西日暮里・田端方面)を臨む。
 わが国でもっとも多くの線路をまたぐ橋のひとつとのこと。
 写真左手を山手と、右手を下町という。

〇 経王寺

 上野の山で戦があった。彰義隊の残党が経王寺に逃げ込み、かくまわれた。ために当寺は明治新政府軍から眼を付けられ、攻撃を受けた。そのさいの銃弾跡が、山門の扉に今も残っている。

 中学生たちは、人差指を通していちいち確認してみた。さすがにもう、ささくれ立ってはいなかったが、まだザラザラとしてはいた。今ではさらに風化が進んで、すべっこい穴となっている。六十年前の中学生の証言である。

〇朝倉彫塑館(台東区立)

 彫刻家朝倉文夫(1883 - 1964)の、アトリエ兼邸宅だった建物。作品と遺品の展示館にして、当時の間取りや調度や中庭がそのまゝ保存されている、最良のくつろぎ空間。
 アトリエに踏入ると、いきなり座布団帽をかぶった大隈重信侯の銅像が立っている。
「あれっ、こっちへ来ちゃってらあ。ってことは、キャンパスのほうは今は留守なのかぁ?」と早稲田出身者は一様に魂消る。よーく観ると細部が異なる、一連ではあるが別作品。なお舞台美術家朝倉摂さん(1922 - 2014)は娘。
 池のある中庭を囲んで回廊のごとき一階廊下を歩くと、入館口から一番遠いあたりに、上り框や式台のごとくに、一段下った箇所がある。旧玄関口だった模様だ。

 外から霊園のがわへ大回りすると、門構えや竹垣がある。この奥が旧玄関らしい。前方にアトリエの三階部分も見えている。今はさながら開かずのご門といったところ。もとはこちらが朝倉邸ご門およびお玄関だったと見える。現在の入館口は裏口および搬入搬出口だった模様。どうりで入館口の脇には、高さも間口も異様に大きい扉があった。

 広いひろーい谷中霊園の北西隅寄り、すなわち朝倉邸寄りに、まことに立派な朝倉文夫ご夫妻の墓所がある。お屋敷から歩いて五分以内で、墓参りに行ける。
 負けた。金剛院さまの墓地まで、私のよたよた歩きでは八分か十分を要す。それでも私くらい容易に墓参りできる幸せ者は、そうざらにはあるまいと密かに喜んでいたのだが、朝倉家の墓所は怖ろしいほどお屋敷から近い。鶯谷にも上野にも近くまで広がる、広大な谷中霊園にあってこの近さ。なるほど、桁が違うわい。

〇街のたたずまい

 ご先代から引継がれたとお見受けする、または親方のもとでみっちり叩き上げられたような、地元に根を張った匂いのするお宅が多い街は、好きだ。
 錻力? ブリキがオランダ語由来とは承知していたが、漢字でかように書き表すとは、不覚にも初めて知った。というより、漢字に変換するとか当て字するとかの気がまわらなかった。書かれてみると、好い字だなあと、感嘆のほかない。

〇街のお道具


 個人宅のお玄関先に、年代物の井戸ポンプがよく手入れされ、大事に保存されてある。そちらのお宅の自主作成とも窺える立札によると、街に大貢献した勇者の井戸でありポンプである。
 東京市東京府の水道行政が整備されるにつれて、古井戸は埋めるようにとお達しを受けた。いったんは行政指導に従ったものの、関東大震災だの大不況だのもあり、当時のご当主の自主判断で、井戸は掘り返された。そして戦局芳しからず昭和二十年三月十日の東京大空襲。このポンプが一世一代の大車輪。住民がた総出で列をなしてのバケツリレーで、日暮里駅前大通りまで燃え広がってきていた火を食止め、谷中の寺々やら木々やら、いくたの文化財への延焼を阻止なさったそうだ。お手柄井戸である。

 日暮里は戦後いく度か、再開発の波に揉まれた。電車路線が増えるとか、駅を改築して出入口を増やすとか、都市計画の一環で駅周辺の道路が整備されるとか。さらには高層ビル計画やら新幹線通過計画やらでは、地下深くまで工事の手が入ることもあった。さようなことが続いても、井戸の水脈が枯れることはなかったという。
 かつて谷中の緑を護った井戸が、今は緑の大群の力によって護られてあるのではと、ご当主は考えておられるご様子だ。

 表通りに面しているでもない、むしろ目立たぬ奥まった細道に面して建つ、今風のお洒落な個人住宅のお玄関先に、つまり門扉や塀の内側に、ミスマッチのごとくに井戸ポンプが佇んでいる。当代のご当主が、先々代や先代のご当主からなにを継承なさろうとお考えなのか、朧気に伝わってくるような想いが湧く。

リベンジ


 昨年尻込み断念した件を、今年達成した。

 池袋から JR 山手線に乗換えて、日暮里まで赴くのは、一年ぶりだ。今の私には遠出である。この一年に、大塚までは二度行った。新宿へは三度か四度行った。
 もっとも遠方はといえば、旧友の葬儀に参列すべく、菊川・森下つまり川向う本所まで、一度だけ行った。これは地下鉄利用だから、ゴウゴウと鳴る音に身を任せながら、文庫本を読んでいるうちに着いた。地上の景色を眼にしながら電車に揺られたわけではない。
 ふだんはせいぜい地元の私鉄で、池袋・江古田間を往ったり来たりするだけだ。わずか三駅間で暮している。

 一年前の日暮里行きは、谷中霊園へと赴いて広津和郎墓所へお詣りしようかと思い立ったからだった。九月二十一日がご命日である。久びさだから、谷中から千駄木あたりをぶらついて、懐かしい店を冷かして歩こうかと、気楽に考えて出掛けたのだった。
 ところが案に相違して、引籠り生活による体力の減退は著しく、霊園内に数多ある有名人のご墓所などを巡っているうちに、すっかりくたびれてしまった。たしか残暑の日でもあった。正直に躰と相談。夕方の帰宅ラッシュアワーの電車に乗合せる度胸も勇気もないから、街散歩は諦めた。明るいうちに尻尾を巻いて、さっさと帰ってきてしまったのだった。地元駅へ帰り着いて、駅前のロッテリアに腰を落ちつけて、妙に安心したことを憶えている。

 今年も目的は同じだ。たゞし台風余波の空模様に尻込みして、広津ご命日から数日ずれてしまったけれども。
 昨年の教訓から、霊園内のいたずらな有名人詣では控えた。どうしても寄ってみたい点と点だけを、最短線分で結ぶように歩いてから、街へ出た。
 ご縁やら思い出やらある店が今も存続しているかと確かめ、冷かして歩くだけなら、次の機会送りにしたところでさほど残念でもない。じつは買物をしたかったものがひとつだけあった。それを断念したことが、昨年の心残りだった。

 アップルパイを買い求めることだ。
 と申しても、そんじょそこらのアップルパイとは、わけが違う。煮りんごが、クワイか里芋かというほどの大きな塊で、ゴロンゴロン入っている。どうすればこれほど均等に熱が通るのだろうか。
 煮りんごの周りを包んでいる、パテというかソースというか餡というかが、液体とも固体ともつかぬ柔らかなクリーム状で、よくぞこれで型くずれせぬものと感心させられる。むろんとびきり美味い。当地へ買いに来なければ、味わうことができない。

 このアップルパイの小ぶりなホールをひとつ買うのが、私にとっては谷中散歩の眼玉である。フルーツケーキやロールケーキなどの長いものは、輪切りカットでけっこうだ。生クリームケーキやチョコレートケーキなど丸く大きなものは、三角カットされたものが食べやすい。けれどアップルパイだけは、小ぶりのパイを丸ごとホールで欲しい。理由はない。いつの頃からの、私のこだわりである。

 谷中よみせ通りのマミーズさんは、近隣住民であれば知らぬものとてない、アップルパイ専門店だ。サイズにも、味のアレンジにもいく種類かがあるものの、要するにアップルパイ以外の商品はない。ご執心の固定ファンが、遠くから乗物を使って買物にやってくる。私はそれほどの「通」ではないので、たまさか谷中へ来たおりに買って帰る程度にすぎない。ごく駆出しである。
 昨年は息切れしてしまって、寄らせていたゞけなかったので、今年こそはとペース配分よろしく、用心して霊園内を歩いたわけである。