一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

畏れながらお不動さま

     

 神仏には贔屓を設けないことにしている。いかなる神さまにたいしても仏さまにたいしても、等分の敬意をはらい、同程度に無知無学だ。
 神仏おしなべてに共通して、というより横並び一線の神仏がたを超えた向うに「天」という観念があって、そちらはかなり尊重している。それをこそ惟神(かむながら)の道と云うのだ、あるいは原始的太陽神だアニミズムだと、あれこれ教えてくださる人も書物もある。が、よく解った気にはなれない。

 金剛院さまご門前の、駐車駐輪広場の一画に、小ぢんまりした不動堂がある。堂内のご本尊不動明王のほかに、結界内には観音石像が立ち、結界前には道しるべを兼ねたお地蔵さまが立っている。わが町の野仏からもっとも好きな一体を選べと問われたら、私はこの江戸時代の道路標識のような石地蔵を選ぶ。
 お不動さまは闘いの守り本尊だから、通りかかったおりには必ず一礼する。賽銭箱には一円を投じる。たった一円だ。
 これはお不動さまだけではない。つねの散歩コースには八幡さまがあり、お稲荷さまがあり、御嶽神社があり、別のお不動さまもある。その他いろいろおられる。すべてに一礼、そして等しく一円づつ投じることにしている。もっとも貧しき者、もっとも微弱なる信仰心による一燈といった気分だ。

 一円賽銭は寺社にご迷惑だと指摘するネット投稿を眼にしたことがある。賽銭箱を開き、帳面付けし、口座入金するのに、どれだけの手間と経費とがかかると思っているのかとのご指摘だった。さかしらの浅知恵と感じた。
 賽銭箱を開けたら、私が投じた一円玉一個のみが出てきたなどということが、あるはずないではないか。
 金額についての費用対効果だけではない。信仰心なんぞという大袈裟なものではなく、たんなる人の心持といったものへの、あまりに幼稚な理解ではなかろうか。
 気に入った寺社の賽銭箱に百円硬貨を投じるよりは、散歩の道すがら十か所の賽銭箱の前で十日間合掌したほうが、よっぽど神仏の趣旨に叶うと思っている。

 今朝、金剛院さまご門前のお不動さまにお詣りしたら、観音さまが手に持った蓮の葉の上に、またお地蔵さまの地を擦らんばかりの衣の裾に、それぞれ一円硬貨が供えられてあった。私と似たような心持のかたが、通りかかられたものだろうか。初めてではない。これまでいく度も眼にしてきた情景だ。
 これが盗まれたり、いたずらされたりしないところが、日本文化の達成である。王朝女官であれば「いみじう心ゆかしく思ほゆ」と云った。『方丈記』であれば「あはれにもゆかしくこそありけれ」と云ったろう。

 
 朝っぱらからなに用あって駅前まで出かけたかというと、交番に用事があった。「交通事故証明書」なるものを警察署から発行してもらうための、申請用紙をいただくためである。振替用紙の形式をとった申請書に必要事項を書込んで、郵便局にて手数料支払いせよとのことだ。
 陸送トラックが道路中央を通らずに、拙宅がわギリギリを通過しようとして、桜の老木を幹からへし折った。倒れた巨木の重量でブロック塀を取壊さねばならなくなった。
 先方の保険会社は、道路脇に桜の樹なんぞあるのが悪いとおっしゃる。過失責任割合は先方4の私6だとおっしゃる。私の年金およそ一年分を支払えとおっしゃる。
 畏れながらお不動さま、私はな~んにも、しちゃあいませんぜ。