一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

弘法の道



 長年参詣してきながら、弘法さんの銅像を真正面から撮ったのは、初めてのような気がする。

 母命日は六日、父命日は月違いの二十六日だ。強くこだわっているわけではないが、月詣りは六の日と習慣化してきた。だが昨日はことのほか寝起きが悪く、気分もよろしくなく、今日に日延べした。だれと約束したわけでもないから、へっちゃらだ。
 降り出しそうな空模様だが、明日の気分は判らないので、出かける。降ってきたところで大雨にはなりそうもないから、へっちゃらだ。例のごとく、花長さんから金剛院さまへ。
 先月は菜の花路を歩いておられた弘法さんが、今朝は道端の野草がいっせいに花を着けた畑中の道を歩いておられた。

 境内は花盛りだ。ツツジを準主役に、石楠花、牡丹といった千両役者が芸を競う。異彩を放つ儲け役はコデマリで、今まさに満開にして、たわわに枝垂れている。
 桜も木蓮も了ったはずの花木類はと観回すと、白い花を枝も見えぬほど満開にさせた樹がひと株、ツツジの植込みから身を突出している。観慣れぬ樹だ。近づいてみると、粗雑に括った白糸を、毛並みも揃えずチリチリにしたままのような花が、細い枝にびっしり群がり着いている。アオダモだろうか。いずれにせよわが散歩コースでは観かけぬ花だ。
 手桶に水を汲んで花を挿してから、庫裏へご挨拶に寄って、線香を分けていただく。


 花長さんでは毎度、その日の入荷を睨んでもっともお値打ち価格の花束を、一対視つくろっていただく。片方には母が好んだ藍紫が入り、もう片方には父が好んだ無邪気な赤が入った。満足である。
 まったくの無風で、掃除にも供え作業にも大助かりだ。降りだしそうだった空も、どうやら晴れてゆくようだ。

 生前わが両親とご縁あったかたのご墓所を巡り、歴代ご住職と六地蔵と無縁仏合祀観音を巡る。そして本堂と大師堂にては光明真言。いつもの順路を経て、弘法さん銅像前へと戻った。
 斜め下から観あげてみたり、横から覗いてみたり、いろいろに眺めてきた弘法さんに、真正面遠距離にて正対するのは、思えば初めてかもしれない。俺も齢をとったのかな、という気が一瞬した。
 山門を出て、不動堂にていつもの一円参詣。人さまからはさようとも思われておりませぬけれども、私はまだ闘っておりますと報告した。

 
 神社へと足を向ける。大鳥居前にも中鳥居前にも、来月の獅子舞奉納日を告知する幟旗が立てられてある。獅子舞はこの街の無形民俗文化財だ。そういえば商店街の要所にも、同じ紫色の幟が立っていたと思い当った。

 穏やかな日だ。身辺事情も国内外事情も穏やかでないのに、あい済まぬような、バチ当りのような気が起きる。つい先日、友人の卜占家が教えてくれた、冥王星水瓶座の説を思い出す。二百年に一度の大混乱期が近づいているという。
 川口青果店が店を開けるころだ。カボチャを買って帰ろうかと思い立った。