一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

晴れぬ日に



 天丼って、どんなんだっけか……。

 昨夜半からの雨がやまない。大降りの時間はなかったように思える。厚みのある湿り気が、のべつじんわりと圧迫してくる感じだ。
 どことなく気が重い。元気が出ない。むろん日光浴どころか、草むしりもできやしない。こんなときは、台所にかぎる。切れかかっていた主食の冷凍飯を補充すべく、飯を炊く。
 解凍飯による粥飯が日常だから、たまには炊きたてを食おうかと思い立つ。野菜を揚げて、天丼でもと。ふいに天丼と思い立ったのはなぜだろうか。自分にも解らない。ふだん口にしない食べものだからだ。店屋物としても、スーパーの弁当としても、カツ丼を選ぶのがつねだ。好き嫌いで申せば、天丼も大好物だけれども。

 わが生育期の食生活環境において、天丼は分不相応な高級食だった。店屋物といえば、ザルそばか中華そばだった。たまたま大切な来客があったかして、大人たちが天丼をあつらえた日があった。
 「美味いもんだな」
 食いものについては物を云ったことのない父が、食後にボソッと呟いた。私は玉子丼を平らげて大満足でいた。

 会社員として、仕事含みで会食した時代には、ずいぶん天丼を食った。天ぷら専門店の天丼は、そりゃあ格別だった。が、味より話題が大切な場面ばかりだったから、さしたる有難味も感じなかった。勘定は会社の経費だったし。
 独りで外食する機会には、チェーン店「てんや」を利用した。池袋でも赤坂でも、高円寺でも西荻窪でも、「てんや」の看板が眼に入ると安心した。値段のわりには美味い天丼が食えて、いつも満足した。
 しかし最後に「てんや」に入店してからなん年も経つ。ましてや天ぷら専門店など、最後に入店したのがいつだったか、とうに記憶がない。

 さて本日のわが天タネは、人参とブロッコリーの茎の掻揚だ。小ぶり竹輪が一本残っていたから、縦に割り横に断って、四つにした。野菜揚げであれば低温油にてじっくり揚げでよろしかろうが、さて竹輪をどうしたもんか。懸念したとおり、揚げ過ぎた。自信がないから、どうしても衣が生っぽくなるのを怖れてしまう。次回への申し送り事項だ。
 天つゆもヤマ勘。毎回わずかづつ味が異なる。たいした問題ではない。そんなことより、天つゆと天丼のタレとは同じでよろしいのか、別ものか。これも次回への持越し課題だ。


 食後の一服、そしてインスタント珈琲。ラジオから国会中継が流れてくる。政治資金の帳面をどうしたもんか。大阪万博の建設工事は間に合うのか。大問題なのだろう、きっと。私には遠い遠い世界の噺に聞える。
 それよりも、過日友人の卜占家から教わった噺のほうが、私には気懸りだ。冥王星水瓶座に入り、併せて太陽系惑星が大縦列する年に当るそうだ。およそ二百年少々に一度のことだという。林立していたものがガラガラと崩壊して、平べったい世界となり、秩序の枠組みが根本的に変る時代に入るとのことだ。天体の配置が同様だった前回は、フランス革命アメリカ独立戦争の時代だという。

 卜占の神秘性をことさらに持ち回る気性ではないが、興味はある。人間の知りえたことなんぞは宇宙の微小なひとかけらに過ぎないと、痛切に感じるからだ。
 「人間の知は、無限の無知の闇に取囲まれている」
 大学一年坊主のときに、哲学の教授からきつくきつく教えられたことだ。ふだんは忘れているが、こんな私にもほんの数度はあった人生の曲り角で、いつも思い出された言葉だ。ご恩ある一語である。

 冷凍飯のための小分けおにぎりを結ぶ。同工異曲の写真をこの三年でなんカット撮ったのだろうか。
 ジトジト降り続く日に、所在なく引きこもって、知を想う。