一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

物忘れの手柄

  

 副菜小鉢もしくは間食用として、カレーとヒジキ大豆とを交互に、三回づつ補充したことになる。そろそろ退屈してきた。
 次をどうしよう。と生意気云ったところで、レパートリーが豊富なわけじゃない。数かずやってみてはきたが、調理にも相性というもんがあるのか、繰返す気になれぬ惣菜も多い。結局は、かつて手馴れた時期もあった惣菜を、忘れたころに蘇らせることとなる。年間ローテーションみないなもんだ。

 耄碌の手柄とでも称ぶべきことがある。半年か十か月前の味付けや調理法を憶えてない。手順を一から考え直す。
 野菜の揚げびたしを思い立った。上手くできるとたいそう美味いのだが、時間も手間もかかる。野菜を刻んでいくうちに、少しづつ思い出そうとする。やってしまってから、そうそう以前もこれで失敗したのだったと思い出す。脳のどこかに格納されてはあるらしい記憶を、都合好く引っぱり出すことができなくなっているようだ。

 まづタレを用意するんだが、レシピなどない。総量も配合も眼分量だ。要するに水に酒と砂糖で、間をおいて醤油の順だ。おまじないに摺り卸し生姜を投入する。味醂を使えば手っとり早いのだがと、毎回思う。看病・介護をしていた時分には、わずかの手早さも世話なしも貴重で、味醂を使っていた。独居となって、組成簡略を心掛けることとなり、味醂を断固捨てた。
 沸して味が馴染んだら、火を止めて、酢を投入。たしかここが出来の分れ目だったと、思い出した。追い生姜と擂り胡麻でアクセント。柚子が使えれば素晴らしいのができるとは承知だが、やはり組成簡略を機に、そんなものはない。そして冷まし時間。

 野菜は人参と椎茸とピーマンにした。茄子を捨ててピーマンにした点が、今回の選択だ。魚はサバになった。長らく鶏肉で代用していたんだが、本来の青魚でやってみようと初心に還ったのが、今回揚げびたしを思い立った眼目だった。
 ところがサミットストアの鮮魚コーナーには、タラとそのお友達ばかりがいく種類も並んでいて、アジもイワシもサンマもない。私なんぞ冷凍ものだろうがいずこ産だろうが頓着ないのに、青魚の姿は一尾たりとて見えなかった。やむなくノルウェー産「塩サバ」という加工品で間に合せた。
 野菜は低温じっくりの素揚げ、サバは塩抜き洗いしてから粉をまぶしてカラッと揚げだ。そして冷ましきったタレに漬け込む。あとは具材を密閉するように表面をラップして、粗熱を取ってから冷蔵庫行きだ。明日の今ごろには食べられる。


 タレを冷ます間と漬け込んで粗熱を取る間との、二回の待ち時間がある。わが食事時間だ。この場合は、考える余地があまりなく、洗いものの少ないのが上だ。あり合せナンデモのっけソバである。二回目の待ち時間は、当然インスタント珈琲ブレイクとなる。
 タレ用の湯を沸すべくガスに点火したとき、「ラジオ深夜便」では片耳難聴者のご苦労と生きかたについて、ご自身も片耳難聴者である言語聴覚士の先生が、ご経験からくる行届いた指南をなさっていた。粗熱を取る間の珈琲ブレイクのころには、「それでは今日も一日、どうか皆さま」と、エンディングを流していた。少なくとも三時間半は、包丁と油鍋を相手に、遊んでいたことになる。
 両耳遠ざかりつつある当方は、いったん忘れていた味と手順と加減とを思い出したり、断念して新たなヤマ勘を繰出したりしながら、一日の十五パーセントもの時間を過していたことになる。

石清水



 旧友三人寄っての小宴。和風個室居酒屋。間違ってもステーキハウスやイタリアンレストランにはならない。

 前回がいつだったか、記憶も定かでない新宿。時間に余裕をもって出かけた。紀伊國屋書店やらビヤホールライオンやら、名曲喫茶らんぶるを観て歩く。話題のトー横や大久保公園にまで足を伸ばすつもりだったのが、案に相違してルノアールにて休息の運びとなってしまった。

  
 ゴールデン街方向への遊歩道は、靖国通りと区役所通りとの直角を奇妙な角度で分割する細道だが、昔の都電路の跡だ。角筈始発のこの都電に乗った記憶はない。廃線後も石畳と鉄路だけは長年残っていた。むろん遊歩道などはなく、路線跡と隣接敷地との境には、黒焦げの枕木が等間隔に並べ立てられて、有刺鉄線が張り巡らされてあった。
 ゴールデン街への入口は、区役所通りがわで、今のストリップのニューアート劇場の前からで、石畳と鉄路を跨ぎ越えて、街へと入っていった。私が知った時代は、すでにゴールデン街で、青線地帯時代に、私は間に合っていない。ただし酒場群とはいっても、サービスの形態はやや多彩だった。

 モダンジャズ喫茶(夕方から酒場)DUG は健在だった。独り勝手に過去分詞店と称んでいた。ダンモの老舗喫茶 DIG があり、とあるビル内に最初の支店 DUG が開店し、三番目にこのピカデリー脇の地下店が開店したからだ。現在・過去・過去分詞というわけだ。現在形と過去形は、とうにない。
 老舗 DIG は二幸ウラ(今はアルタ裏、それも近ぢかなくなるとか)のビルの三階にあった。一階はロールキャベツのアカシアだ。今回うっかり確認を忘れてしまったが、後刻小宴にて旧友から、アカシアは今も健在と教えられた。ふいにあのロールキャベツ定食が食べたくなった。
 詩人の寺山修司が劇団天井桟敷を立上げるにつき、劇団員募集というような、ざら紙にマジックインキ手書きの広告を、DIG のレジ脇の貼紙で最初に視た。その後、風月堂だったかぼろん亭だったかでも、視たかもしれない。

 甲州街道脇のおふくろ食堂(つまり一膳飯屋)長野屋も健在だった。ずいぶんお世話になった店だ。
 かつて新宿駅の南端は甲州街道までで、街道を越えた南側すなわち現在高島屋だの紀伊國屋サザンシアターだのがあるあたりは、なにもない一帯だった。和風旅館の灯がひとつ、ポツンと点っていた。他にもなにかしらあったらしいが、遊び慣れぬ若僧なんぞが不用意に足を踏み入れるべきではない雰囲気が漂う地域だった。
 つまり甲州街道沿いのこのあたりは、新宿繁華街の南端といえた。南口は跨線橋の頂点にあるから、町の平土間へは坂道か石段で降りてくる。二度の石段の踊り場のようになった中二階のようなコンクリート広場には、おでん屋・ラーメン屋その他ごちゃごちゃ立並んで、愉しい一画だったが、南口拡大ならびに大改修計画の中で、一軒残らず中野・杉並方面へと引越していった。


 互いの健康状態を報告しあう旧交小宴も跳ねて、三方向に別れたものの、もう少し歩いてみたい気分が残った。
 花園神社境内には、テント劇場が設営されてあった。劇団唐組だろうか。唐十郎さんのご他界で、ごった返しておられることだろう。人影皆無の境内に、テントは堅く閉じられてあった。
 状況劇場、はみだし劇場、梁山泊…。この境内での催しにまつわる記憶は尽きない。むろん記憶するもののなん倍も、忘れてしまっている。島唄ロックで一世風靡した上々颱風のライブもこの境内で聴いたのだった。たいした熱狂だった。

 ここまで来て素通りもできまい。挨拶しなければならぬマスターやママさんも、あまり残ってはいないが、無沙汰挨拶にゴールデン街を三軒ほど歩く。外国人さんの人波をかき分けて進まねばならない。
 どこへ顔出ししても、「生きてましたか、どうしたかと思って」となり、疫病禍および定年退職いらい引きこもり老人として過す日々を報告申しあげる。10CC のユキママから「コロナ期間中に一度だけ見えましたよ」と教えられた。そうだったかなあ。

 トー横へも大久保公園へも、とうとう足を伸ばさなかった。社会見学はお預けだ。「石清水に詣でたりけり」である。

床屋同窓会



 明日、旧友と会うべく、じつに久しぶりに盛り場へ出る。わが宮本武蔵ヘアの始末が、いよいよ待ったなしである。

 駅までの道筋に、ちょいと想い浮べただけでも三軒の理髪店があるなんぞと考えたのは、とんだ迂闊だった。意識しつつ歩いてみたら、六軒も七軒もあった。
 池袋駅周辺の理髪店を検索してみたら、とんでもない数の店情報が挙ってきた。写真付きの、どれも明るく清潔そうな店ばかりだ。デザインから仕上げまでと謳う店もあれば、ヘアカット・オンリイ格安を謳う店もある。ファッションモデルさんの相談に乗れる店から、多忙なビジネスマンが得意先訪問直前にちょいと、という店までがあるということだろう。当方としては、伸び散らかった髪を丸刈りにするだけなのに、なんだかなあという気が湧いた。

 地元でもっとも古くから開業なさってきた一軒に飛込んだ。マスターと奥さんの二人のお店だ。街の景観にすっかり溶け込んで、そういえばあそこにも理髪店があったと、思い出さねばならぬほどの店である。
 希望を申し述べると、丸刈りだけなら千円でできる店が近所にありますが、とのお応えだった。正直なかただ。
 四十年来通ってきた理髪店が休業してしまってと、経緯と窮状を述べると、「そりゃあどちらです?」「隣町の庄司さん」「えっ、そうだったんですか、なにか貼紙が出てるなあとは思ってたんですが」となった。当店のマスターは庄司理髪店のご先代とは親しい間柄だったという。新潟長岡ご出身で、たいそう気さくで話し上手だった庄司先代についての、想い出噺をひとくさり。

 「昭和三十年にこの地へ来ましたが、お客さんもこのあたりに長くお住いですか?」
 「お近くの並木幼稚園の、第一回卒園生ですわ」
 「ええっ、じゃあ長小?」
 「それが線路向うの富士見台でして。こっち側では、カキツバタ化粧品店の島池が同学年です」
 「そういえばアイツは富士見台でした。塾が一緒でしたよ」
 「あと、居酒屋やってた朝倉が同級で、仲良しでした」
 「私は、中学で朝倉と一緒でした。店へも仲間たちと行きました」
 どうやらマスターと私とは、同齢同学年だったらしい。学校でもその他でも、一度とて同席同籍することなく過してきた関係らしい。
 「小学校は線路向うだし、中学は電車通学で他所へ行っちまったもんですから、地元商店街に友達が少なくて、大人になってから不便いたしましたわ」
 「なるほとねえ、しかし今じゃあ地元といったって、あんまり……」
 語尾は曖昧に溶けた。あれこれのことは、他所であるていど耳にしてはいる。これではならじと、二代目三代目の店主たちが気を揉んだり、知恵を絞ったりしていることも、聴いている。

 散髪は済んだ。「丸刈りだけですと、千円の店もあるんですのに」
 「いえ、ご専門職の腕前は、そういうもんではありませんから」
 「まったくです。当店では○○円いただいてます。庄司さんよりお高いですか?」
 「いえ、同じだったと思います。お世話になりました。明日、珍しく人に会う用事がありまして、困っておりましたところで、助かりました」

 最近めっきり狭くなった私の歩幅でも、わずか五百歩か六百歩の距離に、私と同じくなんとなく世の中の歩速と異なる爺さんが、もう一人いた。初めて口を利いた。

アジアと私…?

 

 公園の入口では、満開のバラが出迎えてくれる。花壇へと歩を進めれば、赤・白・黄色と春の草花が、行儀よく整列している。ふだんであれば、気持の好い散歩コースのはずなのだが。

 庄司理髪店が、かれこれひと月以上も店を休んでいる。「お客さまへ 体調不良につき しばらく休業いたします」と、簡にして明の貼紙が出ている。ご先代マスターの時代から、四十年も通ってきた理髪店だ。
 ご先代ご他界後は、息子である現マスターとご母堂との、お二人の店だ。散髪が済んだところで、もし他にお客さまがおられなければ、茶菓を出してくださり、三人でしばらく暢気な世間噺に耽る。お返しというわけでもないが、半年に一度は、手土産の菓子折を持参してきた。

 ご母堂は私より十歳も姉さんだから、日ごろから齢相応の課題を抱えている。膝が痛い腰が痛い、血圧が高い息切れがする眼が回ると、毎回通院か薬の話題が絶えない。それでもいつも明るくにこやかなかたで、杖代りのカートに掴まりながらビッグエーで買物されるお姿を、時どきお視かけしてきた。
 マスターは還暦前後だろうが、日ごろは病気知らずのお元気なかただ。簡単な家普請も道具や機械の修理も、なんでも自分でやってしまう器用な人である。
 体調不良って、どなたがどうされたのだろうか。ご母堂がご入院でもなさったのならば、当座のなん日かは多用だろうが、すぐに療養ペースが形成されるだろう。ひと月以上も休業なさることもあるまい。ということは、病院知らずのマスターご自身が、お加減を悪くされたろうか。事が重大でなければよいが……。

 私にしてみれば、月一ペースの丸刈りを怠けて間が空いちまった、と思っていた矢先の「貼紙」だった。それからさらにひと月。ハゲチョロ頭の残髪が伸び放題となって、文化財宮本武蔵肖像画みたいになっちまった。
 丸刈りなんぞ、どの理髪店でもよかろう。たしかにさようではあるが、ここは考え処である。拙宅から駅までに、道筋を換えれば少なくとも三軒の理髪店が眼に着く。
 「初めて伺うんですが、よろしいですかな」「どうぞどうぞ」となって、少し打ち解けたところで事情を訊かれる。「行きつけが休業中で」「ああ、庄司さんですね」となる。訊かれたところで困りはしないが、問題はひと月後だ。
 庄司理髪店が再開されたら、そちらへ戻るだろう。駅への道筋に当るこちらの店のご主人とも眼が合う。顔も合せる。「あれっきりか…」と思われているようで、なんだか気まずかろう。

 いっそのこと池袋へ出て、文字どおり通りすがりの店に飛込んだほうが、あと腐れがない。気が楽だ。だがその前に、確かめねばならぬことがある。今日現在もまだ休業中だろうか。理髪店への道筋の途中には、公園がある。花壇は見事に咲き揃っている。だが気持が弾んでいないと、とりどりの色がもうひとつ、眼に飛込んでこない。

 

 せっかくの外出だから細かな用事をひとつ片づける。ペットボトルのキャップだけを回収するボックスが、サミットストアの入口近くに備えられてある。自販機のような大型機械がペットボトル回収機。隣の傘立てか吸い殻回収ボックスのような小さいのが、ボトルキャップ専用回収ボックスだ。
 わが居間の入口にさがる暖簾を通した竹棒の先端には、年中レジ袋が吊下げられてある。ペットボトルを始末するたびに、キャップをこのレジ袋に落してきた。飲料だけではない。醤油・料理酒・蜂蜜・サラダ油・ケチャップ・チューブの生姜やワサビから台所用洗剤まで、サイズ様ざまにして、材質的にわずかに異なるものでも、まあ親戚かと勝手に判断して、同じ袋に投じてきた。地道に溜めておよそ一年間、レジ袋が満杯ではち切れそうだ。今日こそサミットストアへとお預けする。
 回収ボックスの天に開いた穴なんぞでは間に合わない。天蓋を外して、ボックスに大口を開けさせてから、レジ袋を逆さに突っこんで、ジャラジャラと中味を空ける。その一瞬の小気味好さ! 約一年間の成果を約一秒間で味わう、豪快な満足感である。

 ボトルキャップの分別回収活動が始まったのは、さていつ頃だったろうか。当初は、これらのキャップが金属製よりも遥かに軽い樹脂製の義足に加工されて、地雷で足を喪ったカンボジアの少年たちに届けられるとの触込みだった。素人考えでも、気が遠くなるほどのキャップを集めねばならぬ地道な活動だが、おおいに意義があると考えた。私個人の提供など微々たるもんだが、それでも協力すべき活動だと感じた。
 そのうちいつ頃だったか、活動を推進している団体による中抜きがあまりに阿漕だとのスッパ抜きが出て、興醒め・幻滅の機運が蔓延した。
 そうなっても、サミットストアの入口付近には、専用回収ボックスが設置され続けた。私は、いかに中抜きがひどかろうとも、正味が目減りしようとも、たとえなん分の一に過ぎぬとしても、軽い義足ができるのであれば協力すべきだと考えた。ジャラジャラの快感を求めづづけて、今日に至っている。

 帰途、数日前に〆鯖で一杯やったばかりの居酒屋の前を通る。まだ開店前で、業者から納品された仕入れ荷物が、入り口前に積まれてあった。ダンボールの印刷を眼にして、珍しい社名の業者さんもあるもんだと、咄嗟に感じた。が、よく視ると、違った。Made in Laos と印刷してある。
 ラオスの山の樹で焼いた炭らしい。ウバメガシに匹敵するような硬い樹が、南の山国にもあるのだろうか。日本の職人たちが、材質吟味や技術指導に多数赴いたのだろうか。いずれにもせよ、私はラオスの「備長炭」の火であぶった焼トリを食い、その火で熱した油で揚げた串カツを、食っているわけだ。
 公園を歩いていたときよりも、少し気が開けた。

一千と百日〈口上〉

【仙厓】吉野でも花の下より鼻の下(部分)

 昨日投稿いたしましたる「その日はきっと」をもちまして、当『一朴洞日記』は一千と百日連続投稿を達成。本日は一千百一日目でございます。私ごとながら、ひとつの区切れ目には相違なく、あなたさまを始めといたします読者の皆みなさまにたいしまして、ひと言お礼申しあげたく、ちょいと間に挟ませていただきます。

 と申しましても、つい数日前に、「立上げより満三年」の口上を申しあげましたばかりでございますゆえ、あなたさまにおかれましては、めでたさも新鮮味もお感じいただけまいかと存じあげます。いかにも当然でございます。
 しかしながら、365 の三倍と 1100 とがごく近うございますのは、私の責任ではございませぬ。それも区切れ目これも区切れ目。重ねてお礼申しあげます次第にございます。ありがとうございます。

 加えまして、本年一月下旬に口上申しあげましたるは「一千日目」で、数字的にきわだった区切れ目でございましたが、本日はそれにおまけの「百」がひとつ付いただけの、なんとも地味な区切れ目でございます。
 また口上にて申しあげたき心境や心構えといたしましては、数日前の「満三年」と変るはずもなく、改めて繰返すも失礼かと存じ、割愛させていただきます。

 「一千日目」のタイトル写真には、仙厓和尚によります「鴉と白鷺」の画を用いました。それに倣いまして今回も仙厓画集から、本日は花見風景の画をお示しいたします。
 桜樹の根かたに、なにやら不機嫌そうでも寂しそうでもあるご仁が一人、苦虫を噛みつぶした顔をしております。だれにも相手にされておりません。私もトリミングにて省きました。幔幕の向うなのか、一段高い場所ででもあるのか、とにかく画の上部には、揃いも揃って無警戒な阿呆面をさらけ出して、浮れはしゃぐ酔客たちが描かれております。
 賛が添えられてございまして、「吉野でも花の下より鼻の下」と戯れ句が書かれてあります。一見して、西行法師への諷刺と判ります。

 「願はくは花のもとにて春死なむこの如月(きさらぎ)の望月のころ」ばかりがあまりに有名でございますが、これはまあ西行の、世間へ向けての挨拶のような歌かと。辞世歌のようにおっしゃるかたもおいでですが、西行が花の時期に他界したことから来る勘違いで、実際には寂滅よりもずうっと前に詠まれて、歌集にも収録されてあります。
 それよりは「吉野山去年(こぞ)の枝折(しおり)の道かへてまだ見ぬかたの花をたづねむ」のほうが、西行の気性や志を如実に示しているかと思われます。しかし西行のそういう丈夫さ、積極さ、行動力、進取性などこそが、まさに仙厓をして諷刺の的に懸けさせた点だったのではございますまいか。今風に申せば、前向きに過ぎます。偉過ぎて、閉口するほどでございます。
 仙厓の句に短句を付けまして戯れ歌にいたすとなれば、「袖の下よりまづヘソの下」ということにでもなりましょう。

 愚にもつかぬ無駄噺となりましたが、一千と百日のお礼に代えさせていただきます。今後ともどうぞよろしく、伏してお願い申しあげます。

その日はきっと

 
 第一日目。門扉から入ってすぐの建屋がわ。

 好天続きの数日、片づけに精を出したいところながら、珍しく外歩きを頑張ったりしたこともあって、肉体疲労気味だ。雑草むしりをわずかづつでも進めようかと。
 春もそこそこに夏日到来とか。元気な若者でも、躰を馴らすのが容易でないらしい。ましてや年寄りは、ことに熱中症に注意せよと、ラジオでは番組を問わず繰返している。
 そこで、一日ひと坪を目処に、三十分で作業を切上げてはいかがかと。まことに歯がゆく、情なき仕儀ではあるが、体調急変して救急車騒ぎでも起してしまっては、多くのかたがたにご迷惑をおかけしてしまう。自分で思っているほど私は強くない、を基本方針に据えなければなるまい。
 表を通りかかったかたから見えるところを、まずもって。これは見栄だろうか、それとも世間さまに対する礼儀だろうか。

 
 第二日目。玄関脇。スタジオ兼倉庫へと渡る隙間。ここは往来通行人からは見えない。

 一日ひと坪の亀進行でどうなるものか。作業できぬ雨天もあれば、気乗りがしない油照りの日もあろうに。いくら狭い敷地内とはいえ、ひと渉りしたころには、最初の区域にはなにかが芽を出しているだろうに。イタチごっこではないか。
 いかにもさようだ。どうにかならぬものかと、かつてたまたま居酒屋で隣り合せたお若い造園業者さんに訊ねたことがある。方策はふたつあるとのことだった。除草剤を撒くか、全面を発芽防止シートで覆うかだとういう。それ以外の方策はないとのご返事だった。
 除草剤と気軽におっしゃるが、敷地内全体の土壌に毒を混ぜろということだ。ご免こうむりたい。発芽防止シートは、建築予定のある更地で視たことがある。全面黒づくめの、ビニールシートみたいなもので、地表をすべて覆ってしまうのだ。建築予定地ならまだしも、個人宅にはそぐわない。
 教えてくださった造園業の若者も、けっしてお奨めはいたしませんがね、と云っていた。

 たしかに亀進行のイタチごっこだ。しかしいつかは追いつけるのではないか。その日はきっとやって来ると、胸の隅っこで思っている自分がある。可能性を数値化すれば、絶望的に低い数字かもしれないが。
 だれ一人として視たことも経験したこともない基準で、人間はものを考えがちな動物だ。なにごとも話合いで解決する世界。差別意識を抱かぬ人間性。妬んだり劣等感に苛まれたりせぬ人生。すべて画に描いた餅である。だのにそれらを基準に他人を攻撃(口撃?)する暇人もある。笑える。
 もしも人間が、なにごとにも叡知をもって対応できる動物であったなら、第一次世界大戦なんぞ起らなかったはずではないか。さすれば二十世紀は、よほど様相を異にした時代でありえたではないか。現代も、かくのごとくではなかったかもしれない。
 つまりなんだ、そのぅ、私の草むしりも、笑える、ということか。

 
 第三日目。往来に面した、桜樹の切株周辺。ブロック塀は喪われ、交通安全のオレンジ・フェンスで往来と仕切られてある。

 四月五日まで、桜樹が花を咲かせていた。梢は二階家の屋根の高さほどあった。それが突如へし折られた。危険かつ周囲に迷惑だとの警察署と東電とからのご指導で、へし折られた地上部は即日撤去された。
 老木とはいえ、地中部はたいした量の水分やエネルギーを幹や枝葉に送っていたことだろう。長年の習慣は伊達じゃない。この一か月の反発は力強いもので、もの凄い量のヒコバエというか新芽を出してきた。あたりのヤブガラシやフキなど、対抗しうべくもない様相だ。

 気持は解るが老樹よ、今ここで不平・苦情を云ってはならない。ヒコバエはすべて剪定鋏で伐り、周辺の草むしりも済ませる。
 遅かれ早かれ、東京都から召上げられる土地だ。非力ではございましたが、そして亀進行ではありましたが、できる限りは管理をいたしてまいりましたと、口上を付けて東京都に渡してやるつもりだ。

 本音を吐出す機会が二度と訪れなかったりすると残念だから、ここで記しておこう。
 ヤイッ東京都! 住民の気持を考えもしねえで、図面の上でばかり仕事してんじゃねえゾッ。
 ヤイッ保険屋! 現場を確かめに来もしねえで、業界慣習や判例集でばかり考えてんじゃねえゾッ。

月並ですが



 結局はいつもの店で、いつもの席で、〆鯖に冷奴。うんざりするほど月並な定番だ。

 なん年ぶりかで、巣鴨駅周辺を歩いた。
 学生時分には、同人雑誌の月例会や合評会を、駅前の喫茶店「白鳥」で催した。雑居ビルの二階全部を占めた、L 字型に広がるだだっ広い店で、いつ行っても満席の心配がないので、便利だった。最低でも月一で巣鴨駅に下車していたことになる。
 社会人になってからは、山手線から都営地下鉄三田線への乗換駅だった。神保町へ出かけるための通過点だったわけだ。巣鴨の街へ出る機会は、めっきり少なくなった。
 同じ神保町目当てでも、その日の狙いや目論見によって、営団丸ノ内線お茶の水駅を出発点とする場合と、都営三田線神保町駅からスタートする場合とがあったわけだ。

 なにせ駅前を走る大通りは国道17号線だ。北側ほどなくから枝分れする「とげぬき地蔵尊通り」は旧中山道である。おいそれと変りようのない道筋だ。しかし街の風情はだいぶ変化したと、風の便りに耳にしてはいる。

 
 駅前からとげぬき地蔵へと向う商店街は、発電所になっていた。商店街アーチには「すがも駅前太陽光発電所」と大書してある。「お婆ちゃんの原宿」と異名をとったお地蔵さまへお詣りしようと思えば、発電設備の下を通って行くことになる。
 国道の対岸を歩いていた私の眼には、どこまで続くのかと思われる太陽光パネルの列に、なにやら感じるものがあった。あえて申せば、痛いたしい印象を受ける。

 時代を先取りした気分なのだろうか。国政や都政の要請に敏感に反応した、優秀な商店街とアピールしたつもりだろうか。商店街の照明や音声を自家発電で賄えれば、たしかに有益だろう。だが街の景観としては、なにやら不似合いでそぐわぬ、いやそれどころかズタズタの印象がある。そんなことには慣れろという主張なのだろう。
 たしかに馬車を廃止して市電を通したときも、その路面鉄路を引っぺがしてバスと自動車の道にしたときも、守旧派からは痛いたしいとの苦情が殺到し、それには慣れろと説き伏せて、時代は進行してきたのだったろう。今回も同様だろうか。ほんとうにそうか。

 科学技術にはまったく無知だ。ただパネルの部品のほとんどが、廉価の外国製だとは知っている。国内生産品よりも外国製が廉価であるについては、とあるカラクリが介在していることも知っている。
 パネルの耐用年数が来て、取り外しもしくは交換したとき、部品と接着剤の特殊性から、現在の技術をもってしては解体・再利用が不可能だとも聴かされている。よしんば技術的に可能でも、コスト的に見合わないため、そのままの形で固形ゴミ化するほかないとも聴かされている。ほんとうに廉価なのだろうか。

 繰返すが、私は科学技術に無知だ。が、国語的疑問をも抱いている。「再生可能エネルギー」とは、なにを指しているのだろうか。そもそもの定義からして変だ。使われ解消する力をエネルギーと称ぶのであって、エネルギーは本来再生されたりしない。できない。廉価な、もしくは無料の自然エネルギーによって発電機を回すと云っているのであって、エネルギーが再生するわけではない。つまり発電機は摩耗し、老朽化するわけだ。その発電機部品が再生・再利用できぬとなれば、事態はどうなるのだろうか。
 言葉のまやかしがある気がしてならない。都電を廃止して自動車専用道路にしたのとは、事情が異なる気がしてならない。

 しかしまあ、人間がしでかしてきたことが一度で図星を刺したことなどありはしない。行き過ぎ、揺り戻され、振り子運動の振れ幅が次第に小さくなって、ついには定見に至る。なにごともさように違いあるまい。
 ただこの問題が、国家の命運や民族の消長にまで関わる根っこを持っていそうな気配なので、少々気が揉めるというまでだ。
 なにごとも経験だ。発電所の下の商店街を歩いてみた。「千成もなか」も「千鳥まんじゅう」も昔のままだった。少し気が楽になった。


 好天のもとを、久びさに歩き過ぎた。生ビールのジョッキを呷りたいと、切実に感じた。しかし歩き慣れぬ土地で万一のことでもあってはと、自重した。
 駅前に喫茶店ルノアール」があった。これなら私でも入店できる。「白鳥」はとうの昔に消えた。「スターバックス」だとメニューも注文のしかたも判らない。
 飲み物のカップなりグラスなりが空になるころを視計らって、温かい緑茶がサービスされる。昔から変らぬルノアール流だ。
 たしか昨日だか一昨日だかが、八十八夜だった。そういえば長らく日本茶というものを飲んでないなあと思ったばかりだ。ここで逢うとはまさに重畳である。味のほうはと申せば、緑茶ってこんなんだったっけという気がした。ルノアールさん、ごめんなさい。私の舌がそうとうイカレてるんです。

 で、ようやくわが町へと帰ってきた。〆鯖に冷奴である。