うすにごり酒「霧筑波」の一升瓶が届いた。その名のとおり朝霧のごとくうっすらと濁った酒で、濁りがかすかな甘みとなって口当りよく、酔い心地も比類なく、とにかく他では味わったことのないタイプの美味い酒である。
ご恵贈くださったのは、早稲田大学英文学科の大島一彦名誉教授だ。たしか教授ご郷里の蔵元である。
イギリス近代小説のご研究者である大島さんは私より二歳年長でいらっしゃる。英文学科教授でもあられた小説家の小沼丹先生の惣領弟子である。当然ながら無類の文学好きだが、表面上は終始折り目正しき学究の節度を保たれた。
私は零細出版社に身を置いて、教材のご用命をいただいたり、ご著書上梓のお手伝いをうけたまわる泡沫出入り業者の一人だった。が、親しく商談させていただくうちに噺がつい脱線して、私の裏の顔すなわち名を変えて雑文を書き散らす二流ライターでもあることを、知られてしまった。これがわが人生後半の幕開けだった。
当時文芸学科には専任教員を設けず、他学科からの出向教授と外部から招いた非常勤講師によって構成されていた。ある年、持ち回りみたいな当番制ででもあったものか、英文学科の大島教授が文芸学科主任を兼務するということとなった。
文芸学科の学生気質は、英文学科やその他の学科とは異なる。学問する気なんぞ初めからない。作家になるには、映画監督になるには、ジャーナリストになるにはと、機会を窺い夢を抱く野心家青年たちだ。いわば北辰一刀流の免許皆伝を目指すよりは、手っとり早く鎖鎌か手裏剣で勝負してしまいたい山賊集団である。当然ながら正統的英文学者大島教授の手には余る。
そこで教授は一計を案じた。毒をもって毒を制するの条。山賊の予備軍に胸を貸すには、実物の山賊をもってするが良策と。で、私が呼ばれた。
「講師ですかあ。私でよろしいんでしたら、そりゃあ拝命いたしますけれども。で、私は学生諸君になにを喋ればいいんで?」
「それはこれから考える。一文(昼)と二文(夜間部)の両方を持ってもらうから、金曜の五限と六限を空けといて」
「承知しました。ですが、金曜ってのはまたどういうわけで?」
「ぼくの出講日。あとで飲む都合」
で、毎週金曜は、講義がハネたあとは大久保「くろがね」にて大島さんや英文学科の皆さんと盃を交わすこととなった。私の出身学科である日本文学科の教員連中とは、親しく付合う機会がなかなか訪れなかった。
この噺には後段がある。大島さんとのやりとりを近くの席で聴いていたのが、小説家の夫馬基彦さんだった。フランス文学科ご出身で六年ほど先輩だ。日本大学藝術学部(いわゆる日芸)文芸学科の教授でいらっしゃったが、週に一日早稲田へも非常勤講師として出講され、酒席をご一緒することもあった。じつは「オマエ教師やってみないか」と水を向けてきたのは、大島さんより夫馬さんが先だったかもしれない。
「先輩、せっかくですが私、教員ってがらじゃありませんよ」
とご辞退申してあった。ところが大島さんからのお誘いで、早稲田へ出ることになった。お気を悪くされたのだろうか、夫馬さんの口ぶりは、
「へえ、オマエ早稲田へは出ても、日芸には来ないってか。へえー」
いや先輩、そういう意味ではなくてですね。で、翌年から掛けもちで、日本大学にもお世話になることとなった。結果として、早稲田の二倍以上の年月を、日本大学藝術学部文芸学科の一員として過すこととなったのだから、物の弾みとはいい加減なものともいえる。
大島さんからは、現代文学史というか、戦後日本の作家たちの顔ぶれと作風との見取図が、早稲田の学生諸君の頭に入るようにしてほしいとオーダーされた。加えて批評というものが、他人のふんどしで相撲を取るなんぞということにとどまらず、それ自体が創造的文学行為であることも、学生諸君に解らせてやってほしい、とのオーダーだった。
夫馬さんからは、分野はなんでもいいから、とにかく書ける学生を日芸から出してほしいとオーダーされた。
それぞれ納得がゆくオーダーだったので、それらに応えるべく自分なりに工夫して喋ってきた。だから早稲田で私を知った卒業生は、私を文学史と文芸批評の教師だと今でも思っている。日芸で出逢った卒業生は、私を創作実習の教師だと今でも思っている。二十五歳のときにはこれでも萬葉学徒のはしくれだったと知る者は、ほとんどない。
わが人生の後半戦の扉を開いてくださったご恩ある先輩がたのお一人から、すこぶる美味い酒が届いた。一升瓶のなかでまだ生きてる酒だ。王冠を外すときには独特な音がする。ラベルにも同封された商品説明書にも、冷蔵庫にて保管するようにとの厳重注意が印刷されてある。
あれとあれとを重ねて、あれはあっちへ移動して、それはこっちへ片づけて。独り暮しの貧しい冷蔵庫にあって、一升瓶を収める空間を確保するには、かなりの知恵と決断とを要する。大島さんからこの酒を頂戴するたびに、嬉しい頭痛に襲われる。