一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

ご都合

 SNSやユーチューブほか、私設媒体が増えることは、総体的に看れば、好いことと思っている。個人情報が抜かれ、機密が流出したなどという弊害も耳にするし、国際規模のハッカーの横行も取沙汰されるが、それらは機能の可能性に人間の知恵が追付けぬところに生じるジレンマであって、改善の余地はある。
 ただし、いかに改善したところで、抜け道の完全撲滅など望むべくもないもので、イタチごっこの様相を呈するは必定だ。
 幕府がいかに眼を光らせようが、抜け荷の品と交換に金銀は流失したし、いくたび贅沢禁止令を更新しても、オモテ太物ウラ呉服は姿を消さなかった。
 時代の動きは、人智の計らいなどをはるかに凌駕する。

 けれどもそれは大局の形勢であって、渦中に生きる一個人の信条においては、旧弊に立てこもって時流に棹差すも、また勝手だ。
 私設媒体隆盛のなかで、未訓練の話者や国語認識稚拙の字幕筆者が跋扈することも、避けられない。世に云う「ラ抜き言葉」なぞも、私設媒体にあっては、完全に市民権を得た恰好だ。

 この件に関して私は、旧弊立てこもり頑固論者だ。理由は簡単。耳に汚いからだ。そして「汚い」と感じない人が増えれば、話し言葉など、他愛もなく変化してゆく。
 ラ抜き容認の弁にしばしば顔を出すのが、「言葉は活きている」との言い草だ。おっしゃるとおり、言葉は活きている。が、それは本来別の意味であって、字面だけ都合よく援用しては、いけやせんぜ。

 一段活用の動詞未然形には「られる」が付いた。人に避けられたのであり、この服はまだ着られるのである。ところで五段活用の動詞では、未然形末尾がア段となるので、新聞が読まられ、記事が書かられるでは、ア段の連続が発音しづらく、耳にも汚い。ラが省略されて、読まれ書かれることになる。動詞が四段・二段に活用し、助動詞が「らる」「る」だった文語時代からの、慣用の自然だろう。

 繰返すがこんな慣用など、発音しづらく耳に汚い、という感性が失われれば、ひとたまりもなく踏み破られる。であるから、それでよろしいとおっしゃるのであれば、どうぞご自由に。
 でもこんな場合はどうですか。貧乏下宿のひと部屋。なげしのフックに、よれよれのレインコート。持主はまだ、このコートは〈着れる〉と思っている。冷蔵庫には、先週の宅配ピザの残り。彼はまだ、大丈夫〈食べれる〉と思っている。
 『青い鳥』や『森は生きている』じゃないけれど、深夜になって、物たちの生命が動きだす。レインコートは云う。「本音を云やぁ、おいらずっと前から、こいつに〈着られる〉のは大嫌いだったんだ」すかさずピザが歌いだす。「危ない危ない今のあたい、〈食べられ〉たりでもしたら、悪さするかもね~」

 容認論者の先生はおっしゃる。助動詞「れる」「られる」の意味は受身・可能・自発・尊敬など。可能用法ではラ抜きとなり、受身用法ではラが残る。誤解を避けようと無意識に使い分けている、庶民大衆の知恵なのだ、と。
 どうですかねぇ。ご都合主義の後付けじゃないかしらん。