一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

埋れたように

 

 ようやく陽の目を視たユキノシタである。

 東に接する隣家との境界塀ぎわのむしり残しを、数日前に潰したのだったが、ユキノシタだけは、あえてむしらずに目こぼししておいた。似たものがほとんどない特徴ある花を観てから、まとめて始末しても遅くはないからだ。
 春先から今日まで、成長力において傍若無人ドクダミやシダに先を越されて、また彼岸花の葉の鬱蒼たる繁りの陰に隠れて、特徴ある円形の葉がろくに眼に着くことすらなかった。さては姿を消してしまったろうか、昨年のむしりが徹底し過ぎていたろうかと、訝られるほどだった。繁茂する草ぐさの葉を描き分けてみると、十円百円硬貨ほどの幼葉が点々と芽吹いていて、絶滅したわけではなかったと知れるていどだった。

 それがようやくここへ来て、花時を迎えた。虫媒を狙っているものか、風媒が本意なのかは知らぬが、花を着けたからには、次世代を残す気はあるのだろう。そしておおむね意を達したのだろう。今世代最後の檜舞台を踏ませるつもりで、周囲の草ぐさをむしり取っておいたのだ。彼にしてみれば、一年のうちでほんのわずかな日数だけ、だれからも妨害されずに、直射日光を浴びる。それが彼の望むところか否かは、私の知るところではない。あんがい直射日光が苦手で、他人の陰に隠れて過すことを好んでいるのかもしれない。
 だが花を着けての最後の舞いは、人眼に着かぬわけにはゆかない。そして今世代の最期を迎えることになる。近ぢか私がむしり抜くからである。

  
 数日前のこと、旧い仲間が六人ほど集っての小宴が催された。ご店主とも長い付合いだから、仲間七人の宴とも云える。
 いち早く自主定年して、生活拠点を中国に移していた一人が、疫病騒ぎで帰国したきり戻れなくなって数年経ってしまった。もはや中国生活を断念して切上げるほかはなく、これまで住いや荷物の管理を知人に依頼してきたのを、整理し処分し、諸方への礼やら感謝やらの挨拶廻りを済ますべく、近ぢか中国へ渡らねばならぬという。
 かの地では、日本語教師を振出しに、元来本職であるテレビ番組制作にまつわる現地の若手指導など、いくつかの仕事を持ったから、挨拶廻りといっても北京から河北省、上海、杭州と数の多さも地域の広さもなかなかで、短日数では済みそうもないという。そこで壮行の小宴となったわけだ。

 会場は日暮里から根岸へと延びる旧王子街道に面した居酒屋で、近所には羽二重団子の本店ビルがある。落ちこぼれ中高生時分から六十年の付合いにもなる仲間らが、若き日から集ってきた店だから、近隣の風景の変化についても、各人それぞれに想い出はある。
 店の前に立って首を廻らせば、右も左も高層ビル群だ。集合住宅だろうかビジネスビルだろうか。住宅だとすれば、こういう処にはいかなる人が住んでいるのだろうか。見当もつかない。
 向うからこっちを眺めれば、千尋の谷の底に埋れたように見えていることだろう。どっこい、老舗の居酒屋が灯を点けているぞ。看板なんぞない。屋号を染抜いた暖簾もさがってない。長年にわたってしぶとく商売してきた店主がいるとは、新住民には想像もつくまい。そこでは、老いたりとはいえそれぞれ腕に覚えの変態老人集団が、今宵も酒を酌み交しているぞ。
 ここは千尋の谷底なんぞではない。蟻地獄の巣の底だぞ。お気を付けたまえなんぞとは、口が裂けても云わないが。