一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

めっきり


 外見・外聞はあと回しにしたつもりなんだけど。

 秋の草むしりも後半戦。建屋南側の、ブロック塀を隔てて往来に接する地帯である。桜の老樹、花梨、鳥に運ばれてどこからかやってきた万両と、大小三株の樹木の根周りだ。
 梅雨時だったか、桜の徒長枝を払うべく、植木職の親方が入ってくださった。そのさいに下草まできれいにしてくださった。なるほど草引きとはこうするものかとため息しか出ない、見事な草引き跡だった。
 引残し皆無のサラとなった地面から、有利も不利もなしにヨーイドンの一斉再スタートとなれば、足が速くダッシュ力猛烈なものの天下である。つまりヤブガラシの独壇場だ。陽当りか風通しか土質か、いかなる事情かは知らぬが、シダもドクダミも、タンポポユキノシタも、不思議とこの地帯ヘは入ってこない。好い按配と思って、地下足袋や靴やサンダルの底には注意している。種子だの胞子だの根っこの切れっぱしだのを運びこまぬよう警戒する気分だ。

 対抗して伸びてくるものといえば、地面からはフキ、老桜樹の節ぶしの瘤からはヒコバエくらいしかない。両者ともに頑強だから、鎌と剪定鋏とが必要となる。あとは始末に容易な、ごく小さくひ弱な草ぐさばかりだから、草むしりは一気に進む。
 正味五十分の作業で、いつもの粗雑草むしりは済んだ。桜の根周りが姿を現した。こんもりしたヤブガラシの山から万両の枝葉が姿を現した。作業時間の割には、刈草山は大きくなった。他へは運ばずに、この場の片隅で枯れさせることとする。

 伸びあがって塀の上から覗く通行人もあるまいが、脇からの出入りは金属格子の木戸にすぎない。通りすがりに内を覗き窺おうと思えば丸見えの地帯だ。いわば拙宅における、世間と接している地帯である。にもかかわらずわが草むしりにおいて、このあたりはいつも後回しにされてきた。他意はない。まずひと眼に着きやすいところから、という順序選択が気に入らぬだけである。

 もうひとつ、この時期ならではの理由もあった。建屋周辺の草むしりが進行するにつれて、コオロギの啼き声は見るみる激減してきた。今ではわずかにむしり残った隅っこの小さな草むらで、いく匹かが孤独に啼いている状況だ。
 ところがこの地帯のコオロギは、昨夜まで元気一杯だった。道行く人たちの耳にも、うるさいほどに届いていたことだろう。もちろん、気づく人に限っての噺だが。

 草ぐさの繁茂する空地だの、灌木の繁みだのというものが、ご近所から姿を消して久しい。手入れの行き届いた庭木や芝生庭のお宅は珍しくない。蝶も舞い来るし、蟲も啼く。しかしである。身贔屓を承知で申すが、元気が違う。おそらくは木の根・草の根や、蜘蛛や蟻や、ミミズやダンゴムシやハサミムシや、地表と地中の小動物たち総体が織りなす環境によるのだろう。
 だからどうだという、自己欺瞞的な思い込みに過ぎない。が、とにかく、ぎりぎり一杯まで日延べした末に、やむにやまれぬ日程上の都合から本日着手という手順で、この地帯の草むしりがしたかったのである。

 お通りすがりの皆さん、今宵からは、あの手入れ行届かぬむさ苦しい家の前を通られれも、いつも聞えてきた蟲の音はめっきり減ります。