一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

日曜日には



 グレゴリー・ペックと聴くと、連想ゲームのように『ローマの休日』が浮ぶのがふつうだろうが、異なる記憶がもうひとつ私にはある。フレッド・ジンネマン監督の『日曜日には鼠を殺せ』だ。

 スペイン内戦に敗れ、フランコ政権による追求の手から逃れてフランスへ亡命して二十年になる、かつての反政府レジスタンスのリーダーが主人公だ。ひとりの少年が訪れる。父親が殺されたので、仇を撃って欲しいと頼まれる。少年の父親は、レジスタンス時代の主人公の同志だったが、少年の懇願を断る。気力も体力も、かつての彼ではない。
 主人公の母は病床にあって、権力による罠(ネズミ狩り)を察知し、息子にけっしてスペインへ戻ってはならぬと伝えて欲しいと、いまわのきわに神父に依頼する。伝言を聴いた主人公は、高潔な神父と深く話し合い、あえてスペインへ赴く決心をする。罠とは承知しつつも、老兵は二十年ぶりに国境を越える。
 『ローマの休日』での若き長身の新聞記者とは似ても似つかぬ、渋く深いグレゴリー・ペックだった。


 数日前に、三日間かけて二匹の家ネズミを駆除した経緯を書いた。そこでは、間もなく絶命させられる生きもの、もしくは絶命したばかりの亡骸に「レンズを向ける気には、さすがにならなかった」と書いた。嘘を書いたつもりはなかったが、どうにも気になった。
 本当だろうか。正直だったろうか。いや、筆を執る者として正しい気構えだろうか。それどころか、むしろ偽善的ではないか。自己防衛の自己欺瞞ではないのだろうか。

 台所の椅子に腰掛けて、ラジオから流れてくる高橋源一郎さんの声(「飛ぶ教室」といったか)に耳を傾けながら、食後の一服をしているときだった。視野の隅を黒いものが、もの凄い速度でよぎった。顔を向けると、もう見えなかった。
 トイレ手前の洗面所を、階段側から窓側へとよぎったのだ。これまで想定していなかったネズミ通路だ。窓側にネズミ穴は発見されてない。よほど空腹なときには石鹸をかじることもあるから、隠してある。
 ということは、勝手知ったる餌場への道ではない。どこかへ出掛ける道でも巣へ帰る道でもない。あたりを偵察巡回しているにちがいない。ふたたび、ということは、たった今往ったこの道を、やがて還ってくるのではあるまいか。
 私は足音を忍ばせるように立って、他の場所に仕掛けてあった粘着兵器を、そうっとその場所に移した。人間が息を殺して足音を忍ばせたところで、しょせんネズミには聴き取られてしまう。それどころか、ネズミはどんな微弱電波を感知するものか、当方の意気込みや意欲までをも察知するだろうから、なるべく心平らかに平静を心掛けて、さりげなく行動した。

 三匹目が獲れた。またも仔ネズミだ。すみやかに成仏させてやらねばならない。バケツの水にジャボンだ。だがその前に、さて考え処だ。動物愛護運動家がなんとおっしゃるかは知らない。今回はシャッターを押すことにした。
 水浸しになった最新兵器と亡骸とを封入紐掛けする。バケツの水を捨てて、内側に手指消毒用アルコールをたっぷり噴霧する。三十秒ほどおいてから、洗剤で洗い流す。まだ確信を得られずにいる。