一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

夏の緑



 夏といえばサザンとチューブ(古い!)、いやキュウリとブロッコリーである。

 ブロッコリーが指定野菜とされることが決定し、再来年から実施されるとニュースで耳にして、川口青果店へ出かける気になった。
 常備野菜である玉ねぎとじゃが芋のふた品については、学友大北君の農園から頂戴してしまって、わが冷蔵庫の野菜室と物陰に吊るした玉ねぎネットとは、にわかに野菜お大臣となった。青果店への足は間遠になっていた。そんななかで、そうかブロッコリーかと、今さらに思い出した恰好だ。
 せっかくの青果店だ。つねに買い足す玉ねぎとじゃが芋の在庫がふんだんだとなると、さてもうひと品くらい、なにか買いたいもんだ。で、キュウリに眼が行った。ブロッコリーと並んで、夏の緑である。

 小学低学年のころ、近所に三兄弟があった。大工の棟梁の家だ。次男坊が私にとってもっとも親しい悪ガキ仲間だった。長男は悪ガキどもにとってのスーパースターで、とても仲間とは称べない存在だった。後年父親の後を継いで、工務店の社長になった。
 三男坊はまだ就学前で、母親からは特別扱いに可愛がられていたが、ガキどものなかではまだミソッカスだった。活発に走り回るガキどもに後れをとって、いつも泣きべそをかいていた。それをなだめようとしたものか、母親は三男坊にだけ特別なおやつを与えていた。細長いコップに塩水を張り、キュウリが一本差してあった。次男坊や私の足の速さについてこれずに、ガキ集団を視失ってしまった三男坊は、家の前の垣根の土台石におとなしく腰掛けて、キュウリをひとかじりしてはコップの水に浸け、またかじっていた。
 「チェッ、うまいことやってやがらあ」走り戻った私は、思ったもんだった。それでも次男坊や私にとっては、キュウリよりも走り勝つことのほうが、値打ちにおいて上位だった。

 キュウリというと、食べ了えたスイカの皮と並んで、虫の餌だった記憶がある。大型の虫籠で、コオロギとクツワムシ(ガチャガチャ)を飼ったことがある。同時にではない。ある年と翌年とにまたがってだ。スズムシはお前には無理だと云って、母が世話をした。私はガチャガチャがせいぜいだった。スズムシだけがなぜ違うのか、母の理屈に納得がゆかなかった。
 もっと納得できなかったのは、原っぱで日常あたりまえに眼にするキチキチバッタに、母が関心をもっていないことだった。私はキチキチバッタの細身の姿が好きだった。同じ細身でもカマキリはいけない。動作がスローモーで、いちいち威嚇するかのようにわざとらしい。飛ぶ姿だっていかにも不器用そうだ。かんたんには人間に捕まったりしないキチキチバッタの俊敏さとスマートさには、遠く及ばない。
 ただ原っぱにたくさんいる。珍しくない。それだけの理由でありがたがられないのは不当じゃないかと、子どもごころに思っていた。

 ガチャガチャがいつどんなふうにキュウリを食べるかと、ジッと観詰めていたことがある。けっして私の前では食事しなかった。そこへゆくとコオロギは、スイカの皮になん匹もが、まるでハエがたかるかのように集った。遠慮のない奴らだと思った。

 広さだの面積だのと称ぶもおこがましい、たんに通路でしかない拙宅の草叢でも、キチキチバッタは視かける。秋深まるころには、コオロギが夜通しうるさいほどに鳴きしきる。数は少ないが、カネタタキも鳴く。
 どちらさまでも同様だろうが、スズムシの音もガチャガチャの音も、もうなん十年も聴いてない。


 という次第で、わが食膳にも、夏の緑がやって来た。まずはあたりまえに、ブロッコリーは茹でてマヨネーズで、キュウリは塩揉みして三杯酢におろし生姜である。