一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

虎の巻



 教科書、できました。

 さて七月だ。下旬には、将来文筆家志望の若者たちに、なにか参考になることを、よしんば参考にならぬまでも愉しんでいただけるお喋りを、しなければならない。声も滑舌も近年劣化顕著な歯抜けジジイの噺をお聴きいただくわけだ。用心してかからねばならない。
 まだ元気だった時分から、お喋りのさいに台本というものを用意したことがない。ノートを読上げる講義のつまらなさには、学生時代にウンザリした憶えがある。たとえ云い損ないや漏れがふんだんに生じても、その場で浮んだ「活きた」言葉で喋らぬことには、お聴きの皆さんに伝わるはずがないと思ってきた。脱線もふいの思いつきも、避けるべきではない。それがライブというもんだ。

 中村光夫という人は、終始伏し目がちのままでボソボソと語るかただった。途切れ途切れの調子で、慎重に言葉を選んでおられた。たしかに筋道は正確だった。が、ご著書で読んだ噺とも云えた。平野謙も、筋道は正確だった。視線は宙を凝視することが多く、資料に眼を落すときに眼鏡を掛け替えたりされ、あれも一種の「間」かな「芸」のうちかなと、思わせられた。
 大江健三郎という人は、若き日に吃音癖があったとかで、独特な訥弁の雄弁といった語りかたをされた。随所でにこやかな表情を見せ、無学な者にも噛んで含めるように語ってくださったが、それでもつい不用意に漏れてしまったかのごとくに高尚な言葉や外国語が混じり、私にはむずかしかった。安部公房も「話し下手」を「売り」にしておられたが、出たとこ勝負系の語り手で、講演の最後には「今日も巧く喋れなかった、喋らなければよかった、気が滅入ってきた」とおっしゃって、壇を降りられた。

 福田恆存という人は、論争的に強く主張する箇所と、自分をダメ男のように卑下して見せる箇所との、いわゆる出し入れ自在の語りかたをされた。頭脳明晰しかもユーモアセンスの豊かな人とはこういう人をいうのかと感じ入った。
 剛胆辛辣にしてユーモア横溢という点では、直接ライブを聴いた先人のうちでは中野好夫が最右翼だ。風呂敷包みを小脇に抱えて登壇され、演台にドンッと置かれる。噺が佳境に差しかかって、引用やら文献への言及やらが必要になると、やおら「今日は拙い噺をごまかすべく、こうしてコケオドカシを持って参っておりましてな」と風呂敷包みの結びを解き始めた。分厚い原書がなん冊も現れた。内ポケットから取出した眼鏡をかけられ、
 「たしかコレに書かれていたような……あ、ここだここだ」
 と、探しあてたページを即興で日本語訳しながら紹介され、「ところがコッチにはまったく反対のことが」と、別な原書を取出された。語りの流れはごく自然でいささかも衒学的でなく、嫌味もなかった。この人はふだんから、こんなふうに考えてる人なんだと思わせられた。
 日本の学界における論争相手に言及したときには、きちんと紹介なさった。
 「○○大学の○○教授がナニガシ雑誌の〇月号に『ナニガシ雑感』という題で、本当の雑感を書いておられますが……」


 さて私自身のお喋りだが、もとより最新最先端の情報などではない。昔から先達が云い伝えてきた諸点を、私なりに焼き直すのがせいぜいだ。かといって、肝要な諸点を列挙するのみでは、お説教の箇条書きに了ってしまい、味気なくなんの妙味もない。そんなもんライブじゃない。
 一度も売れたことのない二流ライターでも、長年やってくるうちには、高名な文人や売れっ子たちの謦咳にも接してきた。その横顔や片言隻句から、将来ある若者たちの参考になりそうな逸話を、掻いつまんで紹介する。またわずかに記憶する書籍のうちには、今では読まれなくなったものも多いから、若者にとって耳よりと思える言説を紹介する。

 とりとめなく散漫な噺となってはならぬから、いちおうの統一主題と大まかな構成は設定するものの、喋りの大半は記憶まかせの出たとこ勝負だ。その時その場で、ふと思い出せば喋る。忘れたままだったら運のない話題だったと諦める。
 台本めいたものは用意しない。ただしメモを作る。こんな流れになろうかと、うっすら予想した自分の喋りを、自身でメモしたものだ。これを整序して、当日聴いてくださるかたがたにもお配りする。学会発表ででもあれば、さしづめレジュメとでも称ぶのだろうが、そんなもっともらしいもんではない。

 心してかかる点はと申せば、昨年一昨年との繰返しと差換えの問題だ。基礎のそのまた基礎の「初級編」をとのご用命だから、だれが喋っても似た点の多い噺になる。ましてや同じ老人が語って三年目となるのだ。こんな私にも、毎年聴いてくれる奇特なマニアが少数ながらあって、今年もやって来ることだろう。すこしは新ネタも混ぜないと……。
 出番には時間制約がある。どの噺は外すことができず、いずれを割愛して、新ネタを盛込むか、思案のしどころである。

 で、ひとまずメモができてしまった。腹づもりでは、もっと当日に近づいてから作成するつもりで、第一稿初案に軽く手を着けたつもりだった。ところが間の悪いことに、今日はまだ一度しか食事をしていなかった。もう一回、なにか摂取したほうが健康によろしい。かといって夜更けてからの内容ある食事は、かえって翌日の体調によろしくない。どうにも半端だ。
 寝酒代りに缶ビールでも空けて、ごまかしてしまおう。ところがである。これが裏目に出た。チビチビやりながらメモを眺めているうちに、眠気が差してくるどころかにわかに気合が乗ってきてしまい、大推敲作業となってしまった。明けがたには、ほぼ完成してしまったのである。

 しかたない。プリントアウトして、主催者の担当さまにお渡しするほかない。難題は実施日までまだ三週間以上あることだ。メモ内容を記憶しているはずがない。当日会場にて、さてなにを喋るつもりだったかなあと、立往生するにちがいないのだ。
 メモに助けてもらって、そうそう、こんなことを考えたのだったと、思い出す部分もあろうし、なんでこんなメモを書いたのだったかと、思い出せぬ部分も出てこよう。
 つまりこれは、お客さまへのサービスメモというよりは、私を助けてくれるアンチョコというわけだ。