一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

注意深く

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 お土産に頂戴してしまいましたよ。とらやの羊かん。注意深く、いたゞいております。

 昨年暮れの何日だったかの日記で、我が常用間食のひとつ、ひと口羊かんを紹介した。子どものおやつ用というか、ごく廉価で、ビッグエーの棚に並ぶ駄菓子のひとつだ。
 駄菓子という語は、ほんらい穀物の粉を用いた農村由来の菓子を云うのだろうが、この場合は、私が口にするような、庶民の味方価格のありふれた菓子、という意味だ。
 その羊かんをご紹介するにあたって、こんなふうに書いた。
 ――えっ、羊かんなら、とらやさんだろうって? さぁて聴いたことねえなぁ。

 むろん我が国屈指の老舗菓子舗を知らないはずはないわけで、たゞ高級ブランド一般を敬遠する私ごときの暮しにあって、口にする機会はめったにない、と申したつもりだった。
 が、読みようによっては、ずいぶん傲慢きわまる云い草と、聞えぬこともない。ま、そう聴かれても、いっこう構わないのだけれども。
 それを読んでくださったらしい若い友人が、ご来訪時に、お土産にくださったという次第だ。

 永井荷風は大正年間から、東京麻布の洋館に住み、屋敷をみずから偏奇館と称したが、戦時中の昭和二十年、有名な三月十日の東京大空襲で焼失した。月並な表現をすれば、所蔵する万巻の書物や逸品のすべてが灰燼に帰した。
 散人は身ひとつ、わずかにそれまで書き続けていた日記の束を、革の手提げかばんに詰め、偏奇館の焼け落ちるのを途中まで視届けてから、逃げた。今日、日記文学の代表として誰もが指を折る『断腸亭日乗』は、荷風散人の手提げかばんのなかで、戦火をくゞった文章である。

 その後、東京中野、明石、岡山と点々とするが、行く先ざきで戦災に遭い、すっかり神経衰弱状態に陥った荷風は、人が変ったようだったそうだ。同じく岡山に疎開していた谷崎潤一郎がその身を気遣い、日用品の調達など、何くれとなく援助したという。
 そして有名な一夜。牛肉が手に入ったから、すぐご来駕ありたし。谷崎からの来信。旅館に荷風を招いて、牛肉をご馳走したのが八月十四日。この時期に、谷崎はどういう苦労をして、牛肉を手に入れたものだろうか。

 翌日、岡山市内に戻って、荷風は敗戦を知る。知人に甘えて東京へ戻るが、着の身着のまゝでかばん一個。知人宅に厄介になりながらも、協調性に乏しい荷風は、どこでも喜ばれない。
 そんなとき、関西にあった谷崎潤一郎から、羊かんがひと棹、届けられた。甘党の荷風を思いやってのことだ。この時期に、谷崎はどういう苦労をして、羊かんを手に入れたものだろうか。
 荷風はその羊かんを、薄く薄く切って、惜しむように食べたという。

 お若い友人からのお心尽し、とらやの羊かんを、私はいかなる厚さに切ったものだろうか。注意深く、いたゞいているのである。
 さぁてこの次は、渋~いお茶が一杯、聴いたことねえなぁ。