一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

回してちょうだい



 「ご町内」という語があんがい好きである。

 今年のさていつごろからだったか、回覧板の材質が変った。カラー印刷された光沢紙をボール紙の芯に巻いた従来のものから、樹脂芯の表面をラミネート加工したものになった。芯も表面も、石油製品となったわけだ。傷付きにくく、ちょいとした汚れや指紋ていどは、簡単に拭い落せるようになった。
 同番地(なん丁目なん番まで一緒でなん号が異なる)の班長さんである邦枝さんが、拙宅玄関脇に放置された作業用踏台を兼ねる丸椅子に、そっと置いてくださる。おそらくは若奥様(ご同居のご長男のお嫁さん)だ。声掛け手渡しの習慣はない。私が留守がちだった時代の名残の習慣で、両家のあいだでの暗黙の了解に属する。
 判子を捺す枡目が手着かずのままで置いてくださる。先頭は邦枝さんの印でよろしいのに、私が最初の捺印者となる。先頭を余白にして、二番目の枡目に捺すことにしている。
 かつてはお隣の歯科医院さんへお回ししたもんだった。空地となってからはその向うの、クリーニング仲介を兼ねた小商いの雑貨店さんにお回しした。そこも空地になってからは角を曲って、地域の繁盛店で行列のできるベーカリーさんへと、お回しするようになっている。

 ♬ とんとん とんからりと 隣組
   格子を開ければ 顔なじみ
   廻してしょうだい  回覧板
   知らせられたり 知らせたり

 「戦時歌謡」と分類されてあるようだ。戦時下の国民に暮しの態度や心構えを普及教育すべく、いわば官憲奨励の唄だったのだろう。

 ♬ とんとん とんからりと 隣組
   あれこれ面倒 味噌醤油
   ご飯の炊きかた 垣根越し
   教えられたり 教えたり

 「今度の配給米、駄目ねえ。湯気の匂いが変だものぉ」
 「亭主の燗冷ましがいいんだけど、今はねえ。お塩少し、いいみたいよ。生姜の切れっぱしか、せめて剥き皮でもありゃいいんだけど、今はねえ」
 「そうだわねえ、いっそ渋柿の皮でも入れてみようかしらん」
 おかみさんたちの井戸端情報が聞えてくるようだ。

 岡本一平作詞、飯田信夫作曲。歌謡としては官憲の意図を遥かに超えた出来栄えで、敗戦後の飢餓状況がまだ記憶に新しかったわが幼少期には、好ましき国民歌謡としてふつうに唄われ、流行していた。
 半世紀後、この曲に替詞を付けて「♬ どんどんドリフの大爆笑」と唄った世代による「そんなに昔からドリフターズってあったんだ」との名言は傑作だった。今ではそのドリフが、若者世代には知られてないのだろう。
 岡本一平は一時代を画した漫画家と紹介されるが、ユーモア小説も随筆も多く、つまり風刺・ユーモア全般に羽ばたいた傑物だ。息子である後年のモダンアート画家岡本太郎を連れて甲子園で高校野球観戦したさいに、暑い盛りのこととて、応援席は高いところまで視はるかす白シャツに埋め尽されていた。太郎少年は思わず「うわぁアルプスみたいだぁ」と感嘆した。面白い比喩と感じた父は、随筆だか漫画のひと齣だかに書いた。今日の甲子園球場アルプススタンドの語源である。


 今日の回覧板は、年末最終と新春最初のゴミ出し日の連絡というか確認・念押し通知だった。例年同様の通知をいただいておきながら、歳末の慌しさに気を取られて、毎年のようにゴミ袋を物置きで歳越しさせてしまう。先ごろ分別方法が変更されたことでもあるし、今年はとくにうっかりできない。

 「ご町内」と同じく「向う三軒両隣」「お隣ご近所」なども好きな語である。ただし唄の題にもなっている「隣組」は嫌いだ。相互監視の匂いがあまりに強過ぎる。