一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

残りの大根



 知らないということは、処置のしようもないもんだ。

 「大根の天ぷらが、好きでしてねえ」
 「あぁ、ありゃあ美味いですもんねえ。あたしも大好きですよ」
 ネット上で、ふと耳にした会話の一節だ。思わず耳が尖った。寡聞にして「大根の天ぷら」というものを知らなかったのだ。賞味はおろか、視たことも耳にしたことすらなかった、と思う。この齢になって、そうそうあることじゃない。

 蓮根と同じように、適当な薄さに小口切りして、揚げればよろしいのだろうか。いや組織の構造上、熱の通りはよろしくなかろう。そういえばネット上での会話に、味が浸みてて美味い、ともあった。米の研ぎ汁による通常の下茹ででなく、味を付けてしまう下茹でが必要なのだろう。さていかがしたものか。皮剥きを了えた大根を前に、しばし考える。
 初心者に生意気な濃い味はご法度だ。まずは料理酒を水で割って、出汁の素を投じる。問題はその先だ。下茹でなしの生大根に、砂糖だの醤油だのが利くものだろうか。出汁が働くように、塩だけを投じる。まずはごく薄味の水煮の感覚だ。あとで揚げるのだ。飽くまでもこれは下茹でであって、煮込むわけではない。なにごとも経験は手前から。
 ともあれ食べやすいサイズにカットした大根の芯だけは、茹でて溶かした。味はまだ頼りなかろうが、第一回目はこれで行こう。大根が大根以外のものになってしまうほどに味付けしてはならない。


 学友大北君からご丹精の大根をいただいてある。小ぶりのものだ。エリート大根を巨きく育てるために、途中段階で生じる間引き大根だという。頃合いだ。泥つきで贈られてきたものを硬いほうのスポンジで洗ったら、じつにきれいな姫大根が現れた。
 大大根なら通常の小口切りでよかろうが、今回そうは行かない。熱の通りと味加減とを看るために、縦横いろいろに切ってみる。曲線により厚みが出てしまう部分には、よく浸みるように短く包丁を入れておく。
 茹であがったものを、ひと晩冷蔵庫で冷ましてみた。さて、揚げる。コロモが絡みにくい。ふだんの野菜揚げと同じく、油の火加減は低温に維持して、じっくり揚げた。

 つねのごとく完食。ひと口ひと箸づつ、いたずらに品目ばかり多いわが食膳にあっては、異色の一品としておおいに存在感を示してくれた。
 歯応え口当りについては申し分ない。だが味については、ネット上での会話で耳にしたほどの、騒ぎ立てるほどのものではない。大根のせいではない。やはり醤油・砂糖で濃い味を付けてしまうべきだったのだろうか。課題は残る。

 こんなことまで教えてくれるネット情報はあるものだろうか。さしたる期待もせずに検索してみたら、息を呑んだ。レシピが次つぎヒットしたのだ。どうやら大根天ぷらを知らなかったのは私一個の不覚に過ぎなかったらしい。
 おでんのアフターメニューとして、また残り物活用として有名らしい。だったら濃い味付けで煮込んでしまってよろしかったわけだ。先に云ってくれよォ、という想いだ。むろん正確な知識を前もって漁らなかった私の落度である。

 頭を冷して思い返せば、またもや私流だった。ろくに準備もせずに手を出してしまう。勝手な判断をする。結果から経験的に学べた気に、自分ではなる。が、正しい道筋を歩んだ者の眼からすれば、ごく当り前の結果に過ぎない。身をもって経験しなければならぬほどのことではない。
 今宵の経験と、七十有余年の来歴とは、独楽と天体の関係に似る。規模が違うだけで、同様の回転に過ぎない。どうというほどのことではなかった。ま、その最中が愉しくないこともなかった、というだけのことだ。
 この次は、もう少し巧くやる。さいわい大根は、まだある。