一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

順不同

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阿闍梨餅本舗「満月」(左から)京納言、阿闍梨餅、満月

 またも身にあまるご進物に与ってしまった。京都銘菓に不案内の身には、もちろん生れて初めて視る菓子だ。なるほど、味にうるさいかたがたは、こういう菓子を召しあがるのか。

 京納言は棹もの。小豆粒がこし餡に浮いていて、全体を寒天でつないである。夏に冷して食べたいサッパリ羊かんだが、粒餡の主張がきわだち、きんつばをいたゞくような食感もある。
 阿闍梨餅は比叡山で修行する阿闍梨の笠を模した焼饅頭。皮色は粉による普通の焼菓子に似て、その粘りはたしかに餅。なかは粒餡。
 満月は、庶民の分類で申せば栗饅頭。しかしなかは白豆餡で、裏ごしに工夫あるのか、すこぶるなめらか。さらなる工夫は玉子色の薄皮で、初体験の味と食感。どうすればこう焼けるのか。明治初頭、九條家からの注文に応じて考案されたという。
 本店が京都大学の近くに、支店が金閣のあたりにあるらしい。

 くださったのは、先年他界した従兄の夫人。娘さんとお暮しだが、さすがは女性ご家族、男がけっして眼を止めぬものを、毎回贈ってくださる。といっても、中元・歳暮を交換する間柄ではない。
 今回は、先日久しぶりに電話で近況交換したさいに、昨年十一月にわが父十三回忌を独りで済ませたと、つい口をすべらせてしまったために、仏前供物としていたゞいてしまった。なんでも報告すればいゝというものではない。お気を遣わせてしまった。

 亡くなった従兄と私とは同齢で、父親同士が兄弟だ。父の兄弟は、長兄が郷里の百姓家で跡を取り、次男である従兄の父親と、三男である我が父とは都会へ出た。次男と三男は生前、申し合せていた。互いの生家でもある長兄宅への挨拶は欠かせぬとしても、自分らは郷里を出て東京に住む者同士、やったりとったり行って来いは省略しようではないか。
 父親同士の申し合わせが習慣となり、私と従兄のあいだでも、中元・歳暮の交換はしてこなかった。

 六年ほど前のある夜、私は急に呼吸ができなくなった。急性心不全の発作で、救急車騒ぎを起したのである。すでに両親は他界し、独り住いだった。
 三日間救急治療室にいて、その後は循環器内科の病棟へ移された。落着いたところで、順不同ながら入院手続きという段になって、さて困った。家族も身元保証人もなく、肉親承諾を要する大掛りな治療ができないのである。

 日ごろ無沙汰がちなので気が引けたが、従兄に連絡をとった。別の大学病院ではあったが、彼も内科医だったのだ。専門違いの脳のドクターではあったが。
 ご夫婦して、何くれとなく気遣ってくださった。治療とリハビリで、私は娑婆復帰を遂げた。
 一病息災などと胸を撫でおろしていたのだが、なんたることか、退院十か月後に、その従兄のほうが亡くなってしまった。急進行性のがんだった。葬儀万端済んだあとで、夫人から聞かされた。
 「俺、アイツの身元保証人なんだよなぁ。一人住いだからなぁアイツは。俺、死ねないよなぁ」夫は最期まで、あなたのことがきちんと済んでいないと、気掛りだったようでした。

 父の代は、郷里の長兄が最初で、三男坊たる我が父が次だった。
 「伯父さん、本家の伯父貴やうちの父の分まで、長生きなさってください」
 従兄はあまり左手をやらぬほうなので、私が伯父に酌しながら、云ったものだった。
 息子の代も、そういう順序になるのではないかと、根拠もなく漠然と思い込んでいた。が、予想は外れた。

 毎年の年末押詰ると、カマボコ、黒豆、栗きんとん、伊達巻、それにホッケを何枚か、心安くしている水産品屋に見つくろってもらって、夫人のもとへ送らせてきた。大黒柱を突然失って、女性ばかりとなったご家庭の正月に、ほんのかすかにでも、彩りとなってくれゝばと願ってである。
 私は、進物に貴重なものや流行のものを選ぶことを好まない。月並で、平凡で、それでいて確実に役立つものが好い。

 ところが夫人からは、私なんぞがけっして思いつかぬ、女性ご家族ならではの眼の透ったご進物を贈ってくださる。そのたびに私は、両家の父たちの申し合わせをご説明し、私が送ったのは歳暮ではなく「ご仏前」だから、返礼ご無用とお願いしてきた。
 が、今回は先般の電話で、口がすべった。先様から「ご仏前」を贈られてしまったのである。京銘菓の化粧箱には、薄墨ののしが掛っていた。

 裏ごしに念を入れ、餡をきめ細かくねっとりさせる。粉でなく餅の皮にくるんで焼く。なるほど、茶席で食べるときに、ほろほろこぼれたりしないようにだな。
 今もって、俺の身元保証人、いねえなぁ。などとも考える。