一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

横断の視野



 学生時代に、谷川徹三の影響を受けた時期があった。

 今も熱心な読者はあるのだろうか。お若いかたには、詩人谷川俊太郎のお父上と説明しなければならぬかもしれない。肩書は哲学者という括りになっているのだろうが、芸術史・美学史に関する、柔軟で幅広い、啓蒙的エッセイストの著作として私は読んだ。『芸術の運命』が最初だった。
 家庭環境にも生立ちにも、美術の素養を育む要素などなかった私には、たまたま物の本で知った対象に場当り体当りでのめりこみながら、見聞を広めてゆくしかなかった。必然的に知識は粗密まだらとならざるをえなかった。そのまだら模様たるやひどいもので、梅原龍三郎坂本繁二郎の代表作を思い浮べることができても、熊谷守一をまったく知らなかった。『芸術の運命』所収の谷川徹三による紹介解説文で、その真価を初めて知ったのだった。

 知ってみて驚いた。画風や業績に驚いただけではない。熊谷画伯のお住いはわが近所で、悪ガキ時代の散策範囲だった。鬱蒼とした草樹に囲まれた日本家屋で、鬼ごっこの反則ラインぎりぎりの場所だった。そこから遠くへ逃げたら、ズルだったのである。
 草樹に囲まれた絵描きさんの家だと、大人から聴かされた気もするが、憶えてない。そして間抜けなことに、学生時分にようやく「スゲー樹ばっかの家」と熊谷守一とが結びついたのだった。跡地は現在、豊島区立熊谷守一美術館となっている。

 もっとも影響を受けた、もしくは恩恵をこうむった谷川著作となれば『縄文的原型と弥生的原型』だろう。日本人の造形美意識史の二元論には違いないのだが、説明するに絵画・彫刻・工芸・書・建築と、分野を大胆に横断しながら縦横に例示されたいちいちに、蒙を啓かれた。
 日本美意識史の二元論といえば、優美と静寂美(枯淡美)である。王朝絵巻と水墨南画、聚楽第桂離宮、清水・九谷と染付・焼締め、琳派等伯、哥麿と広重というように。「たおやめぶり」と「ますらおぶり」という指標まで定着している。
 谷川によれば、それらすべては弥生的原型へと遡る。それ以外に、ふだん日本美意識史の表面には顔を出さずに隠れていて、時おり間歇泉のごとく噴き出す、縄文的原型へと遡る美の点在が視逃せないという。ふだんは美とすら認識されず、ダイナミックではあるがグロテスクとも醜悪とも受取られかねぬ、荒あらしくむくつけき美であると、谷川は云う。運慶の仁王像が、一休・仙厓・白隠の書画が、志野・瀬戸黒が、北斎写楽が、富岡鉄斎が掲げられた。

 かくして日本の美意識史の大まかな見取図が完成する。王朝期に成立した優美伝統と鎌倉期に成立した静寂美伝統との二本柱が貫流するなかに、稀に突然変異の異体のごとくに出現する壮美(縄文的原型)の天才が彩りを添え、そればかりか一気に時代を進めると。
 むろん谷川指摘からこの見取図形成までのあいだには、壮美の検証にまつわる国学・国文学の碩学たちの著書がなん冊か挟まるし、長谷川如是閑丸山眞男ら畑違いの大物による外野考察も挟まる。ここでは省略しよう。
 ともあれ教養課程に四年間もくすぶっていた留年学生は、五年目にしてようやく思索の端緒を掴み、日本文学科古典コースの三年生へと進級したのだった。しかしもはや若き日の学問を追想する機会は訪れまい。谷川徹三を古書肆に出す。
 


 とかく怠けがちなわが心をいささかなりとも持ち応えようと、身近に置いたインテリアのいくつかが、埃を被ったまま放置されてあった。むろん学生だった私なんぞの手元に、直筆があるわけない。印刷物だ。おもちゃである。処分は古書肆に委ねる。