一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

撤退勧告



 またネズミが獲れた。今季四匹目だ。一昨年の実績に並んだ。
 またも仔ネズミだ。これまでの三匹と同様、体長は一昨年の仔ネズミたちよりも小さい。今年のトラップ設置の判断が、一昨年よりも早かったことを示していよう。
 親(たぶん母)ネズミはトラップに掛かってこない。用心(つまり知恵)深いのだろうか。それとも力が強いのだろうか。たぶん両方だ。

 使わなくなって電源も切ったままのファックス機の台の下を、黒いものが走り過ぎた。瞬時のことだったが、たまたま視野の隅で捉えた。半月以上も前のことだ。尻尾が十センチ以上もあった。明らかに親ネズミだ。
 近くの書棚の最下段あたりを物色しているのだろう。次なる地域へ移動するとしたら、観なくなって十年以上も埃を被ったままのテレビの背後を通って、玄関の下駄箱方面へ行くか、同じルートから分れて、冷蔵庫方面へ折れるかだ。いずれにせよ共通するのは、と予測して、テレビ背後の壁ぎわ細道から出てくるトンネル出口に、それまで他所に設置してあった最新粘着兵器を移動した。
 こちらの緊張を気取られてはまずいから、パソコン B 機へと席を移して、ソフト相手に碁を打ち始めた。

 五分十分と経ったころだ。パチッという音がした。トラップの位置が若干ずれている。テレビ裏のトンネルから出てきたネズミは、トラップの内側に片方の前足を着地させたらしい。あきらかに床とは感触が異なる。「ヤバイッ」とその足を引いた。重心がもう片方の前足および後足に残っていたので、引くことができ、命を取りとめた。
 それでも最新兵器の粘着性は強力だから、小さく細い前足の指はトラップに取られたことだろう。ネズミは必死で前足を引いた。瞬時の力は強かった。深く粘着するにいたってはいなかったトラップから、運よく前足ははがれた。火事場の馬鹿力さながら、瞬時に発揮されたネズミの必死な力によって、兵器の位置はわずかにずれた。
 おそらくは、あたりを窺いながらゆっくりと歩いていたのだろう。もし走っていたり、大胆に早足だったりしたら、前に出した足に重心が移動してしまい、一巻の了りだったことだろう。命冥加な母ネズミだ。さればこそ彼女に宛てて、ここに停戦協定および撤退勧告を申し入れたい。

〈撤退勧告――母ネズミ殿〉
 本年の繁殖キャンプ最適地として拙宅を選ばれたあなたの判断は、さすがでした。間抜けな年寄りの独り住いで、よろづに眼の届かぬ処が多いからです。
 しかしあなたは、老人の性癖について、一部の見誤りを犯しました。ふだん間抜けなこの老人は、いったん関心を抱くととたんに豹変し、些細なことにもこだわる執念深さを持合せております。あなたはその点を、甘く視ておいででした。

 あなたが数をどれほど数えられるものか、存じません。が、産み育てていたはすの仔たちが、それぞれに餌漁り実習訓練に出ていったまま、戻ってきた仔たちの数が眼に見えて減ってきているのには、すでにお気づきでしょう。
 十日ほど前までは、この調子ならネズミ算式に一家繁栄の王道楽土と楽観しておいでだったことでしょう。ところがこの一週間あまりで、状況はどう変化したでしょうか。
 今では、夜間行動を了えて、陽が登ると巣穴へ戻るはずのお仔たちの姿が、とんと見られなくなったのではございませんか。皆無となったか、一匹か、どんなに多くともせいぜいあと二匹と、私は踏んでおります。他は最新粘着兵器の餌食となり、私どもの手に落ちたのです。あなたがかつて「ヤバイッ」と、慌てて前足を引いた、あの粘着兵器です。

 そろそろ気がついてはいかがでしょうか。案に相違して、この家は繁殖にも仔育てにも最適地ではなかったと。キャンプ地設定の判断に誤算があったと。今からでも遅くはありません。拙宅から撤退して、他所へ移住なさるのが身のためです。
 それとも、飽くまでも踏みとどまって徹底抗戦なさいますか。となれば当方も、さらなる戦時国債の発行に踏切らねばなりません。なにせ最新鋭の粘着兵器を四基も消費しておりますので。また加えまして、ヒ素入り毒餌兵器までも配備する必要が生じてまいりますので。そうなれば総力戦です。当方はさような消耗戦を、望むものではありません。すみやかなる停戦ならびに拙宅からの撤退を、勧告いたすものであります。


 今日もあえて、悪趣味な写真を掲げる。このあと水を張ったバケツへと直行。すなわち絶命五分前の捕虜映像だ。これでも、ささやかな鎮魂回向のつもりである。