一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

間抜け



 肌に春風を感じるようになると、そして花便りに耳傾けるころともなると、アイツがやって来る。

 天井裏から、建具の戸袋の奥から、壁ぎわに立つ不動の大食器棚の背後から、不吉な音が聞えてきた。家ネズミである。
 一昨年は対応が後手に回って繁殖を許してしまい、無邪気な子ネズミが天井裏で運動会を繰広げるまでになってしまった。夜中にパソコンに向っていると、恐れるに足らずと見くびってか、私の視界に入るところへも頻繁に現れた。食糧を探して、広く探索をかさねているらしかった。過行くところをふいに振返った私に発見され、動いては危険と感じたものか咄嗟に立停まったりすると、眼が合った。

 鼠穴を発見するのが、駆除の第一歩だという。天井裏や間仕切り壁の内部など、しょせん人間には手の届かぬ裏街道から、人間との共有空間である表舞台へと出没する出入口のことだ。そこに罠を仕掛けるなり、毒団子を置いたりするものらしい。しかし長年住んで、要不要を問わず大量の家具だの用具だのが詰込まれたボロ家にあっては、至難の技である。
 次善の策は、歩行経路を読むことだという。食糧を探して、連中がどの壁ぎわを這うか。ゴミ袋やダンボール箱にかじり穴を空けたり、本の角にかじり跡を残したり、排泄物を残したりしてある形跡を丹念に観察して、常用通路を予想する。
 彼らは回り道をいとわない。かなり遠回りしてでも、壁伝いに進む。そこに見え見えの危険トラップや障害物があったときにのみ、部屋中央の広い平地を近道横断する。わが方のチャンスである。つまり彼らが土地勘の乏しい場所で勝負するのだ。

 食糧倉庫たるゴミ袋や、おこぼれが期待できる米びつ周辺を、彼らはよく承知している。腹が減れば、流し台脇の石鹸までかじる。それらへの遠回り安全道を進むわけだ。当方だとて彼らの大好物を曝しになどしていない。当然ながら、彼らは新規開拓に動かざるをえない。
 壁に沿った安全道に、粘着液型の罠(私は鼠ホイホイと称んでいる)を仕掛けたり、粒状のヒ素入り固形餌も置いたりする。罠は性能が薄れた前年の仕掛けでよい。どうせこれには引っかからないからだ。案の定、ゴキブリや羽虫類は驚くほど貼り着くが、ネズミが捕獲できた試しはない。
 つねの途を遮断された彼らは、中原を横断しようと企てる。フェニキア人が地中海へと乗出したようなもんだ。が、そこには同じ粘着液型といっても、今年度新発売の強力改良型の罠が仕掛けられてある。調理テーブルの下にも、冷蔵庫の裏にも、流し台下の収納スペースにも。彼らが採る近道には、習性が露わなのだ。

 一昨年は四匹を駆除した。若ネズミばかりだった。どうしても一匹だけは罠にかからなかった。天井裏を走り回ったりはしない。五歩歩いては立停まり、八歩歩いては立停まる慎重な奴だ。たぶん駆除した連中の親だろう。
 持久戦が続いたが、やがていなくなった。引越していったか、それとも出しっぱなしにしてあったヒ素入りアラレを食ったか。この毒団子には即効性こそないが、体内に毒が蓄積していって、やがて致命傷となる。


 一昨年の苦闘の成果か、昨年は平穏だった。ほんの一時、単独の足音を耳にしたようでもあったが、居つくことも繁殖することもなかった。ここがかなり荒された古戦場跡の危険地帯だと、察しがついたのかもしれない。
 で、今年である。曇天続きでまだ肌寒いというのに、現れた。ことに今年は、先ごろ筋向うの音澤さん邸が解体され、今基礎工事に入ったところだ。どんな始末のよろしい家にだって、ネズミはいる。解体は、連中にとっては天変地異である。難民化し、強制移住を余儀なくされる。旧音澤邸と塀一枚を隔てたお隣は、粉川さんのお婆ちゃんが一階にお住いのマンションだ。旧音澤邸から往来を挟んだ正面は空地である。その隣、つまり旧音澤邸の筋向うが拙宅である。造作といい住人状況といい、彼らがもっとも目星を付けやすいのは拙宅にちがいない。

 一昨年の轍を踏まず。先手必勝。マツキヨから粘着液型の鼠ホイホイを仕入れた。細ぼその持久戦は敗北主義で、開戦したら一気に仕掛けねばならない。まずは五枚入りをひと箱だ。
 効能書きに眼を通してみると、匂いにも粘着力にもさらなる研究改良が加えられて、強力になっているようだ。まずは階上の台所からだが、邪魔にならぬ処に出しっぱなしにしてあった昨年の罠までも総動員して、陣形を敷いた。
 まではよろしかったのである。あの激戦から二年弱、わが身に戦時体制の心構えが成っていなかった。一夜明けて朝食支度に階段を昇る私は、昨夜の完璧配置をうっかり失念していた。盆に載せた食器や飲料容器に気を取られていたのだ。

 効能書きは正しかった。従来商品よりは明らかに、粘着力が強烈だった。どう試みても無理と諦め、靴下を脱いだ。罠の余白はまだ使える。そのままでは今後の使用に差支えるから、靴下の粘着せずにある部分を鋏で切り離した。
 間抜けな噺ったらねえよ、ネズミの前に、俺が獲れちまった。