一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

次なる街



 現場のガラス引戸が開いていた。ガラスといっても、油紙のようなシートと粘着テープとでマスキングしてあって、ふだんは中が見えない。もとは自動ドアだった。
 たまたま開いていたので、覗いて視る気になった。奥で三人の作業員が休憩している。一人が煙草に点火しながら入口へやって来た。五十年配の初老職人といった感じだ。
 「長年お世話になったファミマですよ。ガランとすると、こんなに広かったんですねえ。感慨無量です」
 黙っていては胡散臭がられると思い、こちらから声を掛けた。
 「跡はどうなるのか、決ってるんですか?
 「さあ、俺らは解体するだけだから……」

 飲み仲間の金原亭馬遊さんが二つ目の桂太君だったころ、仕事がなくなると夜間にアルバイトしていた。ロックバンドのヴォーカリストだという長身長髪の青年が、百以上もある煙草棚の銘柄をほとんど承知していた。細身のモデル体型で声色も滑舌も申し分ないお嬢さんが長年働いていた。
 「モデルさんですか。それとも女優の卵とか?」
 否定された。だいぶ経ってから、二児を育てるシングルマザーと知った。
 売り場にも従業員に対しても、数かずの想い出がある。跡空間がどう活用されるものか、私なんぞには情報が入ってこない。


 道を挟んだ正面は音澤邸だ。今朝から解体工事に入った。十日ほど前に、業者名義の挨拶ビラと工事予定表とが、郵便受けに投げ込まれた。ポケットティッシュが一個、添えられてあった。
 分別ゴミ回収の日なので、ラベルを貼ったプラゴミ袋を提げて往来へ出ると、ご当主と眼が合った。一歳齢上で、かつての悪ガキ仲間だ。成人してからは、挨拶以外にお付合いはない。ノートパソコンをだらりと開いた形状のカメラで、あちこちの方角から音澤邸を撮影しておられる。
 「いよいよですね」「いよいよですよ」
 「何年になられます? 拙宅は親に連れられて昭和三十三年に引越して来たのですが、お宅はその前からの先住民だから」
 「さぁてねえ、戦前からって云ってたかなあ」
 お父上が他界されて、もうずいぶんになる。ご母堂はだいぶ弱られて、たしか介護施設におられるはずだ。美形の妹さんは静岡方面へ嫁がれたと聴いた憶えがある。彼自身は独身で通した。理由はおそらく、私と同様ではあるまい。

 ひとしきり昔噺に耽った。ご門前すなわち音澤邸とファミマの間の道は、かつては谷端川で、台風時にはよく水あがりした。東京オリンピックを目処に暗渠化されたが、新たな十字路では頻繁に車輛衝突事故が起きた。角の荒物屋さんではいつもお婆ちゃんが独りで店番しておられたが、そこへいく度も車が突っこんだ。
 「いやぁ、ウチへも突っこんできましたよ。だからホレ、こうしたんです」
 音澤邸の東も北もブロック塀で往来と仕切られてあるが、北東角だけは腰の高さほどまでコンクリート造りとなっている。そうだそうだ、そうだった。迂闊にも半世紀近く忘れていた。
 あまりの交通事故率に、こんな小さい十字路にもかかわらず、信号機と横断歩道とが設置されたのだった。

 着工準備だったのだろう。昨年のうちに北側道路に枝を張り出させていたネズミモチの大木を伐採なさった。鬱蒼と繁った枝葉に隠されてあったお二階の窓が、突然露わになった。
 東西南北いずれへ向う鳥たちにとっても、立寄り所であり集会ならびに情報交換の場だった。私独りの勝手で「鳥たちのハブ空港樹」と称んでいた。
 「そうですか、そんなことがありましたか」
 鳥たちとネズミモチとの関係について、私が観察しえたところを申しあげると、案の定音澤さんは、なあんにもご承知ではなかった。

 解体着工といっても、いきなり重機がやってきてバリバリと邸を破壊するわけではない。小一日カランカランと金属音をあたりに響かせながら、鉄パイプの足場が組まれつつある。
 おとなしく暮すだけなら、あとまだなん十年もこのままでよろしかった邸を、どうでも道幅を広げたい東京都の要請に押切られて、決断を迫られたらしい。同様の勧誘やら要請やらは拙宅へも頻繁に訪れるから、模様は肉眼で視るかのように想像がつく。音澤さんのお人柄をもってしては、私のようにぬらりくらりと対応するわけにもゆかなかったのだろう。
 まったく様相を異にする、次なる街の貌へと、徐々に移行しつつある。私にとっては、さして興味も湧かぬ街であるけれども。ともあれ向う三軒両隣。まったくの手着かずは、拙宅のボロ家一軒のみとなった。