一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

大事な関門

今 東光(1898 - 1977)

  博多の料亭に女丈夫の仲居がいた。
 「東光先生、なにか字を書いてくださいな」
 「いいよ、紙に書いても面白くねえや、キミのパンティーになら、書いてやろう」
 断ろうと思ってである。
 「いいわよ、だれか硯箱をお願い」
 仲居は着物の裾をからげて、下半身を露わにし始めた。
 ふにゃふにゃして書けたもんじゃない。東光僧正、ウエストから左手を差入れ、それを下敷きにして肝心の処へ「関」と書いた。
 玄関、関所。大切な場所へのおごそかな入口という意味である。

 半世紀後の今も、博多のどこかでどなたかが、この女性下着を保管なさっていることだろうが、なろうことなら一見に及びたいものだ。

 フジテレビが新番組「日曜対談」を企画した。僧正をホストに、毎週各界の著名人と豪放対談を繰広げて欲しいとの要望だった。
 「第一回のゲストに岸信介を呼ぶなら、引受けてもいいぜ」
 断ろうと思ってである。
 テレビマンはしょげ返って引下がろうとした。気の毒に思った僧正は「当って砕けろさ、なんでもやってみるもんだぜ」と、ついつい云い添えてしまった。なにがどういう加減だったものか、岸信介を引張り出すことに成功してしまった。

 「なんたる世相かっ。とくに自民党が情ない。一面焦土と化した日本をなんとかしなくてはと、アンタは自民党を作ったんでしょう。その精神を忘れた自民党なんぞ、ぶっつぶす以外に手はありますまい」
 秘書官もディレクター連中も、カメラの背後で息を呑み、蒼ざめた顔で突ったっている。やおら岸信介は、腕まくりして身を乗出してきた。
 「その通りなんだ、東光さん。今の自民党はご破算にして、やり直さにゃいかん!」
 このスクープに言及した新聞は一紙もなかったという。

 私の時代および世代にとって岸信介は、一種独特なカラー照明を当てずには観られない悪役スターではあるが、もしもこの場面のアーカイブ映像が残っているのであれば、一見に及びたいものだ。

 いずれも『今東光和尚 極道辻説法』(集英社、1976)の幕間小咄として回想された逸話である。

根っこ



 江古田散策を了えた一行は昼食休憩。午前の部最後に駆けつけてくれた OB を含めて、年齢も江古田習熟度もまちまちの多人数が容易に席取りできる店などあるはずもない。少数もしくは単独に分散休憩してのち再集合の運びとなった。
 珈琲館にて、珈琲とシナモントースト。私の行動パターンには変り映えがしない。たとえ十五分でも三十分でも、ゆったり無為時間があれば読み継ぎたい一書を鞄に入れてある。今日は阿川弘之論語知らずの論語読み』だった。

 午後は池袋から雑司ヶ谷へと歩く。鬼子母神の表参道に「みちくさ市」が立っている。ひと箱古本市だ。用済み本を持寄る有志もあれば、心ある小書店・小出版社もある。プロアマ連合軍だ。倉庫の隅には、今さら新刊市場へは出せぬまでも、このまま埋れさせるにはあまりにもったいない、傷み在庫を抱える社もあることだろう。
 若者諸君にとっては、けっして書店にて眼にすることができない、本の世界だ。草の根の、いわば文化の根っこと称べる世界を眼にし、手に取って観られる貴重な機会である。


 新緑お見事としか申しようのないケヤキ並木をくぐって、鬼子母神さまの境内へと移動する。「手づくり市」が催されている。
 本とは関係ないが、分野を問わぬ手づくり小物の持寄り市である。食器があり道具類がありアクセサリーがある。木工があり金工があり布製品や紙製品がある。世の中にはこんなものまであるのか。若者たちの口から「カワイー!」が連発される。
 惜しむらくは天候が下り坂で、冷たいものがかすかに落ちてき始めた。あとなん分後には降り始めると、スマホで調べられるらしい。若者たちも、当然ながら出展者がたもご存じだ。早めに撤収作業に移られる出展者が多く、全展示を観て歩くには時間不足だったのが心残りだった。
 それでも鬼子母神名物である名代の団子屋と駄菓子屋は繁盛しているから、若者たちは買い食いのひと時を愉しんだ。

 さて本日の採集訪問地は古書往来座さんだ。文学・芸術分野を得意とされる有力書店さんで、いわばバリッとした古書店である。映画マニアのあいだで名高い『名画座手帳』の発行元でもある。そしてわが古本屋研究会にとっては、学外コーチとも裏顧問とも称べる存在だ。いわば我らのホームグラウンドである。
 若者諸君の現在の眼からは、やや年寄り臭い印象を受けるかもしれぬ古書の世界だ。やがて勉強が深まり、古書に習熟するにしたがって、かような古書店のありがた味が解るようになってゆく。

 午前中に江古田で若者たちは、研ぎ澄まされた美意識をもって現代の若者ニーズを探り当てようとなさる小書店を観た。
 午後に雑司ヶ谷で若者たちは、本というものの普遍価値は那辺にありやと問いかける専門書店を観た。その前に、文化の草の根は、無数の人びとによるいかなる志によって根柢を支えられてあるかを観た。
 時局感覚も大切で、普遍本質感覚も大切だ。いずれをも無視することはできない。その落差を躰で味わうために、足を棒にするのだ。今それを自覚できる若者は一人もあるまい。当然だ。しかしいつの日か、思い当る。きっとその日が来る。

気を晴らす

 

 古本屋研究会の若者たちが、日曜日を古書店散策に過すという。仲間に入れてもらった。

 早めに家を出る。ビッグエーでおにぎりを二個買う。駅周辺を少し散歩する。長年当り前のように視慣れてきたアーケード商店街のアーチを、今さらのように視あげる。
 線路向うの公園まで歩き、二本のケヤキ巨木を眺めあげる。駅構内の跨線橋の窓から、ちょくちょく眺めてきた樹だ。近くから視あげると、やはり迫力が断然違う。
 プラットホームのベンチに腰掛けて、おにぎりを頬張った。出陣前の朝食のつもりだ。この二週間というもの、悔しく腹立たしい出来事が相次いだ。気を腐らせていた。それどころか落胆のあまり嫌気が差してすらいた。いっそ気分をガラリと変えるべく、なにもかも放りだして引越しでもしちまおうかとさえ考えた。が、気を取り直した。やはり、死ぬまでこの町に暮そうと、改めて思った。

 
 定刻に若者たちと落合った。初参加の下級生が二人、参加してくれた。あとは勝手知ったる定連の三年生だ。
 江古田の街を歩く。一軒目は、大学門前に古くからある老舗の古書店さんだ。店内の通路は危険なほど細く、床から天井まで本が積まれてある。いかにも芸術学部の門前書店さんらしく、意表を衝く掘出し物と出逢える店だ。ただし文字どおり堀出さねばならない。
 前まえからご店主に当方の自己紹介はしてあり、若者たちへも気軽にお声を掛けてくださってきた。
 私より齢上のご婦人が、可愛いデザインのピンバッジと掌サイズのミッキーマウス人形を買った。ご婦人から所望されて、ご店主はバッジを胸に着けてあげていた。
 「姐さん、またたいそう可愛いものを、手に入れたじゃありませんか」
 「そうよ、あたし可愛いものが大好き。家には一杯あるんだから」
 ふいに掛けた私の声にも驚くことなく、ご婦人は皺深い相好を崩した。

 次の店へと移動の道すがら、駅前を通過する。商店の陰に隠れた目立たぬ植込みでは、ツツジが満開だった。

 
 二件目は、有名古書店でみっちり修業なさった女性ご店主が、この地の住宅地域にひっそり開店した新興店だ。小体な店ながら品揃えの趣味は好く、芸術大学音楽大学とがあるこの街の若者のお洒落感覚に、ピタリと照準が合っている。商品管理も行届き、古書店に付きものの古めかしさ、煤けた埃っぽさなどは微塵もない。

 十字路を対角線に渡った角は、外壁が花で埋め尽されたお邸だ。建築物としてのデザインも瀟洒で、ガレージには黒塗りの高級車が格納されてある。三つの大学が近いというのに、富裕層の住宅街といった雰囲気が漂う界隈だ。

 
 三軒目は、間口よりも奥行きが遥かに深いお店の、道に面した半分が若者向けのお洒落小間物の店で、奥が書店になっている。古書店というよりは、古書も新刊書籍もとり混ぜて店の美意識に叶う商品を展示するといったセレクトショップだ。小柄な女性店長とは古い顔馴染みだ。たしか二〇〇〇年か二〇〇一年ころに一年生だった。つねになんらかの活動に忙しい学生で、早めに教室へ来ることはなく、いつも席争いに敗れて立見受講の定連だった。
 無類の本好きで、アルバイト先も卒業後の仕事も書店で、今日まで書店一筋に生きてきた。

 根元書房のご店主さま、スノードロップのご店主さま、百年の二度寝の店長さま、お邪魔いたしました。どうかどうか、若者たちを、本好きにしてやってくださいませ。お願いいたします。お頼みいたします。

舟を降りてから



 泣こうが笑おうが、全身の力を振り絞って叫ぼうとも、町田瑠唯、君だけは今回なにをしたってかまわない。

 十六年ぶりの優勝だという。そんなに経っていたんだ。最古参となった君でさえ、たしかチーム歴十三年。前回の優勝を味わった選手は、チーム内にはいない。
 準優勝チーム、優勝候補の一角チーム、プレーオフ進出チーム……。たしかに長かった。
 今年もデンソーは強かった。シャンソンも強かった。手に汗握った。OG 名選手たちは、会場のどこかで観ていたのだろうか。それとも仕事の手を休めて、テレビの前で叫んでいたのだろうか。

 君との必殺速攻コンビで、レッドウェーブの特色である「走るバスケ」を作りあげた篠崎澪さんは、東北地方にあってお母さんになったそうだ。少し先輩の山本千夏さんと篠原恵さんの東京成徳コンビは、どこで観ていたろう。山本はスリーポイント日本一の座をなん年も譲らなかった。篠原は平均サイズ小型のレッドウェーブにあって、JX の渡嘉敷やデンソーの高田ら日本代表の大型選手たちにつねに対応した。
 それよりなにより、レッドウェーブひと筋でチームの顔とまで目された三谷藍さんは、どこで観ていたろうか。「黄金期を知る選手は今や三谷一人です」と、現役後半には実況放送のたびに云われたもんだった。日本国中に名選手を輩出した「花の78年組」だ。レッドウェーブでは矢野良子さんや船引まゆみさんも、たしか78年組だった。船引さんは今や、自身と後輩の町田瑠唯との母校である札幌山の手のコーチだ。
 あの時もあの時も、今一歩で達成できなかった快挙を、後輩たちがついにやってのけた。かつての名選手たちの脳裡に蘇った場面は、だれ一人として同じ場面ではなかったことだろう。


 札幌山の手高校三年生、町田瑠唯主将という少女が登場したとき、もう一度バスケを観ようかという気になった。なん十年ぶりかのことだ。老人になってからの趣味は、無邪気で多少浮世離れした分野がちょうど好いと思った。少女は翌年、富士通レッドウェーブに入団した。
 ホームコートである川崎市とどろきアリーナへはなん度も通った。拙宅からは鉄道とバスを乗り継いでの小旅行だった。階段下の喫煙所では、町田瑠唯のお父上と喫煙仲間となったこともあった。大田区総合体育館へも行った。小田急沿線では、座間へも秦野へも赴いた。埼玉スーパーアリーナというのはこれほど巨大な施設かと魂消たこともあった。新潟アルビレックスとのアウェー試合を観戦に、長岡へ一泊旅行したこともある。長岡市と聴いて見くびって赴いたら、合併前は隣の栃尾市だった山の町に会場があり、バスに一時間乗って峠越えした。
 世間と急速にご縁がなくなり、出不精となった私には、どれもちょうど好い小旅行だった。

 ふいの疫病騒ぎで、老人は足は止めざるをえなくなった。身を護らねばならぬし、人さまにご迷惑をおかけしてもならない。コートサイドやベンチ裏から間近で観たい選手たちもあったが、次つぎと引退していった。
 やがて疫病騒ぎは収まったものの、コートまで出掛ける趣味は復活しなかった。乗合舟から自分だけ降りてしまった気分がした。
 三年経った。金銀の紙吹雪を浴び、トロフィーを頭上に差し上げる選手たちの姿を、間近に観ることはできなかった。かつての名選手たちは、会場のどこかで観ていたのだろうか。

毒舌人生相談

1976 .10.および1977.7.初版刊行。

 今東光『極道辻説法』と続篇との二巻が、手許にある。『週刊プレイボーイ』に長年連載された人生相談コーナーの集大成だ。投稿者も読者も、主として若者男子だろう。職場や人生設計から、宗教や文学から、恋愛や性まで、幅広い諸問題についての応答が繰り広げられる。この齢になって読めば気恥かしくなるほどに初心で生硬な、直球質問が続く。不安と不満、好奇心と冒険心、それに天を衝くばかりの性欲狂乱だ。大僧正が独壇場の一喝で取り捌いてゆく。
 「馬鹿野郎、そんなことで悩んでるじゃねえ! さっさと○○しちまえっ」
 といった小気味好さだ。一例――。

 十七歳)和尚、助けてくれ。近所に住む同級生の A 子を以前から好きなんだが、ある日その家から水音がするので裏へ回ってみると、風呂場の窓から彼女の裸体が見えてしまった。家へ飛んで帰って猛然とオナニーした。好きというより、襲って犯したい気にまでなってしまった。翌日学校で会っても、眼を合せられなかった。
 打明けるべきだろうか。想像しながらオナニーに耽っているべきだろうか?
 大僧正)「犯したい」だって? どこへどう突っこむかも判らねえくせしやがって。「おまえの裸を観たよ」なんぞと云おうものなら、変態・痴漢扱いされて口もきいてもらえなくなるのがオチだ。黙って家で、朝に晩にマスかいていればいい。それから受験勉強に精を出せばいいだろうが。いいか、告白なんぞ絶対にするな。

 半世紀後の今日、回答はどうなっているのだろうか。曰く / 性欲はだれにだって、女性にだって平等にある生命力の源泉だ。/ 性欲と恋愛とは違う。/ 健全な男女交際。/ どうしても我慢できなくなったら、相手を精一杯尊重して、飽くまでも合意で。
 などということにでもなるのだろうか。いや、私の想像すらが、時代からそうとうズレているにちがいない。まったく見当もつかない。

 ところで、幅広い話題のうちには「人物論」という目次立てがあって、著者が直接出逢った人びとについての印象や短評が、これまた小気味好く点描されてある。芥川龍之介葛西善蔵があり、川端康成坂口安吾があり、三島由紀夫江藤淳がある。かと思えば、大山倍達赤尾敏児玉誉士夫まである。世にある論説にも評伝にも記されたことのない、出色の着眼がふんだんに含まれていると、私には感じられる。
 なにぶん半世紀前の本であるし、それでいて今でも今東光を記憶する人もあろうから、このさい古書肆に出そうかといくども思い立っては、思い留まってきた。今朝もまた思い立ち、思案したあげくに、やっぱり出さぬことにする。
 近所の彼女に告白するかどうかと、迷っているわけではない。

生きておれば

 
 西、建屋がわ。

 午前中から起きている。目覚し時計を六時間設定したものの、三時間睡眠だった。
 睡眠中に二度ほど催して小用に立つのがつねだ。習慣化しているから、すぐに再就眠する。寝床が気持好い。ところが今朝にかぎって、再睡眠する気にならず、躰も妙に軽い。快適だ。このまま起きてしまえということかな、と勝手な判断。

 陽射しの好い日だ。ビタミン D 形成のための三十分日光浴に好適だ。陽だまりへ出て煙草を喫っても、缶珈琲を飲んでもいい。視あげるべき桜樹こそ姿を消したけれども。
 せっかくだから、少しでも暮しの作業を進めようか。草むしりだ。玄関から門扉までのわずかな距離の左右両側を選んだ。長年にわたり古い鉢に閉じこめられて、極限的窮屈に喘いできた君子蘭を一気に解放してやるべく、株分けして東西に地植えしてやったあたりである。君子蘭の葉陰で、園芸用語で云う半日蔭を愉しんでいる連中がある。また君子蘭を支柱代りに利用して絡みつきながら、ついには君子蘭の上にまで伸びて覆いかぶさっている連中もある。
 なかには目下可憐な花を着けているものもあるが、咲いてからかなりの日数が経っているから、すでに最低限の役割は済ませたことだろう。このさい君子蘭を身軽にしてやることにした。

 またこの一画は、敷地内の大派閥たるドクダミとシダ類の本籍地だ。ここなん年も私は眼の仇にしてきた。かつてとは比較にならぬほど、おとなしくなってくれた。が、この陽気となれば、出て来るわ出て来るわ。放置すれば梅雨のころには、ドクダミとシダの草叢と化してしまう。
 出鼻を挫くというか、目立つものだけでもここで叩いておけば、最盛期を迎えても頑強さがだいぶ違う。幼葉は眼こぼししたってかまわない。手応えは昨年確認済みだ。

 
 東、ブロック塀がわ。

 勇んでで着手したものの、やはり寝不足だったか。軽く眼が回る。心臓に軽い痛みが走る。針で刺されるほどではない。ホチキスの針を踏んづけてしまったていどで、しばしば訪れる痛みだ。鎖骨下あたりの血管コースを指圧しているうちに、すぐに治まる。いつものことだ。
 とはいえ油断はできない。作業時間は四十五分を超えた。三十分日光浴の意は達したということにして、切上げた。

 君子蘭は気分好さそうだ。先祖返りか野生化か、葉の形が園芸植物であったころに比べると、ずいぶん変った。命に自信が芽生えたように観てとれる。花芽を挙げてくる気配なんぞは微塵もない。
 人間の眼を愉しませることなんぞ、考えなくてかまわない。生きてさえおれば、それでよろしい。

暮しのビタミン



 一日に必要なビタミン類一式を、総合的に摂取できる飲料だと謳ってある。体質によっても体格によっても、必須量など人それぞれだろうに。「平均すれば」「少なくとも」など、なんらかの根拠があっての広告コピーだろう。
 雲形のような瓢箪のような、液体がこぼれた染みのようにも見える独特の図形に、筆記体のローマ字でブランド名が白抜きされてある。幼い時分から眼にしてきたロゴだ。その時代には瓶詰のオレンジジュースの商品名と思い込んでいた。コーラなどというものを、まだ一度も視たことがなかった時分だ。子どもたちにとって憧れの飲料といえば、三ツ矢サイダーバヤリースオレンジだった。

 コインランドリーの入口脇に、飲料の自販機が立っている。洗濯なり乾燥なりの仕上りを待つあいだに、どうです一杯、ついでに小銭への両替もできますぜ、と云わんばかりだ。両替の必要はないけれども、たいていの場合は利用している。洗濯機を回す三十分でスーパーその他での買物を済ませて、いったん家に収めてからふたたび入店する。乾燥機を回す三十分を待つあいだはランドリーの隅に腰掛けて、雑誌を読んで過したりする。そのときに自販機のお世話になる。
 珈琲か紅茶であれば、スーパーにもっと安い商品がある。自販機でしか視かけない商品を選ぶことになる。今日は「一日分のマルチビタミン」という商品名が気に入った。
 たしかビタミンという成分は、大量摂取したところで翌日に持越すことはできぬらしい。欠乏を後日補うということもできぬらしい。その日その日の小まめな補充以外に手がないということだ。
 欠乏したところで、空腹で倒れたり、すぐさま眼を回したり体調を崩したりはしないから、ついつい無頓着に過している。けれども考えてみれば、人体なんぞというものはずいぶんか弱い、世話の焼けるものだ。

 
 圧巻の洗濯機三台回し――。豪快に乾燥機二台回し――。
 圧巻の豪快のと、独り悦に入っている場合ではない。いかに怠け、ものぐさを重ねてきたかの証左だ。この季節だから、いくらか助かってはきた。いよいよ汗ばむ衣類が増える季節を迎える。体裁上も精神衛生上も、それどころか健康管理上でさえ、かくてはならじ。洗濯乾燥各一台、週末ごとに晴ればれと、というかつての習慣を復活させねばならない。
 洗濯物にたいして、なんのこれしき、いざ取りかかれば雑作もなく、アッという間の軽作業、という見くびりが災いしてきたにちがいない。

 母の看病と父の介護とが重なった時期があって、連日たいへんな汚れ物の量だった。物干し台で干し物をしたり、それを取込んだりする時間すら惜しかった。老人たちが寝静まった深夜か明けがたに、コインランドリーへと通うことを覚えた。洗濯した日もあったし、家で洗濯を済ませて乾燥機だけの日もあった。
 両親ともが他界して独りになった直後、まるで待っていたかのように、老朽洗濯機が故障して水漏れが止らなくなった。新品に換えるのは、気が進まなかった。経済的問題もさることながら、身の回りに機械が増えることが、鬱陶しかったのだ。
 コインランドリー通いを止めなかったわけだが、独り暮しの暢気さから、汚れ物を溜めて、まとめて洗濯するという悪癖が生じてしまった。まとめて一挙に片づけたほうが、そりゃあ経済的だろうさ。けれど健康的と申せるかどうか。
 洗濯は、暮しのビタミン補給みたいなもんかと、ちょいと思ってみた。