一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

暮しのビタミン



 一日に必要なビタミン類一式を、総合的に摂取できる飲料だと謳ってある。体質によっても体格によっても、必須量など人それぞれだろうに。「平均すれば」「少なくとも」など、なんらかの根拠があっての広告コピーだろう。
 雲形のような瓢箪のような、液体がこぼれた染みのようにも見える独特の図形に、筆記体のローマ字でブランド名が白抜きされてある。幼い時分から眼にしてきたロゴだ。その時代には瓶詰のオレンジジュースの商品名と思い込んでいた。コーラなどというものを、まだ一度も視たことがなかった時分だ。子どもたちにとって憧れの飲料といえば、三ツ矢サイダーバヤリースオレンジだった。

 コインランドリーの入口脇に、飲料の自販機が立っている。洗濯なり乾燥なりの仕上りを待つあいだに、どうです一杯、ついでに小銭への両替もできますぜ、と云わんばかりだ。両替の必要はないけれども、たいていの場合は利用している。洗濯機を回す三十分でスーパーその他での買物を済ませて、いったん家に収めてからふたたび入店する。乾燥機を回す三十分を待つあいだはランドリーの隅に腰掛けて、雑誌を読んで過したりする。そのときに自販機のお世話になる。
 珈琲か紅茶であれば、スーパーにもっと安い商品がある。自販機でしか視かけない商品を選ぶことになる。今日は「一日分のマルチビタミン」という商品名が気に入った。
 たしかビタミンという成分は、大量摂取したところで翌日に持越すことはできぬらしい。欠乏を後日補うということもできぬらしい。その日その日の小まめな補充以外に手がないということだ。
 欠乏したところで、空腹で倒れたり、すぐさま眼を回したり体調を崩したりはしないから、ついつい無頓着に過している。けれども考えてみれば、人体なんぞというものはずいぶんか弱い、世話の焼けるものだ。

 
 圧巻の洗濯機三台回し――。豪快に乾燥機二台回し――。
 圧巻の豪快のと、独り悦に入っている場合ではない。いかに怠け、ものぐさを重ねてきたかの証左だ。この季節だから、いくらか助かってはきた。いよいよ汗ばむ衣類が増える季節を迎える。体裁上も精神衛生上も、それどころか健康管理上でさえ、かくてはならじ。洗濯乾燥各一台、週末ごとに晴ればれと、というかつての習慣を復活させねばならない。
 洗濯物にたいして、なんのこれしき、いざ取りかかれば雑作もなく、アッという間の軽作業、という見くびりが災いしてきたにちがいない。

 母の看病と父の介護とが重なった時期があって、連日たいへんな汚れ物の量だった。物干し台で干し物をしたり、それを取込んだりする時間すら惜しかった。老人たちが寝静まった深夜か明けがたに、コインランドリーへと通うことを覚えた。洗濯した日もあったし、家で洗濯を済ませて乾燥機だけの日もあった。
 両親ともが他界して独りになった直後、まるで待っていたかのように、老朽洗濯機が故障して水漏れが止らなくなった。新品に換えるのは、気が進まなかった。経済的問題もさることながら、身の回りに機械が増えることが、鬱陶しかったのだ。
 コインランドリー通いを止めなかったわけだが、独り暮しの暢気さから、汚れ物を溜めて、まとめて洗濯するという悪癖が生じてしまった。まとめて一挙に片づけたほうが、そりゃあ経済的だろうさ。けれど健康的と申せるかどうか。
 洗濯は、暮しのビタミン補給みたいなもんかと、ちょいと思ってみた。