一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

舟を降りてから



 泣こうが笑おうが、全身の力を振り絞って叫ぼうとも、町田瑠唯、君だけは今回なにをしたってかまわない。

 十六年ぶりの優勝だという。そんなに経っていたんだ。最古参となった君でさえ、たしかチーム歴十三年。前回の優勝を味わった選手は、チーム内にはいない。
 準優勝チーム、優勝候補の一角チーム、プレーオフ進出チーム……。たしかに長かった。
 今年もデンソーは強かった。シャンソンも強かった。手に汗握った。OG 名選手たちは、会場のどこかで観ていたのだろうか。それとも仕事の手を休めて、テレビの前で叫んでいたのだろうか。

 君との必殺速攻コンビで、レッドウェーブの特色である「走るバスケ」を作りあげた篠崎澪さんは、東北地方にあってお母さんになったそうだ。少し先輩の山本千夏さんと篠原恵さんの東京成徳コンビは、どこで観ていたろう。山本はスリーポイント日本一の座をなん年も譲らなかった。篠原は平均サイズ小型のレッドウェーブにあって、JX の渡嘉敷やデンソーの高田ら日本代表の大型選手たちにつねに対応した。
 それよりなにより、レッドウェーブひと筋でチームの顔とまで目された三谷藍さんは、どこで観ていたろうか。「黄金期を知る選手は今や三谷一人です」と、現役後半には実況放送のたびに云われたもんだった。日本国中に名選手を輩出した「花の78年組」だ。レッドウェーブでは矢野良子さんや船引まゆみさんも、たしか78年組だった。船引さんは今や、自身と後輩の町田瑠唯との母校である札幌山の手のコーチだ。
 あの時もあの時も、今一歩で達成できなかった快挙を、後輩たちがついにやってのけた。かつての名選手たちの脳裡に蘇った場面は、だれ一人として同じ場面ではなかったことだろう。


 札幌山の手高校三年生、町田瑠唯主将という少女が登場したとき、もう一度バスケを観ようかという気になった。なん十年ぶりかのことだ。老人になってからの趣味は、無邪気で多少浮世離れした分野がちょうど好いと思った。少女は翌年、富士通レッドウェーブに入団した。
 ホームコートである川崎市とどろきアリーナへはなん度も通った。拙宅からは鉄道とバスを乗り継いでの小旅行だった。階段下の喫煙所では、町田瑠唯のお父上と喫煙仲間となったこともあった。大田区総合体育館へも行った。小田急沿線では、座間へも秦野へも赴いた。埼玉スーパーアリーナというのはこれほど巨大な施設かと魂消たこともあった。新潟アルビレックスとのアウェー試合を観戦に、長岡へ一泊旅行したこともある。長岡市と聴いて見くびって赴いたら、合併前は隣の栃尾市だった山の町に会場があり、バスに一時間乗って峠越えした。
 世間と急速にご縁がなくなり、出不精となった私には、どれもちょうど好い小旅行だった。

 ふいの疫病騒ぎで、老人は足は止めざるをえなくなった。身を護らねばならぬし、人さまにご迷惑をおかけしてもならない。コートサイドやベンチ裏から間近で観たい選手たちもあったが、次つぎと引退していった。
 やがて疫病騒ぎは収まったものの、コートまで出掛ける趣味は復活しなかった。乗合舟から自分だけ降りてしまった気分がした。
 三年経った。金銀の紙吹雪を浴び、トロフィーを頭上に差し上げる選手たちの姿を、間近に観ることはできなかった。かつての名選手たちは、会場のどこかで観ていたのだろうか。