一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

生きておれば

 
 西、建屋がわ。

 午前中から起きている。目覚し時計を六時間設定したものの、三時間睡眠だった。
 睡眠中に二度ほど催して小用に立つのがつねだ。習慣化しているから、すぐに再就眠する。寝床が気持好い。ところが今朝にかぎって、再睡眠する気にならず、躰も妙に軽い。快適だ。このまま起きてしまえということかな、と勝手な判断。

 陽射しの好い日だ。ビタミン D 形成のための三十分日光浴に好適だ。陽だまりへ出て煙草を喫っても、缶珈琲を飲んでもいい。視あげるべき桜樹こそ姿を消したけれども。
 せっかくだから、少しでも暮しの作業を進めようか。草むしりだ。玄関から門扉までのわずかな距離の左右両側を選んだ。長年にわたり古い鉢に閉じこめられて、極限的窮屈に喘いできた君子蘭を一気に解放してやるべく、株分けして東西に地植えしてやったあたりである。君子蘭の葉陰で、園芸用語で云う半日蔭を愉しんでいる連中がある。また君子蘭を支柱代りに利用して絡みつきながら、ついには君子蘭の上にまで伸びて覆いかぶさっている連中もある。
 なかには目下可憐な花を着けているものもあるが、咲いてからかなりの日数が経っているから、すでに最低限の役割は済ませたことだろう。このさい君子蘭を身軽にしてやることにした。

 またこの一画は、敷地内の大派閥たるドクダミとシダ類の本籍地だ。ここなん年も私は眼の仇にしてきた。かつてとは比較にならぬほど、おとなしくなってくれた。が、この陽気となれば、出て来るわ出て来るわ。放置すれば梅雨のころには、ドクダミとシダの草叢と化してしまう。
 出鼻を挫くというか、目立つものだけでもここで叩いておけば、最盛期を迎えても頑強さがだいぶ違う。幼葉は眼こぼししたってかまわない。手応えは昨年確認済みだ。

 
 東、ブロック塀がわ。

 勇んでで着手したものの、やはり寝不足だったか。軽く眼が回る。心臓に軽い痛みが走る。針で刺されるほどではない。ホチキスの針を踏んづけてしまったていどで、しばしば訪れる痛みだ。鎖骨下あたりの血管コースを指圧しているうちに、すぐに治まる。いつものことだ。
 とはいえ油断はできない。作業時間は四十五分を超えた。三十分日光浴の意は達したということにして、切上げた。

 君子蘭は気分好さそうだ。先祖返りか野生化か、葉の形が園芸植物であったころに比べると、ずいぶん変った。命に自信が芽生えたように観てとれる。花芽を挙げてくる気配なんぞは微塵もない。
 人間の眼を愉しませることなんぞ、考えなくてかまわない。生きてさえおれば、それでよろしい。