一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

赤フン

安岡章太郎(1920 - 2013)
井伏鱒二対談集』(新潮文庫、1996)より無断切取り。撮影:田沼武能

  満洲北部、ソ連との国境警備部隊に、南方への転進命令がくだった。全兵士に赤褌が支給された。水中でフカに狙われぬためだという。途中で輸送船がやられて、海中に放り出されることも織りこみ済みだったわけだ。
 安岡章太郎は肋膜炎が悪化して、起き上れず、独り置いてけぼりを食った。部隊はフィリピンのレイテ島へ移動し、全滅した。

 私が入学した学校は中高一貫の男子校で、旧きバンカラを尊ぶ気風が強く残っていた。プールはなかった。その代り千葉県に海の家があって、普段は水泳部が管理していた。水泳部は校内屈指の伝統部活で、海の家はさながら水泳部の治外法権地帯のごとくだった。
 中学一年の夏休みには、学年三百名を三分割して、各一週間づつ「水泳学校」という全員参加の合宿があった。二年生以上は全員参加ではなく、水泳部員だけが長期合宿していた。合宿では、水泳部の流儀であり伝統でもある水府流の日本泳法が伝授された。幕末に水戸藩で完成された泳法流儀である。クロールも平泳ぎも禁止され、横泳ぎ(のし)の基礎が叩き込まれた。

 ひと口に日本泳法といっても、横泳ぎと抜き手を合せると二十いくつもの泳ぎかたがあり、さらに跳び込みがいく種類もある。級位制度があって、免許皆伝の一級まで昇級できるのは、高校三年まで鍛え上げた水泳部員でも学年に数名しかいない。熱心な部員でも、ほとんどが二級で卒業してゆく。
 小学生時分は泳げなかったというレベルの生徒が六級丙で入門。乙、甲と昇級してゆく。午前午後とも練習漬けで、練習は級ごとに分れるから、昇級するたびに練習場所が変る。昼食後の昼寝時間と夕食後の自由時間に、昇級者の名前が廊下の壁に貼り出される。午前と午後とで級も練習場所も変ったりするわけだ。
 そして湾を横切る数百メートルの小遠泳を定められた泳法で泳ぎ切れると、五級に昇級できた。小遠泳を通称「ミルクホール」といった。その昔、浜から上った場所でミルクホールが営業されていたらしい。

 一年坊主のほとんどが、一週間の合宿で五級になって帰ってくる。四級に昇級するには、海上正面彼方の小島と右手の半島の先を三角に廻って還る、五キロほどの遠泳を泳ぎ切らねばならぬが、一年坊主に遠泳挑戦は許されていない。不測の事態を慮ってのことだろう。
 その代りに、練習を看ていた助手(すけて)と称ばれる OB のコーチ陣が、もし挑戦できさえすれば、この生徒は遠泳を泳ぎ切ることだろうと認めた五級生を、四級に推薦してくれた。「認進」昇級と称ばれた。「以下のもの認進四級」と自分の名が貼り出されると、妊娠との連想から、ちょっぴり恥ずかしかった。さような齢である。
 一回の水泳学校から四五名、学年で十数人ほどが認進四級となれた。うちのなん人かは、翌年以降も水泳部員として残ることになる。将来の一級候補だ。

 湾内あちこちに、級ごとの練習場所が設定された。各級担当の OB 助手らがそれぞれ櫓を押して船を出し、この辺りという処に錨を打つ。
 「あれっ、うまく刺さったかな。オイおまえ、視てきてくんねえか」
 指名された生徒は錨が海底にちゃんと刺さったかどうか、潜って確認してこなければならない。綱はかなり長いから、船の現在地と錨の場所とはそうとう離れている。綱が海面に没した場所から潜っては駄目である。綱の延長線方向を見定めて、こゝらあたりかという処から、思い切って潜らなければならない。
 「大丈夫です、先輩。刺さってましたぁ」
 「本当かよ、怪しいもんだなぁ。オイそっちのおまえ、確めてきてくれ」
 次の生徒が潜らされる。じつは嘘である。彼が打った錨が、海底に刺さっていないはずはないのだ。そんなときに指名されるのはたいてい見所のある生徒で、助手連中は将来に向けてどの生徒を可愛がるべきか、ひと目で視抜いている。
 そして生徒たちは船の周りを指定された泳法で延々泳ぎ続ける。船の上から助手はそれを眺めて、指導したり発破をかけたりする。

 四級程度では、横泳ぎ五種類ほどと海上四メートルの脚立からの跳込み三種類ほどを教わるだけだ。抜き手を教わるまでには至らない。未知の泳法を教わるときは、助手から呼ばれた一級二級の上級生が手本を見せに来てくれる。助手の合図で生徒らは一斉に、頭頂が水面に届くか届かぬかくらいに潜って、その深さをキープする。右から左へと、上級生が眼の前を泳いで過ぎるのを、水中から眺める。
 スイーッと泳いで水音もせず、波も立たない。この人らはイカかタコかと、本気で疑った。上達すれば、日本泳法とはそれほどに美しいものである。

 遡って水泳学校に先駆けて、生徒らには長いさらし木綿が配られる。白褌(白フン)である。六尺褌の締めかたが指導される。先輩が手本として体操着の上から締めて見せながら、説明してくれる。各人やってみて、先輩に点検してもらう。
 そんな丁寧に教わるまでもない。「これは少し長いな、結び目をひと捻りさせてから、両腰の余りをたっぷり取るか。それには初めに肩に掛ける部分をこんくらい長めに、っと。よいしょっ」私はさっさと絞めて、順番を待っていた。
 「お前、できてるねぇ。へぇー」

 

 小学校にはプールがあった。暑い季節の体育では、水泳の授業もあった。そしてわが小学校では、男子の水着は真赤な褌と決められ、水泳パンツは一切禁止だった。
 隣町の旧くからの小学校では、男子は水泳パンツを履いていた。こちらは戦後に創立の新設小学校なのに赤褌(赤フン)というのは解せなかった。だが初めのうちこそ照れ臭かったが、すぐに慣れた。女子の眼も気にならなくなった。
 運動性において勝るだの、溺れかけたとき掴んで引上げるのに便利だのと、理由はあるらしかったけれども、要するに戦後民主主義教育の理想と理屈の頭でっかちな行き過ぎだったろう。いかにも時代に逆行であり、その理想と合理性は定着しなかった。
 校内のプールで泳いでいるうちは問題なかったが、選手に選ばれて豊島区の区立小学校合同競技会に出場するさいにも、普段どおりのユニフォームでとの原則で、わがチームだけが赤褌だった。他校の生徒たちからは、あからさまに嗤われた。

 中学一年の夏、水泳学校に参加するときには、私はすでに六尺褌についてはそうとうの経験者だったのである。赤フンが白フンに替っただけだ。
 ただしプールと海とでは、素人と玄人ほどの違いもあった。上級生から聴いた、遠泳に出たときの噺だ。櫓漕ぎの和船を先頭に、一列になって掛声を掛けたりしながら出て行く。沖へ出たら時間を取って、立ち泳ぎしながらいったん褌を解き、腹に巻きなおす。賭場の壺振りのさらし腹巻みたいに。これから長時間泳ぐのに、腹を冷さないためだという。それ以後は下半身一糸まとわずに泳ぐわけだ。
 浜が近づいたら、また立ち泳ぎしながら、腹巻を解いて褌を締めなおす。そして浅瀬まで来たからといって立ってはならない。腹が砂地に触れるまで泳ぐ。水中だからこそ足も腰も動いたものの、立ちあがってしまったら腰ていどの水深でも、歩けないそうである。

 それら興味尽きぬ噺のなかに、褌全部を腹に巻くのでなく、ある長さを余して水中になびかせておくという説があった。フカ対策だと、たしか聴いた。千葉県の海に人喰い鮫が現れるとは耳にしないが、旧くからの伝統の踏襲だそうだ。
 安岡章太郎の所属部隊は、赤褌の用意万端で転進したわけだが、幸いフカの餌にはならずに済んだ。が、レイテ島にて、部隊全員戦死または戦病死のやむなきに至った。フカ相手には効果ある赤褌も、敵の矢弾や糧秣枯渇の防御にはなりようがなかったわけだ。