一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

途を拓く

河盛好蔵(1902 - 2000)
井伏鱒二対談集』(新潮文庫、1996)より無断切取り。撮影:田沼武能

  目立たぬ功労者の踏んばりによって、歴史は底支えされてきた。多くのかたがたにまで、知っていたゞく必要はないことだけれども。

 ポール・ヴェルレーヌの有名な詩の冒頭。巷に雨の降るごとく、わが心にも涙降る。どんな雨だったろうか。静かに降りそゝぐパリの夏の雨か、ロンドンの十月の雨か。複数の説があるらしい。いかなる雨かによって、たしかに詩情はいくぶんか異なってくる。詩人によって詠われた時期を特定し、その時分の身辺事情や心境を考察することで、詩人の真意を推しはかれよう。
 かつてお訊ねがあったのでロンドンの雨とお応えしたのでしたが、井伏さん、その後べつの説もあながち否定できぬと知りました。その次第をご報告しなければと長らく思いながら機会がなく、今こゝで申しあげます。井伏鱒二との対談「文学七十年」(『井伏鱒二対談集』所収)で、河盛好蔵が云っている。

 ヴェルレーヌは救いようのない男だ。酒乱で、酔うと見境なく夫人に暴力を振い、シラフに返ると恋女房に平身低頭の未練タラタラ。それでいて、アルチュール・ランボーとは別れられず、夫人を置去りにランボーを追いかけて、どこかへ行ってしまう。しまいには夫人からもランボーからも、愛想を尽かされる。可愛さ余って憎さ百倍。ランボーに向けてピストル発砲。実刑判決で投獄された。
 出所後、イギリスの小さな田舎町で中学校の教師として、平穏かつ殊勝に過す時期をもった。

 河盛好蔵は、パリやベルギーにおけるヴェルレーヌのおもだった行状は辿った。あとはロンドンから北へ二百キロ、ボストン市の外れにあるという人口六百の小さな町へ、どうしても行ってみたいとかねがね思いながら、長らく果せなかった。ついに機会を得た。なんと、教室にヴェルレーヌ肖像画の写真版を飾る学校が、今もあった。下宿もあった。その家の住人は詩人を知らなかったが、町の多くの人は父母や祖父母からヴェルレーヌについて聴き知っていたという。
 好い噺だ。返礼のように、そうだフランス語といえばと、井伏鱒二サイゴンで、俺は結構だというのにホテルでもレストランでも、コールガールに付きまとわれて閉口した噺が続く。これまた劣らず、好い噺だ。

『世界文学全集 第二十巻』(新潮社、1927)いわゆる円本の一冊。

 ご両所の昔語りとなれば、当然ながら本についての、この上もなき豊富な噺となる。なかにこんな噺が混じる。
 広津和郎モーパッサン女の一生』翻訳原稿は、新潮社に百円で買い取られた。翻訳原稿は当時、買い取りが普通だった。気にも留めなかった広津だったが、あるとき書店で、翻訳書が何十刷もの重版になっているのを眼にした。百円の原稿料は大金ではあったが、何十刷りとなれば話はべつだ。すぐさま新潮社へと走り、社長に掛けあった。
 「買い取りの契約だから異存はないけれども、これほど売れたんだ、なんとかイロを付けちゃあどうです」
 「じつは広津さん、私もそれを云い出そうとしていたところだったんです」
 新潮社はポンと、二百円だか三百円だかを出したそうだ。

 未曾有の出版景気は続く。昭和初頭の円本ブームが来た。定価は一円と決ったもので、奥付にも箱にも定価表示はない。全集のセット予約販売で、分売はされない。各社から次つぎと揃いものの企画が打出された。それまでに多くの翻訳原稿を買い取って刊行してきた新潮社は、難なく『世界文学全集』の企画を立てられた。
 広津訳『女の一生』も中村星湖訳のフロベールボヴァリー夫人』と抱合わせで、『全集』に収録された。
 全集収録の再利用となれば、また話はべつだ。広津和郎は社長と相談。適正と公平を考え、印税方式が採用された。以後、翻訳家も作家同様に印税計算で売れ高相応の翻訳料を受取れるようになった。
 今日では当りまえのようになっている。が、今から百年近く以前に、出版経営者と渡り合えるほどの、聡明さと度胸とを持ちあわせた作家による交渉力から、翻訳家の途は拓かれたのである。

 以上は河盛好蔵による回想・証言。以下は私のつけ足し。ともに長篇小説とはいうものの、『ボヴァリー夫人』は『女の一生』よりだいぶ長い。この円本『世界文学全集』では、均衡を図るためか、モーパッサンからもう一作『脂肪の塊』が同じ広津訳で収録されてある。出世作の中篇で、のちのモーパッサンの特徴が率直に小気味よく表現された傑作である。むろん新訳も文庫化もされてある。けれども、である。
 刊行後九十五年。古本屋店頭の、往来に面した晒しの棚にて、均一料金で視かけたりもするバラの円本だが、広津和郎訳の『脂肪の塊』となれば、これはちょいとしたメッケモンである。