一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

とある週末

玄侑宗久『現代語訳 般若心経』(ちくま新書、2006)

 久びさに鉄道に乗る。本日の携帯本は、玄侑宗久さんと決めて、バッグに入れた。

 まずもって軍資金。銀行 ATM へ。年末年始の諸雑費用意にはまだ早いか。本日の経費のみ引出す。
 私鉄はともかく山手線はじつに久しぶり。玄侑宗久さんの続きを読む。どうやら「空」のイメージを想いうかべられるかいなかが、第一歩なのだな。新井満さんが強調しておられた点と、まったく同じだ。
 西日暮里まではあっという間だ。窓外を少しは観ておくんだったかと、かすかに後悔する。

 母校は大工事中。正門前に立つ。かつてはこゝを何百回となく出入りした。六十年前から五十五年前にかけてだ。
 その後いつ頃のことだったか、学内伽藍配置の大変更と校舎大改築があって、記憶に馴染みの母校ではなくなった。それがさらに老朽化したか収容能力が足りなくなったかで、今回の大工事だという。記憶にあるどこが、今のどこなのやら、見当もつきかねる。竣工のあかつきには、卒業生へのお披露目なんぞという行事が催されることだろうが、出席する気はない。眼を白黒させて退散するほかないに決ってる。

 今日は母校への用事ではない。道路を挟んで正面の居酒屋が会場だ。バスケットボール部 OB 有志による忘年会である。
 近隣を観て歩きたくて、定刻一時間前に到着を期したのだったが、例のごとく出がけに、あれを忘れたこれが必要だで、玄関と部屋と往ったり来たりして、時間を失った。それでも今日は、駅まで歩いてから気づくというような痛恨の大失態には見舞われなかったのがせめてもだ。

 やむなくほんの近辺だけを歩いてみる。車の往来激しい道灌山通りだというのに、居酒屋から二軒隣りの歩道脇にはミニシクラメンプランターが四つほど並んでいる。どういうかたが置いてくださっているのか。三色の花を、各プランター順番を替えて植えてあるところが、微笑ましい。
 定刻十分前となったが、居酒屋戸口には「只今準備中」の札が掲げられたまゝだ。いくらなんでもと勇を鼓して扉を押してみる。開いた。店員さんにお訊ねすると、すでにお二階にだいぶお集まりですとのこと。本来は開店前の時刻なのに、無理に開けてくださったらしい。他のお客さまが入店してこないように、準備中と表示してあるのだという。恐縮至極だ。
 なるほど、二階座敷にはすでに顔ぶれが揃い、私がほゞ最後の到着者のようだった。

 学年にして上下十年ほど。爺さんばかり十人あまりの昼食宴会。寒い季節だし、帰り道もおぼつかない。夕刻からの酒宴よりは昼食会が安全安心だ。
 とはいえ、もとは呆れるほどの呑み助ばかり。体調いまいちだの、数値が心配だの、めっきり飲む機会がなくなっただの、言いわけにも似た繰り言を連ねながらも、店からの配慮とかで、地酒の一升瓶が次つぎと、はて何本出てきたのだったか。
 この寒気に自重を申し出た定連もあって、視回せば私が最長老。あれこれお気遣いをいたゞいてしまう。社会人としては、私なんぞより何倍もご苦労ご活躍なさった面々に違いないが、運動部の先輩後輩とは奇妙なもんだ。面映ゆいこと限りないが、形だけは先輩の振りをしてお見せすることも、時には必要だ。


 この顔ぶれの宴となれば、かつてはその日に帰宅することは、まず難しかった。が、ただ今では、店前での立話にて佳き年越しを祈り合い、健康での再会を約して散会する。
 もっとも駅方向へと向ったご一同のあいだでは、申し合い稽古のように声を掛け合って、二次会の運びとなったに相違ない。が、私はあらかじめ思い決めていたところあって、ご一同と別れ、逆方向へと歩き出した。

 かつて古今亭志ん生宅があった通りを抜けて、谷中銀座から夜店通りへと辿る。マミーズさんへ寄って、アップルパイを買って帰ろうというわけだ。
 前回立寄りは広津和郎命日のころ、谷中霊園墓所に詣った帰りだったから、九月のことだ。平日だったから、容易に入店できた。が、今日は自粛ムードからやゝ解放され気味の、しかも週末。果せるかな、マミーズさんの前は行列ができていた。ご婦人ばかりの行列の尻尾に、爺さんひとり並ぶ。
 中サイズのホールを二つ買う。「大人の味のアップルパイ」「紅玉リンゴのアップルパイ」といった姉妹商品にも心惹かれるが、まずは基本に忠実にレギュラー味とする。

 かつていく度もトークライブをやらせていたゞいた、ペチコートレ-ンさんにご挨拶すべきだが、店内にはお客さま一杯のご様子。書入れ時だ。失礼このうえもないが、遠慮させていたゞいて、地下鉄千駄木駅下り口脇のサンマルクカフェまで歩いて、そこで一服。奥に喫煙スペースが設置されてあるので、助かる。
 ひと息つきながら、玄侑宗久さんを読み進める。「空」は「無」ではない。「空」を変容常なきもの、すなわち「無常」とイメージできるかどうかの問題。量子力学のかたがたも、原子核をさらに分析してゆくと、究極は「存在」なんだか「運動」なんだか、判定がつかぬと主張しておられた。眼で視た人間などあるわけがない世界だ。実験の数値が、また数式上の値が、究極を「存在」と考えても「運動」と考えても成立してしまうそうだ。
 また養老孟司さんは、神経細胞の末端のあまりに活発な動きを根拠に、昨夜寝る前の自分と今朝眼覚めた自分とが同じ人間と考えるには無理がある、とおっしゃっていた。
 仏法も科学もが指摘するところの「変容常なき」とは、いかなることなのだろうか。「空即是色」は「色即是空」とは比べものにならぬほど難しい。これは文学の問題だ。

 千代田線、山手線。玄侑宗久さんはそうとうお気を遣われて、解りやすく教えてくださっているが、それでも難しい。
 池袋ではまず日比谷花壇。七月に従姉が亡くなって、家族葬で済ませたと、先日ご主人から喪中はがきが届いた。知らなかった。暮しに困るかたではなし、香典など送って返礼のお手間を煩わせることは避けたい。年末配送日指定で、花を手配する。
 次はロフト。受取り年賀状および来年分のハガキ保存ファイルを購入。帳場は行列。対面カウンターでの現金払いと、自動支払機利用の、二列の行列がちょうど同程度の長さだ。商品形状がまちまちで、ギフト包装の注文も多様な商品が多いからこそ、この行列状況だろう。画一的な商品を扱う店では、すでに支払機主流の時代なのだろう。

 西武池袋線。祭やさんはまだ開店前だ。駅前ロッテリアデモクリトス粒子論といい、ソクラテス自己認識論といい、個の存在を積上げることで全体へ至ろうとする。西洋哲学史の宿命のようなものだ。どうやら仏法では、最初に全体があったと瞑想的直観が云う。アインシュタインのエネルギー不滅説に似て、全存在は一定だとの考えかたのようだ。一滴の水でさえ、それがなければ宇宙は壊れると考える。う~ん。

 アップルパイの一個は、蔡やさんへの土産だ。大学祭の打上げでは、お世話になった。若者諸君は大喜びだった。ヨッシーもチイママも私と同様、アップルパイには眼がないと聴いていた。マミーズさんの極めつけを、一度味わってもらおうと、かねてより考えていたのだった。もう一個は、むろん私独りでたいらげる所存。
 で、私はいつもの焼酎、水割り。文句のない一日だった。