一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

古戦場


 私にとって日暮里から谷中界隈を歩く気分は、古戦場巡りに似ている。懐かしさも悔いも、多々ある。想い出したところで、書けぬことだってある。

 米寿の恩師を囲む集りいらい、クラス会は六年ぶりとなる。この間に恩師は他界された。
 会場は母校正門真向いの和風居酒屋。六日前に、バスケットボール部 OB 会にてお邪魔したばかりの店だ。地政学上(?)母校ご用達の集会場として役立ってくださっているのだろう。西日暮里駅から徒歩二分の距離だ。と云ってもこの駅には、わが通学駅としての思い出はない。
 私にとっての通学の思い出は田端駅にあり、放課後に仕出かした悪さや失態の思い出は日暮里駅周辺にある。両駅のほぼ中間点の、どちらからもある程度歩かねばならぬ地点に母校はあった。卒業後に、母校の眼の前に新駅ができたのだ。今では駅前に母校があると云われるそうだ。

 クラス会すなわち老人お達者倶楽部の有様は、別の機会に回すとして、記憶の底から引っぱり出して校歌斉唱。互いの健康と再会を祈念の手締めにて会がハネれば、勇んで二次会へと誘い合う顔ぶれもほとんどない。三々五々談笑のままに、一行は西日暮里駅方向へと流れ始める。が、私はご一同にお別れを告げて、独り逆方向へと歩き出す。谷中から千駄木方向を、少し歩いてみたいのだ。
 名人志ん生の家はここだった。カツ丼の「蟻や」は先年店を閉めた。隣のジャズバー「シャルマン」もとうにない。観光地化された谷中銀座は通ってみるだけ。よみせ通りへ出れば、こちらへ来たおりには寄らせてもらうアップルパイ屋も饅頭屋も、すでに暖簾を引込めた時刻だ。

 谷根千にお詳しいかたであれば容易に思い浮べられよう、三崎坂(さんさきざか)とへび道の交差点、台東区谷中と文京区千駄木の境目だ。カフェレストラン「ペチコートレーン」の灯りがまだ点っていた。かつて隔月でお喋り役に呼んでいただいた時期があった。「ペチゼミ」なる月例トークライブの会が、はて、丸二年くらいは続いたのだったろうか。イラストレーターにしてエッセイストの金井真紀さんと隔月交代出演だった。
 金井さんはその後、持ち前の取材能力や行動力を遺憾なく発揮なされて、筆も立つイラストレーターとして多方面でのご活躍ぶりは眩しいばかりだ。
 寄ろうか。いや、知った顔もあるまい。あん時の多岐ですと名乗るのも、なんだか変だ。素通りしようとしたが、往来に向けた日替りお奨めメニューのボードに「本日のケーキセット:アップルパイ」とあった。そうなれば、噺は別である。

 やはり初めて視る店員さんだった。ビールとオードブル、それに〆にいただくアップルパイを予約した。人波去った、閉店直前の静かな時間が流れる。
 「オーナーはお元気でいらっしゃいますか?」
 「この通りは、観光客も多いのでしょうね?」
 「今も音楽ライブは続いてますか?」
 初対面のチイママさんから、ポツリポツリと近年のもようを伺った。正直な女性だった。新宿や原宿のほうが得意だったのに、谷根千で働き始めて、最初は面喰ったとのことだった。さもありなん。想像がつく。同感だ。

 窓際の席のこのあたりにテーブルひとつと椅子一脚、資料メモ置きに譜面台を一脚お借りして、ステージと成し、喋らせていただいたものだった。
 世に隠れた賢人が多数お住いの地域だ。「意識高い系」というのとは違う。むしろ逆に近い。けっして偉ぶらないし、見栄を張らない。知ったかぶりなさらず、自分を巨きく見せようともなさらない。当方は浮世離れした文学や演劇の古い噺なんぞを申しあげるほかないのだが、反応は「知りませんでした、初めて聴きました、面白い噺ですねぇ」それでいて、そのかたなりそのご職業なりのご理解で、勘所を外さなかった。
 この地域は洗練された文化的町内なのだと痛感したものだ。それに比べれば、私が泳いできた世界は、人口は多く音量は大きく、色彩はどぎつくスピードは速いが、要するに物欲しげな田舎者同士のツバ迫りあいに過ぎなかったのではないかと、感じられて仕方なかった。主催者さまにもプロデューサーさんにも隠しとおしたが、ここで喋らせていただくさいには、他所よりも注意深くしたものだった。

 さて自分の勘を試すべく、〆のアップルパイを注文した。出された皿を視て、にんまりせざるをえなかった。ホールを六分の一にカットしてあるが、中央が帽子のようにこんもりと盛上った形。それに信じがたいほど巨きな林檎果肉の塊。まぎれもなくさっき閉店後のお店前を通ってきた、ご当地名物アップルパイ専門店の品物である。営業時間を過ぎていて買えなかったが、ペチコートレーンでこの味にありついたわけだ。
 「ほほぅ、○○さんのパイですね」とチイママに向って云うのは控えた。この界隈では、知ったかぶりはご法度である。