一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

身のほど



 同学年生三百五十余名。うち夭折者がいく名あって、現在いく名健在か、数えたことはない。卒業アルバム用写真の撮影とかで、とある昼休み、中庭へ全員集合させられたのだった。ふだんはテニスのクレーコートにも早変りする中庭で、テニス部の連中が始終、馬鹿でかい鉄ローラーを引っぱっていた場所だ。

 前後はさっぱり記憶にないが、この時のことだけは、不思議にも憶えている。東側は丘というより切立った崖で、雑木林でありクマザサの藪である。地上部分にはトーチカさながらに、部厚いコンクリート壁で仕切られ支えられた、四角い空間が並び、いくつかの部室となっている。部室の上に脚立を立てて、地上からは崖の中腹に浮いたように見える位置にカメラマンが陣取り、黒布を被って箱型カメラを覗き込んでは、もう少し寄ってだの詰めてだのと、指示を与えてきた。
 多くの学友は指示に従っておとなしく撮影に協力し、なかには悪乗り気味に肩を組んで見せたりポーズをとってみたりするものたちもあった。
 「けっ、仲良し演出か、嘘臭えもんじゃねえか。オメエら馬鹿じゃねえの」
 十八歳の私がどこに立っているかは、ひと目で判る。隣と間隔をあけて、群を拒否するかのように独りで立っている。

 孤独な生徒ではなかった。むしろ行動的で友人の数多く、学年内に知られた部類の生徒だった。母校愛が乏しい生徒ではなかった。むしろ校風・伝統大好き生徒の一人だった。ただし胸裡に湧き起る母校愛と上から制度的に圧しつけられる母校愛との相違に、それどころか対極性に対して、極端に神経質な生徒だった。つまりは小生意気な文学少年だったわけだ。
 卒業後はバスケットボール部 OB 会の事務局下働きを十年やらされた。二十代のおおかたに当る。印刷物の制作、郵便物の管理実行、宴会場の手配などだ。後輩に後を譲りたいがと願い出ても、お前ができるんだからそれでいいだろうと、執行部から聴き入れられなかった。かつてのコーチやご恩ある先輩の言だから、反抗もできなかった。
 同窓会ではクラス幹事~学年代表幹事~三学年に一人の常任幹事と次第にまつり上げられ(押しつけられ)、持回りが原則だからと辞退を申し出ても、次なる引受け手は逃げ回るばかりで、留任させられた。二十代最後から三十代の半分以上に当る。志をもって社会に有用なる(?)職業なり研究なりに従事する学友たちにとっては、失業者同然のフリーだったりせいぜいのところ零細出版社のアイマイ社員だったりする私なんぞは、暇人遊び人と見えていたのだろう。
 お人好しのくせに悪目立ちしがちな自分の性格を呪った。世間的な栄達をますます冷眼視するねじくれ根性に凝り固まっていった。

 ある年頃を境に、幹事だの世話役なんぞを嬉々として務めてくださる有能の士が次つぎと現れてくださるようになった。私のほうはと申せば、今さら何をの心境で、催しや会合のほとんどに出席する気が起きなくなっている。
 ただし功成り名を遂げた学友や、家族一族ご繁栄の学友を冷眼視する、ねじくれ根性は失せ果てた。これが私の「身のほど」だったと思うばかりだ。

 園芸植物を愛玩する資格は、もはやない。己一個の管理もおぼつかぬ身にとっては、身のほど知らずというものだ。昨日の日記にさよう書いたところ、新制エックスのトレンド用語に「身のほど知らず」が掲げられた。むろん私のせいではない。
 麻生太郎自民党副総裁が台湾を訪問し、台湾海峡の現状を視野に置いて、国家間を平穏に維持する手立てについて講演したそうだ。紛争抑止力には三段階が不可欠だという。まず外圧に対抗する「能力」を準備する。次にもしもの有事にはその能力を行使するぞとの心構えを、国民共有のものとする。最後に能力があり国民が意識共有しているありさまを仮想敵国に知らしめ納得させる。という三段階だそうだ。

 講演を至極当然と聴いた人と、憲法や国法に謳う戦争放棄専守防衛の理念からの逸脱と視る人との、意見対立があるらしい。日記で政(まつりごと)に触れる気はないので、論評の限りではないが、そりゃ当然対立があるだろう。
 ところで在日本中国大使館の報道官が談話を発表して、この講演を称して「身のほど知らずのデタラメ」だとクソミソにこきおろしたという。これが多くのネット民の眼に止り、トレンド用語入りしたらしい。やはりわが日記の用例とは似ても似つかない。
 この報道官さん、または原稿を書いた書記官さんが、どれほどの日本語の使い手かは存じあげぬが、「身のほど知らず」というのはかような場合にさような意味にてお使いなさるには適当でない表現なのだが、おそらくお気づきではないのだろう。
 「身のほど知らず」の用いかたが身のほどを露呈することになっては、藪蛇でしょうに。あくまでもこれは、政治向きの噺ではなく、外国人に対する日本語教育の問題でありますけれども。