一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

常なき

 
 思いつめ出したら、きりがない。

 今さら書き屋としての重く長い仕事が回ってくることはない。体力的に無理だ。衰えても知名度や敬老精神により仕事が振られるかたもいらっしゃるが、生涯裏街道を歩いた私には、ありえない。
 文学雑誌の新人賞選考会。読み屋と喋り屋の仕事だ。これはまだ、たまにある。選考委員のなかでは、とびぬけて長老となってしまった。若者の意欲的作品に触れるのは愉しみだ。

 老人に新文学の読解が可能かと、ご心配くださるかたもある。大丈夫、息子のようにお若い論客が、選考委員に名を連ねていらっしゃる。齢の甲と申そうか、旧文学の修業をした眼にはこの新人作品がかように読めたとの、参考意見を申しあげればよい。
 新人賞とはいっても、若手選考委員より年長の応募者も混じる。一見新しげな意匠に彩られていても、じつはとんでもなく古い泉からヒントの水を汲み出してきた作品も混じる。長く歩いてきたことが役立つ場合もある。

 今年の選考は、委員間にさしたる意見食違いも起らず、案外早く結論に至った。議論百出して長引く場合を懸念して、欠席もしくは大幅遅刻と態度を曖昧にさせてもらっていた次なる予定に、途中から駆けつけられそうだ。気の合う仲間らとの忘年会だ。
 かつて参加者だったうちの二名が、今年亡くなった。献杯の会だ。遅参をご一同に詫び、おそらくは今夜いく度めかであろう献杯の音頭をとらせていたゞく。十人を超える老人たちの顔も声も、がいして明るい。朗らかだ。いずれはわが身、他人事ではないと、だれもが痛感している。だから顔にも態度にも出さない。

 じつは前日、野菜の大北君からメールがあって、共通の学友が去る八月に人知れず他界していたことが判ったとのこと。今宵の顔触れの半数ほどが知っている男だ。その次第を報告した。つごう三名への献杯だ。
 大北君とのメール交換でも、残念の想いは交されたが、衝撃だの悲痛だのといった言葉は、互いに避けた。他人事にはあらずとの想いは、双方に共通している。
 めっきり酒量の減った身だが、この忘年会では飲んだ。遅参の身でもあるし、終電に合せて順次退席する仲間から置去りにされながら、深夜まで飲んだ。なん年ぶりかで、長距離のタクシーに乗った。

 選考会と忘年会。ほとんど用事というもののない身には、大きな区切れ目だった。一夜明けて今日は、楽に過そうと決めた。残っていた里芋を煮っころがしにする。これで大北君より拝領の里芋を使い切った。まだじゃが芋が愉しめる。こちらにも腹案がすでにあって、合せるつもりの変り雁もどきと生椎茸を用意してある。数日先になろうか。
 火にかける時間を利用して、包丁類を磨く。鍋たちの底を磨く。

 ご近所の奥さまからいたゞいた和歌山蜜柑を、そのまゝムシャムシャ食べてしまうのももったいない気がして、半分をいじってみる。シブを丁寧にとって、皮は細切りに、実には包丁を入れてから、蜂蜜に浸けてみた。初めての試み。想定では、いかにも蜜柑みかんした湿っぽい塊ができるか、さもなければ、マーマレードと強弁されれば似ていなくもないような、得体の知れぬものができると踏んでいるが、どうなるかはまったく見当がつかない。

 一年中カボチャを食う男としては、切らして一週間経ったので、また炊く。眼をつぶってでもできそうな、いつもの調理法。それでも毎回かすかづつ味も舌触りも異なる。水加減、出汁加減、砂糖加減、火加減すべて目分量の適当調理だからだ。カボチャの産地や出来も異なる。気温や湿度によっても異なるのかもしれない。
 味というものは、カボチャの内にあるのではない。調理の腕前にあるのでもない。双方の出逢い関係のなかにのみある。これを変容常なき存在の基本、色即是空という。玄侑宗久さんのご本から教わったばかりだ。