一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

参加唄


 中島みゆきのアルバム『 I Love You 答えてくれ』を作業 BGM に流してなん日か経ったが、もっとも回数多くリピートしたのは『背広の下のロックンロール』だ。

 楽曲も声色も個性強烈にして、聴くものだれもがすぐに判別できる中島節とはいえ、曲色というか唄の手触りにはいくつかの作柄がある。つぶやき囁き調、軽快鼻唄調、言い聴かせ調、応援励まし調、意思表明および決断調、などなどだ。『背広の下のロックンロール』は勤め人層への応援励ましソングで、かつて大ヒットした NHK テレビ番組「プロジェクト X 」のタイトル曲やエンディング曲とおおむね同傾向といっていい。

 ♬ (一番)うまく化けてるね 見分けがつかない程に
   静かな人に見えるよ どこから見ても
 ♬ (二番)見破られないね その笑顔からは悲しみを
   見破られないね その目つきからは悔しさを

 男女を問わず通勤ラッシュのなかを職場へと急ぐかたがたの大半が、本当の自分はこんなもんじゃねえやと、思っておられることだろう。ものの弾みだった。気の迷いだった。運に恵まれなかった。が、まだ勝負はついちゃあいない。逆転のチャンスは来る。その時が訪れたら、突如として頭角を顕すだけの才能が自分には潜在している。きっとあるにちがいない。
 その「潜在」才能を中島さんは、背広とワイシャツとネクタイと革靴の下に秘められた「ロックンロール」と名付けた。

 微笑ましいほど古風で明瞭なビートで立上る。ご本人もさように唄い出している。オッ、例の軽快鼻唄調かと、一瞬思わせる。が、これも中島作品にはしばしば見られることだが、サビへ移ったり転調したりをきっかけに、空気がガラリと変る。「~からのぉ・・・」というやつである。
 日ごろはそのロックンロールを人前で披露する機会がない。よって誰からも知られることはない。


 ♬ 右肩に愛を乗せて 足どりが遅くなっても
   左肩に国を乗せて 足どりが遅くなっても

 加えて、今年は下の坊主が就学年齢だ。上の娘は稽古事がまたひとつ増えるという。とんがったりはできねえよなぁ。面白くもない仕事だけども、会社の業績向上は確実に社会の景気動向に、ひいては世の中のために役立っているそうだ。辞められねえわなぁ。それにしても、行き場を見つけられずにいる、わがロックンロール。
 転調してラスサビへ移行する。もはやとうてい鼻歌調なんぞと称べるものではない。フォルティシモの連続張りっぱなしである。ライブステージでマイクを持たぬほうの腕を宙に差伸ばして天を仰ぐ中島さんが見えるようだし、その腕を客席方向に差伸ばして身を「く」の字に折る中島さんが見えるようだ。

 ♬ セ、ビーロの下のロックンロール
   誰に見せる為じゃない 己の素顔見るロックンロ~ル

 無限ループのごとくに、リフレインされ続ける。自分だけが知ってりゃいいじゃないか。それと僕(中島みゆき)が知っているから……。

 三十五年くらい前のこと、医療綿製品と衛生雑貨の有名メーカーからのご用命をいただき、『創業九十年史』なる社史を造ったことがある。
 明治二十年代に棉花を仕入れて脱脂綿製造を始めた創業者が、日露戦争の軍装品納入業者として頭角を顕す。包帯(当時は繃帯)と腹帯とを三角巾で砲弾型に包んだものが、兵士の背嚢に常用装備とされた。たしか繃帯砲と聴いたが、今の辞書にはない。
 その後も、包帯・ガーゼ・脱脂綿など医療用布製品の製造業者として地道に発展し、業界内に冠たる地位を占めるにいたった。とはいえ分野を「医療」に限っていたのでは、販路があまりに小さく限られる。昭和後半つまり戦後は、技術を活かして広く一般雑貨の衛生用品分野へと乗りだした。解りやすく申せば、女性用品や幼児用紙おむつ、さらに時代は動いて老人介護用品へと進出した。それは苦難の道のりだった。なにせ医療分野での競争相手は似たり寄ったりの中小企業だったが、一般雑貨用品ともなれば、そこにはユニ・チャーム花王だと、先行大手がひしめいて覇を競っていたからだ。

 さようにのし上ってきた苦難の九十年を振返り、跡付けて、内外への挨拶とも現職従業員への励ましともしようとの意図をもった『九十年史』である。記録に残された社内資料などない。本社へ日参して重役や部課長クラスから噺を聴いたくらいでは埒が明かない。存命の退職 OB を訪ねて回った。群馬の工場へも静岡の倉庫へも出向いて、古手の社員から現場の苦労話や伝説・云い伝えの類を聴いて歩いた。取材と原稿作りに丸一年を要した。そして一年半かけて完成。製本所からの納品トラックが本社倉庫に届くとの連絡があって、出掛けた。
 倉庫といっても、丸太とベニヤ板で囲ったコンクリ打ちスペースをトタンの波板屋根で覆っただけの、ドラック荷下ろし場である。フォークリフトで降ろされたのだろうパネル積みのままに、隅に包装された完成品が積まれてあった。員数確認と検品がその日の私の仕事である。かたわらに、四十恰好の男が一人、見張り番よろしく立っていた。

 「着きましたね、ようやく」
 彼は私が誰かを知らぬようだった。しばしの期間ではあったが、お墨付きを得たかのように社内あちこちを歩き回り、ほとんどの役職者にはお目通りしたはずなのに。
 「ちょっとサンプルを見せてもらいます。大丈夫ですよ、私は関係者ですから」
 なぁんだ、そうか、という顔を彼はした。検品作業を続ける私に、話しかけてきた。
 「俺もこれには、一枚噛んでんだよね。うん、一枚噛んでんだ」
 自慢気な云いかたであり、誇らしげな表情だった。私のほうは彼に視覚えがない。おそらくは総務課長のもとでなにか調べたか運んだか数えたか、それとも今日みたいに見張り番をしたか、なにがしか手伝ってくださったかたなのだろう。格調めかした表紙の上製本がグラシンを巻かれて、社章を金赤に染め出した貼箱に納まっている。これほどの本になるとは、彼の想像のほかだったのかもしれない。
 「そうでしたか、立派な本になりましたね。おめでとうございます」
 ―― 私が書いたんですけど、あなたのことは存じませんね。
 などと申す気は、むろん当時も起きなかったが、今思い返しても、それらしいことなんぞ口にしなくて、ほんとうに好かった。