一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

こんなもん

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 これほど引きこもって、なるべく世間と関わらずに、ちっぽけに暮しているのに、こんな隅っこにまで世界情勢が影を落してきたかと、一瞬は考えた。

 大衆需要に応ずるべく、有名メーカーが研究・調整して商品化したものを、良いの悪いの申したところで、いたしかたもない。自分の味覚に合うか合わぬかだけの問題だ。
 それも似たり寄ったりとなれば、末端販売価格の問題だけが残る。当然ながら、ロットの大きい商品ほど安いのが普通だ。「お徳用」というわけである。

 ひと月ほど前から、行きつけのスーパーの棚から、わが愛用の「お徳用」十六袋入りコーンスープが、姿を消した。仕入れ手順のちょいとしたズレにすぎまいと、数日、やがて一週間と視合せていたが、補充されてこない。商品名札も撤去され、ほかの商品が場所を埋めた。
 さては、戦争やら世界情勢の影響で、輸入小麦の価格急騰して、メーカーも生産調整に入ったのだろうか。

 別の有名メーカーの八袋入りを購入した。一食分あたり単価は、あきらかに高価だ。味は、う~ん、同時に飲み較べてみなければ判らぬが、どちらも美味い。
 両商品とも箱の裏側には、成分表やら、一食あたりカロリーやら、アレルギー物質の含有状況やらが、こと細かに明示されてある。決りがあって、明示なしには販売できないのだろう。なにごとも見聞。この機に眺め較べてみた。
 トロ味や喉ごしを形成するために、主要材料に小麦があるのは、A社B社同じ。数値は微妙に異なるけれども。味のベースを形成するのにA社は鶏肉と豚肉のエキスを、B社は鶏肉と大豆を使用してある。
 う~ん、輸入価格の急騰は小麦ではなく大豆だったか。

 いや待て、大会社の原材料輸入戦略だ。そんな単純な問題であるはずがない。
 どこの港かは知らないが、埠頭ちかくの巨大冷蔵倉庫に、先物(さきもの)輸入価格でしこたま入手した向う何か月ぶんかの原材料が、大袋で山積みされてあるはずだ。それらから日々の商品相場を睨み合せながら、今日の分は何トンと判断して決済しては、工場へ買い入れているはずだ。
 よくよくの在庫払底でも起さぬかぎり、先物輸入相場が急に強くなったからといって、国内相場に見合わなくなるなどということが、ありうるだろうか。
 それとも中間商社による、見計らいの相場釣上げ戦術でもあって、商社とメーカーとのあいだに、せめぎ合いでも起きているのだろうか。
 『日経流通新聞』など視たことない身には、さっぱり判らない。

 綿や布や紙による、医療製品や衛生商品を製造する会社の『創業ン十周年史』なる非売書物を、取材記者兼ゴーストライターとして請負ったことがあった。三十五年くらい前のことだ。現社長の祖父が創業者で、日露戦争のさいには帝国陸軍に包帯や脱脂綿を納めたという老舗だった。今は軍需皆無で、病院や薬局に納めたり、ドラッグストアに女性用品を納めたりしていた。
 「綿を仕入れるのは、むずかしいよ」が、父である先代社長からの教えだそうだ。先代は先々代たる祖父から、きつく叩き込まれたという噺だった。
 午前さて何時だったか定時に、総務課長が大きな台帳を手にして社長室へやって来る。
 「社長、今日の相場と在庫はこうなっておりますが……」
 「ちょっとグラフ見せて。ふーん、十トンだけ入れといて」
 という場面を、いく度か目撃した。綿を仕入れるのはむずかしい、という噺も、そういう場面で伺ったのだったと思う。

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 三週間ほどが経って、もう諦めていたころ、というより忘れかけていたころに、かつてB社の十六袋入りが入っていた棚に、新たにC社の商品がお目見えした。八袋入りではあるが、A社よりだいぶ安い。新たな取引開始のサービス価格だろうか。それとも営業戦略の価格競争で、B社を追い落して参入してきたのだろうか。
 どれどれ。ためしに買ってみたのは、もちろんのことだ。だって安いのは好いことだもの。

 ほぅれ視たことか。戦争や国際情勢の変化が、私ごとき底辺小市民の台所に、即座に響いてくるなんてことは、そうそうありようはずもない。こんな辺境にまで情勢の影響が及ぶのはよくよくのことで、もしもそんなことにでもなるくらいだったら、大状況はすでに壊滅的変化に見舞われているにちがいないのだ。

 この齢まで生きてきて、世の不景気に自分がきりきり舞いさせられた経験など、たった一度しかない。第四次中東戦争後の不景気と品不足で、主婦たちがトイレットペイパーを求めて駆けずり回ったときだ。
 食堂・喫茶店などのトイレにはいっせいに、「トイレットペイパーを持ちかえらないでください」との貼紙が出た。なおも被害が絶えないので、釘留め・針金巻きしてロールを取外せぬ仕掛けににしたトイレが、ずいぶん現れた。それでも、ひそかに芯を持参して、ロールからそっくり巻き取って帰る客まで現れた。

 全国で何十万かの就職内定学生が、内定を取消されたり、新年度になっても自宅待機を申し渡されて出社できない事態が発生した。
 私もその時、内定をもらってあった出版社から、取消された学生の一人だった。世の中なんてこんなもんかと、思ったもんだったが、なぁに、世界情勢が直接身に及んだのは、それ一回こっきりだ。