一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

行かない

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中原美紗緒(1931-1997)

 美紗緒さんの、ある曲間トーク
 ――女から男への、別れの捨て台詞。齢によって変ってきますよね。十代のころ。「もう無理。嫌いになったの。別れましょっ!」 二十代のころ。「ごめんね。ほかに好きな人が、できちゃったの」 三十代のころ。「あなたには、私なんかよりふさわしい人が、きっと現れるわ」 今お笑いになったかた、ご経験あり、ですね。では聴いてください、次の曲「捨て台詞」。――

 渋谷ジァンジァンでのコンサートだった。地下室へ降りる急階段に腰掛けて行列したとき、こんなの久しぶりだナと感じた記憶があるということは、アングラ劇やテント芝居を観て歩いた時期からは、だいぶ経っていたのだろう。渋谷ジァンジァンの末期近くだったのだろうか。
 とにかく今回聴いておかなければ、ライブで聴く機会はもう一生訪れないような気がしていた。
 
 中原美紗緒さんを知ったのは、失礼ながら、ご本職の歌手としてではなく、TBSのテレビドラマ「あんみつ姫」の主役、お姫さまとしてだった。年月の記憶がはっきりしないので、今検索してみたら、昭和三十三年(1958)から三十五年(1960)まで放送されたという。小学高学年の少年は生意気にも、可愛いオネエサンだと思って、毎回楽しみに眺めていた。

 何年も続けて紅白歌合戦に出場し続けている、第一線のシャンソン歌手と聴かされても、ピンと来なかった。雑誌『ひまわり』ほかで有名な、美少女得意の人気画家中原淳一画伯の姪御さん、なんぞと聴かされても、よけいピンと来なかった。というより、どうでもよかったのだろう。
 たしかに紅白でも、何度か観ていたと思う。紅白は同系統の歌手または曲を組合せるから、シャンソンかそれ風の歌曲ということで、対抗するお相手はいつも芦野宏さんか高英男さんだった記憶がある。
 家族でテレビに向っていても、あゝこの女優さん(または女性歌手)好きだなぁと、母に告げられなかった最初の人ではなかったろうか。

 色白で、どちらかといえば凹凸の少ない平らなお顔で、目鼻立ちも個性的というわけではなく、お人形的な容貌だった。なにより澄み切ったお声が素敵だった。細くか弱い上品さのように聞えたが、歌い手さんなのだから、じっさいには強いお声だったのだろう。
 ずっと後年、南果歩さんが登場されたとき、中原美紗緒さんの再来だと思った。南さんもまた、おとなしげなお顔と澄みきったお声で、一見細い線と見せながら、じつは太く丈夫な棒だったというように、大成なさった。
 今なお記憶の中では、お二人の印象はどうもダブる。玄人さんが、ほかのどなたかと印象がダブると云われては、さぞやご不快だろうが、当方にも事情あるにつき、どうかお許し願いたい。

 ともあれ「あんみつ姫」から渋谷ジァンジァンまで、三十年かそれ以上、たった一回しかライブへうかゞっていないなどということは、ファンと自称するのはおこがましいのかもしれない。
 しかし芝居から寄席、暗黒舞踏、サーカスまで、好奇心にまかせてほっつき歩く習慣は身につけたものの、ジャズ以外の音楽ライブを聴き歩く習慣はついに身につかなかったのだから、いたしかたない。渋谷ジァンジァンだって、芝居ではいく度あの急石段を降ったか知れないが、音楽はこの時たゞ一度である。魅力的な催しはいくらでもあったのに。

 コンサート後半の盛上りの場面で、「ムーランルージュ物語」を唄われた。イントロ短めで唄っても七分はかゝる、谷村新司さんの大作である。綺羅星のごとく傑作まばゆい谷村ワールドにあって目立たぬ曲ではあるが、私はこれが一番好きな曲だ。
 ジゴロとジゴレット。流れ者と踊子との、やり場のないうら哀しい恋物語を、ジンタの三拍子で語るように唄い続ける曲だが、谷村さんのオリジナルCDでは、噛んで含めるように、要所々々を強く断定的に唄う。
 美紗緒さんはそこを、ときに鼻唄を交えるような柔らかい声で、それでいて谷村さん以上にというほど音符に忠実に、素朴に唄われた。

 徹底的に傷ついてしまうことを避けようと、心ならずも身を引くことや、人から裏切られることもある。むろん裏切ることだって。そんな時にも粋な女でいたくて、去って行く男に向って、
  ♪ 十九はたちの娘じゃないわ 気にしなくても かまわない

 その一節を聴いたとき、あゝ三十年もファンでいたのはこれかなと、客席で想った
 おそらくは中島みゆきさんを聴きに行っても、高橋真梨子さんを聴きに行っても、似た感動があるのかもしれない。けれど、もう俺は行かないな、という気もしている。

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