一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

日陰街道

 

 人と人とを出逢わせる、結びつけるというのは、人間的力量の最たるものかと思う。

 今東光津軽藩士の家柄だったことから、作家志望の太宰治青年の訪問を受けた。津軽つながりだ。文学を離れて仏道修行専一の時期だった東光は、自分には面倒看きれずと判断し、佐藤春夫への紹介の労をとった。で、太宰は佐藤春夫門下となった。
 後年、田中英光の訪問を受けた。太宰治に紹介した。巡って、太宰歿後一年後に、田中は太宰墓前にて自決することになった。小説であれば、作り過ぎだろうと云われそうな因果である。

 中学の後輩にあたる稲垣足穂の、才能は高く評価しているが、面識はないと東光は云う。機会があれば会ってみたいとも。稲垣のほうは、東光にだけは会いたくないと云う。中学生時分に殴られたからだ。東光にはまったく憶えがない。
 「そりゃ無理もないや、東光先生。殴ったほうは忘れても、殴られたほうは忘れないもの」
 東光から噺を聴いた野坂昭如は、即座に裁定したという。
 「下級生を整列させてぶん殴ったなかに、稲垣がいたのかなぁ」
 というのが、東光僧正の弁。
 足穂ファンの若者読者との Q&A で、稲垣足穂についての意見を求められての脱線譚だ。肝心の回答はかようだ。
 「優れた才能が評価されるのは、どうせ本人が死んだ後だ。オメエが心配することはねえ」

 『極道辻説法』正続二巻に収録された人物論は痛快だ。小島政二郎吉川英治の嘘もしくは無学を短い言葉で小気味よく突いてあるし、三島由紀夫江藤淳の人間味不足を容赦なく指摘してある。いたづらに偶像破壊の痛快さが追求されてあるわけではない。すべてが本人と直接面談したか関りをもったかしたさいの、印象もしくは手応えを下敷きにした人間洞察である。私見独断であっても嘘がない。したがって嫌味がない。
 同じく「破滅型」と称ばれても、太宰治のは自意識による自滅型であり、坂口安吾のは逃げ場のない命懸けの正真正銘「破滅型」であるとの指摘などは、なまじの作家研究よりもはるかに納得がゆく。

 「オレのような不良」と繰返しながらも、今東光の毒舌はおおらかだ。おそらくは出自による、つまり育ちの好さからくる、伸びやかな感性が人間性の巨きさを支えている。
 文壇で喧嘩が強かったのは、僧正以外ではだれかとの質問に、葛西善蔵の例を挙げている。たしかに葛西はひどい酒乱で喧嘩沙汰が絶えず、早稲田派の仲間たち広津和郎谷崎精二宇野浩二らを悩ませた。夫人にも再三手を挙げた(今日云う DV だ)。だが同じく津軽出身といっても、東光の実家は藩士の家柄であり、葛西は百姓階級である。東光は産れついてより道の中央を歩き慣れ、葛西は道の端を歩く癖がついているという。眼が合っただけでも、風格において勝負にならぬと、東光は朗らかに笑う。
 今日の世俗常識にてらしてこの言を嘲ることは容易だし、憎むのも勝手だ。しかしよくよく考えてみるべきことが、ここにはある。

 私の父方も母方も、新潟の百姓家だ。いくらか裕福な自作農ではあったけれども。
 百姓の家系と称ばれることが、私は嫌いではない。間違っても「農業に従事するかたがた」なんぞと頓馬な称ばれかたをしたくない。百つまり多数の、姓(かばね)つまり職能を保持する者という、美しい日本語と思っている。
 伯父たちは、米や野菜作りだけでなく、護岸工事や階段造り、ちょいとした大工仕事や屋根葺き、樹の伐り出しから製材まで、なんでもできた。納屋ていどなら土台から屋根まで一人で建てたし、リヤカーでも自転車でも自分で組立てた。まさに百の職能を保持していた。半農半勤め人となった従兄弟たちは、だいぶ腕前がさがったけれども。
 百姓根性の誇りと称べそうなものは、都会育ちの私にもほんのいくぶんかは継承されてある。ということは、いつの間にか身に付いた美意識と云おうか、わきまえの感覚と云おうか、つまりは道の中央を歩かない精神も受継がれてある。

 惜しくも喧嘩好きの気性に産れなかったが、もし喧嘩好きだったら、私は今東光よりも葛西善蔵に似ていたのかもしれない。毒舌奔放ななりふりを貫きながらも、人を惹きつけ、人と人とを結びつける今東光の人柄には、しょせん私なんぞに真似のできようはずもない、所属階級における先祖代々の年月の差が介在しているのかもしれない。
 けっこう真面目に生きてきたつもりだ。不十分だったろうが努力もした。自分なりには考え続けてきた。それでも陽当りがよろしかった来しかたとは申しがたい。朗らかな気分で、おおらかに生きてきたとも申しがたい。後悔はいささかもないけれども、そうだったのかと納得がゆく気持はある。