一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

浜と丘



 引続き『木枯し紋次郎』。

 ――(芥川隆行声)木更津からさらに南下する房州浜道からは、天気の好い日には海を越えて遠くに富士が望めた。江戸時代なかごろ以降、一帯は天領もしくは旗本領に区分されたため、領主の警察権力の眼が届かず、村落の多くは無警察状態となっていた。いきおい流れ者や無頼の徒の吹溜りとなる村落もあった。

 知恵者たる村の長老は、器量好しの孫娘を伴って、街道筋の宿場へと出かける。腕の立つ男を買いにだ。村の寺に巣食う無頼漢たちを、追出してもらおうとの算段だ。黒澤明七人の侍』のパターンである。腕達者などやすやすと見つかるはずもなく、一度は性悪に引っかかってひどい目に遭わされるところまで同じだ。危ういところを紋次郎に助けられ、今度はその紋次郎を見込んで尽力を乞う。
 「せっかくでござんすが、あっしには関わりのねえこってござんす」
 紋次郎は金では動かない。二年前のこと、飢えと疲労とであわや行き倒れという紋次郎を手当てしてくれ、金を恵んでくれた女があった。上州から房州へと流れてゆく飯盛女と名乗った。
 長老と孫娘は、嘘と本当をこき混ぜて、紋次郎の気を惹く。寺に巣食う無頼連中の一人は女で、たしか同じ名だったと。もしその人であれば、紋次郎はなんとしても、礼を云い、恵んでもらった金を返さねばならない。

 ――(同上)大塚村の山百姓の一部は、海岸線へ降りて、漁撈の民となった。村は浜大塚と称ばれた。山に残った村は丘大塚と称ばれた。今では浜大塚が羽振りを利かせるに至っている。

 もっとも力弱く、情けなき存在と見えた農民たちが、もっともずる賢い。ドスを佩いたもの同士を闘わせることによって、自分たちが生き残ってゆく。紋次郎も無頼の流れ者たちも、つまりは利用されたのだ。丘大塚の百姓衆は、だれにも金を払わず、接待女は浜大塚から調達して村の危機を乗り切った。

ヘシオドス(700 b.c.頃)

 作品が伝わる叙事詩人のうち、ヘシオドスはホメロスに次いで二番目に古い詩人とされる。代表作『仕事と日』は、神より授けられた人生の価値(善)はなによりも労働であり、労働こそが人間にとって最高の悦びである道理を、高らかに歌いあげているとされる。古典学者たちが云うのだから、そうに違いあるまい。哲学史的・神学史的に考えても、そこが研究の端緒ということなのだろう。
 ところが文学的想像を巡らせれば、もう少し面白いことになる。

 長篇詩はたしかに、全篇を挙げて労働のかけがえのなさを謳ってある。薄っぺらく申せば、働かざる者食うべからず、といった詩にも見えよう。
 だが働くことの大切さを理念として、倫理的に主張してあるわけではない。これまた薄っぺらく申せば、農事暦のようでもある。アッティカ小アジアの農民たちが、小麦なりブドウなりオリーブなりを、いつごろどう作付けし、いかなる世話をし、いつごろどう収穫すべきかが、具体的に歌われてある。
 ではだれがだれに向けて発した言葉として歌われてあるか。賢兄愚弟よろしく、一篇は真面目で働き者の兄が、浮ついて夢見がちな弟を説諭する建てつけとなっている。

 内陸の耕地で農業をいとなむ農民の一部が、海浜地域に出てきた。船を操る交易や、もたらされた到来珍品の商取引によって、農業とは比べものにならぬ利益を短期間で一気に挙げる方途を見出した。板子一枚下は地獄という海の危険は伴ったろうし、商取引失敗による破産といった危険もあったろうが、一攫千金の夢は巨きく膨らんだ。意欲的な若者が、野望を抱ける時代となったのである。
 弟は熱に浮れたように海浜地域へと出て行きたがる。兄はこの耕地を大切にして、地道に働けと諭す。それこそが神から人間に授けられたまっとうな生きかたというものだと説諭する。

 技術革新とそれによる情報の拡大があったから、そんな時代となった。船が変ったのだろう。丸木舟かイカダに毛の生えた程度の古い船では、沿岸伝いに、もしくは手の届くほど近い島じまの間でしか航行できなかったはずだ。ところが中央にキール(竜骨)を通し、左右に肋骨のような枝を張って舷側を形成した、いわゆる紡錘形の船がもたらされることで、高波を突っきれるようになった。中海へも押出せるようになり、遠方までも一気に足を伸ばせるようになった。
 そんな船は、ギリシア人には造れようはずもなかった。もたらしたのはフェニキア人だ。現在のレバノンに棲んだ人たちである。その地は今でこそ砂漠地帯だが、当時は天に向って直立するレバノン杉が林立していた。長くまっすぐな建材が採れたのである。いっぽうギリシアの地では、薄くかぶった表土を掘ってみれば、すぐに花崗岩か大理石の層にぶつかってしまう。丈夫で長い建材など、思いも寄らぬことだった。
 加えてフェニキア沿岸は独特な巻貝の生息地で、貝の内臓だろうか汚物だろうか、内から紫染料が採れた。楊枝の先でつつき出さねばならぬほどの微量ではあったが、貝は尽きることなく生息し、しかもこの海にしかいないのだ。そして紫色は諸外国でも、高貴にして得がたい色と珍重されていた。
 フェニキア人は中海へと大胆に漕ぎ出せる船に、珍品の紫染料を積込んだ。かつて東からラクダを駆ってやって来たベドウィンの各部族が、いずれも地中海へ到達するに及んでそれ以上の西進を諦めたなかで、ひとりフェニキア人だけが勇躍ラクダを船に乗換えて、地中海貿易の覇者たらむと海へ乗出したのだった。

 エジプト世界とギリシア世界とを結ぶ三角貿易による収益は目覚ましく、エーゲ海からギリシア本土をかすめ、シシリーから南仏、スペインからアフリカ北岸と、フェニキア船は反時計回りに地中海を周航した。ヘシオドスの生きた時代には、すでにフェニキア人による植民国家カルタゴはアフリカ北岸に建国されていた。ローマとのポエニ戦争によりその栄華が滅ぶまでには、まだ五百年ほどあるけれども。
 小アジア沿岸へも、エーゲ海の島じまへも、アッティカ沿岸へも、フェニキア船は現れたろう。卸された交易品を島じまや各ポリスへと分配商売する地元の船も現れたことだろう。海は野心的若者たちにとって、果てしない夢を叶えてくれそうな沃野だったにちがいない。

 その夢は危うい。台地にしっかり足を着けた地道が一番だ、現に神がみもさよう仰せだと、保守派の立場から歌って聴かせたのが、ヘシオドス『仕事と日』だった。
 木枯し紋次郎は、恩を受けた女と再会したい一心で、心ならずも流れ者掃討に手を貸してしまう破目に陥ったが、じつはたんに農民から利用されて無頼漢と闘ったわけではない。そもそも大塚村がいかなる状況に直面していたために、かかる事態となり果てたかとまで考え巡らせてみれば、丘大塚と浜大塚との対立構造こそが、紋次郎が巻込まれてしまった状況の核心である。
 技術革新と新情報とは、共同体にかならず亀裂を生じさせる。