一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

初素麺



 この夏、最初の素麺である。

 珍しいものや凝ったものは、原則として口にしないから、麺類といえば徳用うどんに徳用そば、それに即席袋麺の醤油ラーメンの三種を順繰りに食べている。もうなん年もパスタ類を茹でていない。最後がいつだったかの記憶もない。
 穀物びつ、といってもビッグエーで購入した樹脂製の蓋付き箱に過ぎない。やや深めの蜜柑箱サイズをふた箱買って、米びつとその他の穀物びつにして、積重ねてある。持ち手部分はネズミにかじられている。中味にまで被害が及んだことは、まだない。
 そばとうどんの在庫を確かめようかと、その穀物びつを漁っていたら、底から素麺がひと袋出てきた。一把百グラムの束が三把組の、手付かず未開封の袋だ。おそらくは昨秋深まったころに、今年最後の素麺になろうかなんぞと酔狂心を起して買ったまま、忘れてしまったのだろう。さっぱり記憶にない。
 出てきちまったからには、今夏最初の素麺茹でとならざるをえなかろう。

 「つゆの素」類は便利だが、どうしても飽きが来るし、保存すると味が落ちる。
 水と酒をおよそ三対一。顆粒「出汁の素」と削り節との合せ出汁にして、砂糖を差す。味醂を使わぬからだ。ひと煮立ちさせてから醤油を差す。汁そばの場合より三割かた濃いめだったかしらんと、昨年の記憶を思い出そうとする。まあ、今季最初だからなと、妥協的気分となる。すり胡麻とおろし生姜とで、味にもっともらしさを加えた。
 茹であがった麺を、氷水に泳がせるようなことはしない。もとよりつゆの味には自信がないのだ。これ以上水で薄めてなるものか。ざる素麺である。

 「ラジオ深夜便」では五木寛之さんがインタビューに応えている。零時台だ。
 お元気の元は好奇心だとおっしゃる。今日はどんな人に逢えるか、どんなことを眼にできるか。ご起床時の期待感が暮しの愉しみだとおっしゃる。
 回数においても年月においても、驚異的なお化け連載としてギネスブックに記録される『流されゆく日々』は、現在11,890回くらいだろうか。年内に一万二千回に届くのだろう。
 わが日記がおかげさまで一千百日を超えましたなんぞと、読者さまに口上など綴っている自分が、虫けら以下に思えてくる。


 素麺とインスタント珈琲タイムが了れば、夜鍋作業開始だ。
 大北君のご恵贈に与るじゃが芋は、私の使い勝手を考えてくださり、小型と中型の芋の詰合せだ。なかの小芋だけを選り分けてみた。ピンポン球かせいぜいクワイていどのサイズだ。水に浸けてから皮をむき、人参も皮むきしてカット、これも大北君ご恵贈の玉ねぎの赤ん坊頭一個を皮むきしてからスライスした。
 じつは、前まえから一度やってみたいことがあった。小型じゃが芋をノーカットで使って、いわゆる芋がゴロンゴロンしているカレーというもんを、作ってみたかったのだ。チャンス到来である。
 肉は使わない。今夜は竹輪をふんだんに使って、竹輪カレーとする。

 中華鍋を焼いておいて、まず人参を、そしてじゃが芋をそれぞれ強火で油通しし、表面を固めてから油切りに揚げておく。かなり大量のスライス玉ねぎは、弱火でじっくり。いわゆるシンナリ半量となって薄いきつね色となるまで。
 水から煮込む。竹輪はもともと生食用だから、下拵えなしに小口切りのまま投入する。
 細火でコトコトだから、煮立つのに十分間、煮込むのにもう十分間。マーガリンを投入する。小型とはいえ丸ごとのじゃが芋が心配で、爪楊枝を刺してみて、ひと安心。ようやくカレールーを割り入れる。最低二十分は煮込んで、あとは煮詰り具合と鍋底での焦げつき具合との相談だ。

 「ラジオ深夜便」では、吉幾三さんのお弟子とおっしゃる新進歌手が、「わが師匠」を語っている。午前四時を回ったらしい。