一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

空間のしこり



 リンゴだミカンだ、カキたイチゴだと、お好みはそれぞれにあろうけれども、レモンに対してだけはちょいと格別な印象を抱く人が、文学好きには多い。梶井基次郎檸檬』の影響である。

 肺疾による微熱にのべつ苛立つ主人公が、京都の街をほっつき歩く。ここが京都ではないどこかの街だとの、錯覚に耽りたがる。「ここではないどこか願望」は、チェーホフ由来の、いわば近代文学基本主題のひとつだ。
 ご多分に洩れず、彼はひどい貧乏だ。かつては丸善でのウィンドウショッピングが愉しみのひとつだった。洒落た香水壜やオーデコロン、煙管に煙草、小刀に石鹸などを観て廻り、せめてもの買物として最高級の鉛筆を一本だけ買って帰ることが気晴らしだった。今では、書棚も客も店員たちも「借金取の亡霊」のように見えてしかたがない。店に足を踏み入れることすら苦痛だ。
 この時代から、丸善は書店でありながら高級雑貨店でもあったと見える。

 二条通りに近い寺町の、うす暗い片側町にぽつんと灯をともした青果店がお気に入りで、彼はレモンを一個買う。単純明快ともいえる黄色。微熱の去らぬ身に心地好いひんやり感。鼻の奥を突く独特の香り。言葉を尽して描写され、称賛されている。
 「つまりはこの重さなんだな」と、つかの間の上機嫌となった。今なら、丸善に入店しても、へっちゃらだ。

 だが店内では、またぞろ憂鬱になってしまった。本を眺めても、画集類を棚から次つぎ引っぱり出して開いて観ても、たちまちげんなりしてしまう。かつてはあれほど大好きだったアングルの画集でさえ、堪えがたく感じてすぐに置いてしまった。
 ここはアングルでなければならないところだ。ドラクロアでもルノアールでも、セザンヌでもゴッホでもいけない。神ならぬ身に達成できようはずもない、完璧なる均衡を夢想し、挑み続けたアングルの画風が、かつて主人公の興味を惹いていたのだ。
 アングルの画にさんざん眺め入ってから、われに還ったようにあたりを視廻したときの「あの變にそぐはない氣持を、私は以前には好んで味つてゐたものであつた」が、今は変ってしまった。
 アングルが仕掛けた夢から一瞬にして醒めて、現実の猥雑さを眼にしたところで、それに対抗する気力・精神力がかつての彼にはあった。今は喪われている。

 チ~ン! ある思いつきが彼の頭に浮んだ。書棚に戻す気力も起らず、台にうず高く積まれたままの画集の山のてっぺんに、さっき買ったレモンをそっと置いてみてはどうだろうか。やってみた。
 開かれたままの画集の山のガチャガチャ感はおろか、店内の空気までが紡錘形の果実に吸込まれてゆくようだ。レモンは「カーンと冴えかへってゐ」るように見える。
 チ~ン! さらなる思いつきが浮んだ。このままにして、なに食わぬ顔で店を出てしまおうか。くすぐったいような、愉快な想像だ。「出て行かうかなあ、さうだ出て行かう」と、彼は実行に移す。十分後には、あの黄金色の時限爆弾が炸裂して、丸善は木端微塵になることだろうと空想しながら、彼は京極通りを下っていった。

 レモン爆弾は、梶井基次郎の言葉による発明品だ。凄まじい破壊力を発揮した。しかしその凄まじさを云う人のほとんどが、破壊力を下支えする作者の入念な手配りに言及しないのは、不思議なほどだ。一果のレモンが登場するに先駆けて、彼の不吉な憂鬱の正体を読者に暗示しようと、肺疾や貧乏といった常套的設定ばかりでなく、土塀やらカンナの花やら、花火やら色ガラスやらについての、いくつもの小発明を作者はくり出している。それら下拵えあってのレモン爆弾である。


 土谷 武『挑発しあうかたちⅡ』。日本大学藝術学部本部キャンパスの入口を飾るモニュメントとして、守衛所の前に設置されてある。

 塔だろうか、それとも崖の一部分だろうか。粗削りの白石柱のてっぺんから、長い長い板が、天に向って差し伸べられてあった。すなわち場面設定だ。
 上空から自然石が落下してきた。板は持前の弾力をもって受止めようとし、反発して弾き返そうとしたことだろう。が、加速度を得た自然石の重量は途方もなく巨きく、こらえ切れずに板はバキリと折れたのだったろう。自然石の落下力はなおも凄まじく、地に落ちたさいには接してい部分の板をさらに破壊したのだったろう。勃発・経過・展開・結末、すなわち物語だ。
 今、結末の情景が、鑑賞者の眼前に示されてある。しかし作者が発明し表現したのは、結末のみではないし、物語の経過ですらない。作品の頂上部分、折れた板が左右に分れた隙間部分である。そこだけ空間に異様な緊張がみなぎっている。
 眼の前の空間とは、しょせん窒素なんパーセントに酸素なんパーセント、それに炭酸ガスや水蒸気や若干の埃やゴミやが混じった気体で、そこいら一帯たいした相違もないのだろう。が、人間の感性にとっては、そことこことの空間の緊張度には雲泥の相違がある。空間造形とは、他よりは著しく密度の濃い緊張空間を創り出すことにほかなるまい。
 しかも最高密度は隙間にあって、物質(石材と板材)はその隙間を創り出すために完全奉仕する材料に過ぎないという逆説性が、この作品の含蓄であり暗示である。

 私の眼には、このモニュメントは文芸創作のお手本のように見える。
 「カーンと冴えかへつてゐた」一瞬の空気を感じ逃しては、レモン爆弾の破壊力も半減するほかはない。我われ読者に向けても、梶井基次郎は面倒な時限爆弾を残してくれたものである。