一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

桜の樹の下には



 「櫻の樹の下には屍體が埋まつてゐる!」
 出逢いがしらに読者の横っつらを張りとばすような一行で、梶井基次郎『櫻の樹の下には』は始まる。わずか六枚ていどの掌篇だ。主人公(語り手)が「お前」という人物に説明する、もしくは諭し聴かせるといった、語り口調による作品だ。

 人はいろいろに云う。一輪二輪の咲き初めがけな気にして可憐だ。満開へと一目散に急ぐ五分咲きの勢いが好きだ。豪奢な偉容を誇る八分咲きこそ観応えがある。いやいや、後から迫り来る幼葉に急かされるかのように、風なくとも散り降る姿こそ美しく、哀れの極みでもあると。
 では登り坂がこれより降り坂に変るというあたかも放物線の頂点のごとき、満開の一瞬で時間を停止させたとしたら、人はその様態をなんと形容するのだろうか。私ごとき月並な眼の持主であれば、まさに見事というほかない、なんぞと暢気に済ませていられるけれども。
 主人公はかねがね不安を覚え、怖れてきた。ある日ついに納得した。地中に死体が埋っていると。

 ―― 屍體はみな腐爛して蛆が湧き、堪らなく臭い。それでゐて水晶のやうな液をたらたらとたらしてゐる。櫻の根は貪婪な蛸のやうに、それを抱きかかへ、いそぎんちゃくの食絲のやうな毛根を聚めて、その液體を吸つてゐる。
 かような幻想を得て、爛漫と咲き匂う桜花による圧迫・不安・怖れから、かろうじて逃れたのだ。主人公は心の平衡を回復することができた。

 ところで、主人公が取り憑かれた不安・怖れの淵源はいかなるものだったか。「一種神秘な雰圍気」と云い「不思議な、生き生きとした、美しさ」と云っている。高速回転する独楽(コマ)が「完全な靜止に澄むやうに」とも云っていることから察するに、一見静止しているかに見える形象の内に、万物流転の相が抱えこまれてある状態を想い描いているらしい。
 つねに動いてやまぬはずのものが、極点において一瞬見せる静止に似た状態こそが、運動の最大値だと云っている。主人公はそこに、生命力の厳粛な理を想い観ているようだ。「灼熱した生殖の幻覚させる後光のやうなもの」とも云い換えている。

 主人公の身を焼いている焦燥をひと言で申してしまえば、わが生命にはもはや後がない、というに尽きよう。私の齢ともなれば日常頻繁に訪れる感懐に過ぎぬが、二十七歳ほどの作者が描いた、ほぼ同齢だろう主人公と考えれば、居ても立ってもいられぬ想いはもっともだ。
 極点を一歩過ぎればどんな宿命が待っているか。作者に抜かりはない。昆虫の挿話を用意してある。谷を降り水辺に立つと、しぶきから水蒸気でも立つかのように舞いあがり、たちまち中空を霧のように埋め尽すスバカゲロウの群を目撃する。しばらく後に同じ場所を通りかかると、流れから置き去りにされた岩の窪みの水たまりが、どれも石油でも流したかのように七色に輝いている。水面を隙間なく満たしたウスバカゲロウの死骸の堆積である。
 昆虫による、アッという間の結婚から絶命へ至る儀式を、主人公は他人事とは思えない。

 眼にやさしい青葉若葉では、花ばなや小鳥たちでは、主人公の焦燥を慰めることはできない。「俺の心は悪鬼のやうに憂鬱に渇いてゐる」「俺には惨劇が必要なんだ」と繰返す。透明になった粘液体の死体が地中に埋っているからこその爛漫桜花だと幻想することで、つまり惨劇を発明することで、主人公は心の平衡を回復できた気になる。一篇の末尾はこうだ。
 ―― 今こそ俺は、あの櫻の樹の下で酒宴をひらいてゐる村人たちと同じ権利で、花見の酒が呑めさうな氣がする。
 告げられた「お前」がどう応えたかは、書いてない。