一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

一生懸命に

澤村貞子(1908 - 1996)

 気丈夫な女将や底意地の悪い姑を演ると、演技じゃねえだろうというくらいにハマった。映画だろうがテレビドラマだろうが、この人が脇役に一枚加わると、作品の格が一段あがった。

 「おや、たいそう情ない取的さんだねえ。おなかが空いてるんだねえ。四股名はなんとお云いだい?」
 「へい、駒形、茂兵衛と申しやす」
 ご存じ長谷川伸の『一本刀土俵入』だ。取手宿の街道筋に建つ茶屋旅籠「我孫子屋」の二階障子から身を乗出したお蔦は、財布に櫛や笄(こうがい)までをシゴキにまとめて、通りかかった若き日の茂兵衛に放り与える。
 「どんな辛抱してでも、きっと横綱になって、おっ母さんのお墓の前で、土俵入を見せておやり。それ、これを持ってお行きな。近くに相撲が来た時には、きっと観にゆくからね」
 兵隊慰問巡業の薄っぺらな装置の裏で、澤村が三味線片手に小唄のひと節を唄うたびに、また窓から身を乗出して茂兵衛に語りかけるたびに、彼女が乗った脚立はユサユサ揺れ、若い座員が両脇から梯子を支えていた。

 府立第一高女(現都立白鷗高校)から女学校教員を志して日本女子大へ進んだが、在学中に新築地劇団に加入。治安維持法に引っかかり、二回逮捕された。
 戦局深まるころは兄の劇団の一員として、慰問巡業の明け暮れだった。心配の種は、夜ごと空襲警報が鳴って、東京のどこかで火の手があがるようになり、中心地から遠い世田谷も、安心とは思えなくなってきたことだ。両親を疎開させねばならぬが、父は田舎など絶対に嫌だと云い張る。説得する。京都の兄の近くならと、父親は承知した。
 いったんは両親を京都の兄のもとへ預けた。長くは無理だ。身を寄せた親戚や居候で、兄宅はごった返していたのだ。付近に家を探す。「京都は焼けぬ」説という都市伝説がまことしやかにはびこっていたため、京都の不動産は暴騰していた。ようやく小体な二階家を探し当て、手を打った。金はないから、東京の家を売らねばならない。空襲の不安におののく東京では、京都とは逆に、不動産は捨て値となっていた。
 劇団を一時休ませてもらって、眼の回るほどの雑務を、義妹(弟の妻)と二人で片づけていった。弟は出征中で、ニューギニアで戦死したとの噂まで入ってきていた。
 おり悪しく、背中に瘍(よう:腫れもの)ができ、寝ても起きても激しく痛んだ。視る者のないときには、ソファに身を投げて手足をじたばたさせ、「うえーん、うえーん、痛いよ~う」と叫んで、舌を長く出して痛みを遣り過した。

 父母を京都に移して、劇団に戻る。慰問の楽屋には芋や菓子のおやつが出た。ある処にはあるもんだ。劇団員一同、恥も外聞もなくがっついた。食いものの恨みは怖ろしいという言葉の真意を、生涯忘れぬこととなった。カーテンコールでは座長の音頭で「大日本帝国万歳、大東亜戦争万歳」と、座員観客一体となって大声を張りあげた。こればかりは、どうしても唱和できなかった。長く深ぶかとお辞儀しつづけることで、ごまかした。
 玉音放送のラジオは、よく聴き取れなかった。敗戦だ、終戦だと、近所から聞えてきた。義妹と手を取り合い、眼を視交した。なにをどうすべきか、咄嗟には思いつけなかった。二人して掃除を始めた。電燈に被せてあった黒布を外した。一心に拭き、掃き、窓ガラスを磨いた。とにかく躰を動かさずにはいられなかったのだ。
 兄が飛込んできた。家中の陶磁やガラス調度を庭石で叩き割り、さて青酸カリを呑もうとして、その前に妹たちの様子を視ようとやって来たのだったが、掃除に夢中の二人を眼にして、拍子抜けした。

 澤村貞子はそのとき思った。この齢からじゃ無理かもしれないけど、それでも、やり直してみたい。本当の恋も、結婚もしてみたい。一生懸命に、生きてみたい。
 それまでだって命からがらの、無我夢中の日々だった。女性に対して失礼な言葉かもしれぬが、獅子奮迅の活躍だった。にもかかわらず、もし生き直せるのであれば、今度こそ一生懸命に生きてみたいと、澤村貞子は考えた。
 平明な言葉にぎっしり詰込まれた複雑さと重さとを、八十年経った今では、想像しづらくなっている。
 名脇役女優はまた、『貝のうた』『私の浅草』『私の台所』以下、役者人生と料理とを綴った名随筆家でもあった。

 手拭いで姉さん被りした(かどうか知らないが)、たすき掛け(したかどうか知らないが)姿の女優と義妹の二人が、一生懸命、一生懸命と、呪文を唱えるかのように呟きながら家を掃除していたその日も、出征中の弟加東大介は、南の島のジャングル内の舞台で、布切れの雪を降らせていた。