一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

論理

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芥川賞直木賞150回全記録』(文春ムック)より、無断で切取らせていただきました。


 口火(ツカミ)は野坂昭如、〆(トリ)が五木寛之という講演会だったわけだが、主催は『早稲田文学』で、司会というか冒頭挨拶というか、編集長だった立原正秋さんが、まず登壇された。
 ――くだらない野次を浴びせるようなヤカラは、私が降りていって、ブン殴るから。とはいえ最近の学生は、我々の時代に較べて、ずいぶん大人しくなってしまった。
 はてな、これもそうなのかな? と、舞台袖で私は思った。

 世は学園紛争期。政治集会やシンポジウムにあって学生聴衆は、同意・不同意を端的に表明すべく、「異議なーし」「ナンセーンス」と大声を発することが、日常化していた。その伝を文学講演会でも実行する学生が出ては迷惑。強気の編集長は、冒頭まず釘を一本刺しておこうとなさったのだったろう。解らぬではない。
 が、続けて、近年の学生は大人しいとおっしゃった。たんに行動や性質に留まらず、腑甲斐ない・頼りない・張合いがないとのニュアンスを籠めておられた。
 むろん、しっかりした聴衆であれば子供じみた野次など飛ばさないとの意味ではあろうと理解はしたものの、その口吻の連なりに、かすかな飛躍だか撞着だかがあるように感じた。

 立原さんは当時、大流行作家だった。電車内の中吊り広告に眼を走らせると、『オール讀物』『小説現代』『小説新潮』いずれのポスターにも、大きく名前が印刷されていた。
 『薪能』『剣ヶ埼』が芥川賞候補作となったのち、『白い罌粟(けし)』で直木賞を受賞された。ご本人は「純文学と大衆文学の両刀使い」と自称されたが、冷静に読返せば、初めから物語作家・娯楽小説作家である。

 愛読者がどう評価なさるのか知らないが、初期作品のうちでは『剣ヶ埼』が記憶に残る。大日本帝国軍人だった日韓混血の兄弟があって、敗戦後兄は韓国へと姿を消した。家族にも恋人・知人にも真意が知れない。その兄がある時、アメリカでの米韓軍事会議の帰途、日本に立寄り、家族と再会するといった筋立てである。
 武装放棄宣言して平和的文化国家に生れ変ろうとする日本で、日本人として生きてゆこうとする弟や周囲。独立建国したとはいえまだ幾多の困難を抱える韓国に奉仕すべく、エリート軍人の道を選んだ兄。兄弟対照、という構図だ。ハーフハーフの血を、どう受止めるかの問題でもある。
 後年、立原さんみずから脚色されて、劇団俳優小劇場が舞台化したさいには、兄を演じた小沢昭一さんの演技が、控えめに抑え込んだ言動の背後に、巨大な内面の闇を暗示することに成功したと、たいそう高く評価されたものだった。

 さて舞台袖で私が感じた、かすかな飛躍の問題だけれど。
 受験予備校生だったころ、同人誌仲間の骨折りで、後藤明生さんをお訪ねし、お住いだった松原団地の駅近くの喫茶店で、お噺を伺ったことがあった。さしたる予備知識もなく、前後の見境もろくにつかぬヒヨッ子たちを相手に、気さくに応じてくださった。今想えば、まことに非礼千万。よくぞあゝまでと、お礼の言葉もない。

 談たまたま同人誌に及んだ。かつて後藤さんが、立原正秋さん編集の同人誌『犀』の一員でいらっしゃったと承知していた私は、
 「立原正秋というかたは、どういう作家でしょうか?」
 これも無礼な質問である。今この場面では、ひと言でも一語でも多く、後藤さんのお噺を伺うべきなのである。が、後藤さんはこれにも、お気を悪くされたでもなく、お応えくださった。
 ――書ける人です。お宅へ伺ったときね、出窓の下の引戸をㇲッと開けるんだな。原稿用紙の束を二つ折りにしたのが、ごちゃごちゃ詰っているんだ。書き損じや途中で放棄したのもあったろうが、ほとんどはボツ原稿だろうね。どこかに持込んで掲載されなかったぶんだ。いゝか後藤、視てろよ、今にこれが全部、金に変るからな、って云うんだな。この先輩、強気だなぁと思ったもんだが、実際そうなったね。

 中吊り広告に観るように、同月の各小説雑誌に同時掲載されていたのは、これらだったのだ。また後藤さんは、こんなふうにも、おっしゃった。
 ――人物の背景環境や心理を追詰め追詰めしていった究極をね、立原は非論理で繋ぐんだ。神秘的な飛躍が訪れる。それが美学だとの主張なんだが、そこがどうもね。やはり論理で繋ぐべきじゃないだろうか。たしかに泉鏡花久保田万太郎もいるがね。でも夏目漱石谷崎潤一郎芥川龍之介横光利一、みんな論理で繋ぐための工夫をしているんだと思うんだな。

 後年の後藤明生さんの小説作風。また近代古典読解や小説理論にまつわるエッセイ類でご指摘なされたところと、見事に符合する。が、それは飽くまでも、後年の噺。
 講演会の舞台袖で私は、そうか、立原先生って、飛躍するんだな、などと考えていたのだった。
 娯楽小説として物語を拵えるということと、芸術小説として人間像を彫り上げるということとの違いを、心底納得するには、まだそれから三十年ほどかかったのだけれど。