一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

足りる

 『溯行』一三六号が届いた。長野市で発行されている、評論・随筆同人雑誌の最新号だ。
 今回は創刊五十年の記念号。昔のいきさつを知る者に、回想とこれからの五十年を考えさせようとの企画で、編集長からのお声がかりだった。あっぱれ五十年続いた雑誌なれど、創刊のころを知る同人がたの数も減ってきた近年、まだ貴重な逸話を拾い残してはいまいかとの意図から、同人外の私にまでのご指名だろう。

 創刊編集長だった立岡章平さんは、長野に根付いた個性強烈な文芸評論家だったが、夭折された。『欲望と情熱の発見』『古代雑記』『「つきがげ」論』三冊の評論集が残っている。斎藤茂吉への愛着ただならず、また日本古代史への造詣も深く、現代小説の読解においても、さかしらの新理論や借物技法など断固退けて、情念・肉感・手触りの味読から独自視点の論を展開された。
 夫人和子さんも、文学・音楽ほか文化現象を独特な視点で採りあげる書き手で、二代目編集長として長きにわたり『溯行』を主宰された。文業は『漱石を読む』『文学に遊ぶ』『歌を聴いた』三冊の著作集にまとめられている。ご健在だが、ご高齢だ。
 現在はお嬢さまの祐子さんが、三代目編集長を務めていらっしゃる。

 ある時期私も、書かせていただいた。年月はとんと記憶になかったが、祐子編集長の編集後記によると、最後の寄稿から四十年ぶりになるそうだ。常軌を逸したご無沙汰である。
 当時は同人雑誌を起してはつぶしの日々だったが、その途切れ目の時期で、発表舞台がなかったのだ。助かった。そのうちのたしか二篇は、後年の我が文集に採った記憶がある。
 だがこのたび回想したのは、そんなことではない。それよりさらに十年前、『溯行』創刊前後の噺だ。立岡章平さんからご指導いただき、影響も受けた、その時期のことだ。たゞたゞ情熱に衝き動かされて、文学に血まなこの先輩がたの姿から、俺もこの道を往くのだと、誰にも感づかれぬように独り覚悟を決めたころのことだ。

 文学なんぞ、しょせん無償の行為である。同人雑誌は持出し手弁当を原則とする。形式上は頒価(税法上から定価と云わずに)を明示するが、販売など、はなから念頭にない。心ある友に差上げ、敬愛するかたがたのお眼にかけるものだ。
 だが星霜五十年。今も同人雑誌を創ろうと云いだす若者は少なくないが、脇で聴いていると、なになに、文芸フリマに出店して、ネット通販にも出して、何部刷って何部売れば元が回収可能、なんて相談している。正気かっ。

 ずしりと持ち重りするレターパックに、『溯行』最新号が十部入っていた。執筆者への配給だという。添書きに、それ以上必要な場合には「恐縮ながら」実費負担を願うとある。一冊々々が、血の出る一冊だ。
 前回執筆(四十年前らしい)のころは、配給では足りずに、追加注文したものだった。今回、謹呈先を指折り数えてみたが、これで足りる。

よけいに

 今日六月六日は、ノルマンディー上陸作戦決行の日だそうだ。
 三十年近くも前になろうか。英国BBC制作のテレビ映画「ノルマンディーの黄昏」を記憶している。たしか、作戦から五十周年記念企画とか云った気がする。

 いかにも優秀そうな小男と、精神障害を抱えたような、言葉さえ不確かな大男の二人組が主人公。小男は中小企業の社長で、大男は社員。なんであんな男を雇っているのだと、端からは云われるが、社長はこの大男を生涯面倒看ると譲らない。
 じつは二人はノルマンディー戦の戦友で、部隊全滅の危機を、大男が身を挺して救った。その時の大怪我がもとで、大男は障碍者になったのだった。

 前半は、当時世話になった娼婦の現在を訪ね、見舞うというような、通俗的な噺で、ジャンヌ・モローの汚れ役が凄まじくはあるが、ま、どうってことないテレビ映画だ。
 後半、ノルマンディーの共同墓地に眠る戦友たちの墓参りにゆくことになる。途中で知合ったアメリカからの旅行者だという、魅力的な中年婦人も一緒だ。
 なんとローレン・バコールですぜ。ついでながら障碍者の大男はアレック・ギネス

 二時間ミステリーの末尾で、自殺しようとする真犯人を主人公が説得するような、海に面した高い崖の上に、共同墓地が広がっている。
 墓参りを済ませたところで、婦人は、それでは私はここで、と切出す。ここまでご一緒したのですから、あなたのお参りに我われも…。えゝ、でも…。ご遠慮なさらず、どうかご一緒させてください。
 一同歩き出したが、しばらくして気づく。この方角は、もしや…。
 「私の、兄ですの」
 行くて一帯は、ドイツ軍兵士たちの墓所だ。戦後アメリカに帰化した婦人は、ドイツ人だったのだ。
 社長は急に心配になる。大男は炸裂弾の音や爆風や、死の恐怖が、今も悪夢として蘇り、暴力的な発作を起すことがある。老いたりとはいえかつては無類の勇者。精神の平衡を失ったときの彼の暴れようを止めるのは、理解者の社長をもってしても、むずかしい。旧ドイツ兵の墓になど…。もし発作でも起したら…。
 どうしたものかと内心逡巡するうち、婦人の兄の墓前に着いてしまう。大男の表情・物腰を注意深く窺う。と、大男が、ぼそりとつぶやく。
 「ドイツ軍は強かった。陣地を抜くのに、ほんとうに骨を折った。彼らは、よく戦った…」
 社長は、胸を撫でおろす。我に返り、一同整列して、墓地に敬礼する。
 カメラがパンすると、沈もうとする夕陽に、ノルマンディーの海がぎらぎら輝いている。

 そんなエンディングだった。DVDもないみたいで、その後、観ていない。
 そのころは、日本の戦後文学に関する論争や検証が一段落したような風向きで、同年代の批評家たちも、要領よくさっさと次へ行ってしまう形勢を見せていた。お前ら、違うだろう。まだ片づいちゃいねえだろうと、ひとり力み返っていた時分だったので、よけいに記憶に残ったのかもしれない。

チョン!

――口上――

 かねてより耳にいたしてはおりました、ブログというもの、その実いかなるものやら、つぶさには承知いたしませぬままに、なにごとも経験をとおして体得してゆくに如くは無しとばかりに、エイヤッと立上げてしまいましてより、本日をもちまして三十五日目と、あいなりましてございます。
 おかげさまをもちまして、昨日、登録読者さま、なんと百名さまとあいなり、また、四日ほど前のこと、頂戴いたしましたスターマーク、じつに千個を超えました由にございます。思いもよらぬご厚情、お礼をかねまして、ひと言ご挨拶申しあげます。

 文中たびたび申しましたるごとく、アナログ時代に社会人をいたしましてより、進化を止めました、時流からはるかに遅れし独居老人にございます。当ブログも色なく香なく花もなく、殺風景このうえなき姿となっておりますことは、誰よりも本人承知のことなれば、ご寛恕のほど、お願い申しあげます。

 また当ブログに、もしコンセプトありとせば、ひと言「老残」でございます。老耄の醜態をあえて晒す、ということにございます。
 先般、最後の職を辞しましてより、この想い、ことのほか強くなりました。いきおい読者さまにはお聴き苦しき、それどころかご不快をもよおされる物言いが、口をつくことも、あるいはなくもなきかと存じおり、これもあらかじめお許しを願いあげます。

 立上げ当初、ひと月は助走、試し運転と、漠然と考えておりましたが、案に相違いたしまして今しばらくの助走が続く模様にございます。しかしながら、おいおいは新機軸も試みたき所存にございますれば、どちらもさまにおかれましては今後とも、なにとぞよろしくご厚誼のほど、願いあげたてまつります。(チョン!)

足を

 コインランドリーの洗濯機。水洗いなら三百円、湯洗いなら四百円。つねにはないことだが、四百円投じてみた。気紛れの贅沢である。その代り、入口脇の自販機で百円珈琲を買わぬことにして、スーパーで仕入れた六十円の缶珈琲を、ポケットに捻じ込んで家を出て来ている。
 湯洗いのご利益は、あるのだろうか。まだ着てみないから、判らない。

 洗濯機が回っているあいだに買物。これもつねのこと。冷凍餃子と梅干はサミットストアで買うから、後回し。今日はビッグエーのぶんだけにする。茹で小豆缶、納豆小分け三パック組、六ピーチーズ、濃縮カルピス、いずれも常備品の補充だから迷う必要もない。ふと眼についたのはカボチャである。
 季節を問わず、カボチャを炊く。甘めに味付けして、だし汁が飛ぶまで炊きあげる。惣菜というより、スウィーツ感覚。食後に麦茶を飲みながら、頬張ったりする。

 もっとも手軽にして素朴な炊きかた。これは天龍寺管長であられた関牧翁さんから教わった。むろんテレビ番組を通じてである。
 掃除も炊事も禅の重要な修行たることは、広く知られている。そこへもってきて牧翁管長のスマートな体躯と洒脱なお人柄。ときおり料理番組にゲスト出演なさったりしたものだった。当り鉢で胡麻を当って、加減を看るべく薬指でちょいペロリ。テイストデリシアスなんて、おっしゃってた。まことに様子が好かった。
 で、ある回の放送で、カボチャの水加減と炊きかたのコツを伝授された。これだったら俺にもできそうだと思って、やってみたら、思いのほか美味で、以来若干の思いつきを加えはしたものの、基本はその流儀で通してきた。

 「俺のカボチャは、天龍寺仕込みだからね」と、かつては人を煙にまくこともできた。四十代のころは、またアイツのビッグマウスがと、嗤っていただけた。ところが近年、そうもゆかぬ場合が出てきた。
 「へぇ~、そういう修行もなさったので」などと真面目に返されて、今度はこちらが面食らう。嘘、嘘、嘘ですよと、あとの説明が面倒臭いことになってしまったりする。
 齢老いることの功徳と云おうか、面倒と云おうか。

 さてさて今日のカボチャの噺。ここ一番という献立を企てるときは、何十年来の付合いになる商店街の八百屋で国内畑のものを買う。だが自分一人で食べる普段カボチャは、少しでも安くてカットの大きいものを選ぶ。で、スーパーのカボチャが、ふと眼についたわけだ。なぜなら先週まではニュージーランド産だったのが、今日はメキシコ産。季節の変り目だ。
 八百屋の店頭は季節によって品揃えも値段も変るが、量販店は仕入れパイプをシフトさせることで安定供給を確保しようとする。あとは選ぶこちらの責任である。
 まず種子を視る。種子が充実して密度高ければ、畑での成熟および収穫時期が良好だった証拠だ。次にヘタの切り口の大きさ。太い蔓から切り離されたもののほうが、概してよろしい。そしてなにより大切なのは持ち重り。同一品種、同一量、同一値段でも、いくつか持ってみれば違いが判る。むろんカチッとした手応えで密度を感じさせるものが、美味いのである。
 今後のことは判らないが、今日だけの感想。今年のメキシコ産は好い。ニュージーランド産より上出来だ。あとは炊いて、食べてみなければ判らないが。

 我に返れば、まだ洗濯機が回っている。心づもりでは、買物を了えて、洗濯機も止って、乾燥機を回すあいだ、缶珈琲を飲みながら読返した『ガリバー旅行記』について心憶えしておきたかったのだが、カボチャの蔓に足を捕られた。

たぶん

 怏々として楽しまぬ夜、と申せば大袈裟だが、気勢が挙らぬときに、ふと思い出して、ユーチューブで宇佐美里香さんの動画を観返すことがある。二〇一二年、フランスでの世界空手道選手権「個人・形」決勝の演武。世界で一七五〇万回も再生された、有名な動画だ。
 日本人の眼には、そこは息を詰めて観て欲しい演武中でも、ヨーロッパの観客からは我慢しきれぬというような拍手が、たびたび湧く。そして長くやまぬスタンディングオベーション
 この時、宇佐美さんには、間違いなく何かが降りていた。そうとしか思えぬ集中力で、何度観ても、身が引締まる。

 今日は落込んでいたわけではなくて、三人での「団体・形」における日本チームを観返したついでに、宇佐美さんをも観たのだった。
「団体」の日本チームも見事で、世界大会でもつねに優勝候補だ。一秒の何十分の一でも間がずれれば、一致も調和も崩れる。危険ですらある。完璧な呼吸と、研ぎ澄まされた美意識が求められる。


 思うに、日本人選手にとって、持味を発揮しやすい種目かもしれない。スピードスケートの女子パシュートの例もある。一人ひとりの持ちタイムを総合すれば、オランダがはるかに上だが、完璧なチームワークを求められるパシュートにおいてだけは、この数年間、日本チーム以外から世界新記録は出ていない。

 さて宇佐美里香さんだが、世界女王獲得を花道に引退され、大学院への進学を経て指導者の道へと進まれた。ご結婚され、ママさんにもなられた。だが二〇一二・パリの動画は不滅である。


 南米のとある国の空手少女は、私と同じ動画を観たことから、宇佐美さんを憧れの人と仰ぐようになった。彼女は空手愛を日本のテレビ・クルーに猛アピール。首尾よく「ニッポンへ行きたい人応援団」とか云うテレビ番組の被写体として、来日を果した。凄まじい過密スケジュールだったことだろうが、空手の聖地沖縄へも赴き、忘れられぬ修業となったようだ。
 とあるサプライズ・プレゼントの一日。都内のビル。ここは、なんですか? 促されてドアを開けると、そこは道場で、宇佐美里香さんが立っている。身が固まるとは、こういうことだろう。少女は一歩も動けるはずがないではないか。観ようによっては、テレビというものの、悪趣味な一面であり、エンターテインメントというものの必要悪でもある。
 泣き出すしかない少女に宇佐美さんから歩み寄った。
 「ようこそ日本へ。私まで涙出てきちゃう。さ、一緒に稽古しましょう」
 全日本を六連覇し、アジアをも世界をも制した武道家から、花ほころぶような乙女の笑顔がこぼれ出た。本当に、あの動画の女性だろうか。
 その後の、外国の少女へのアドヴァイスは、いちいち頷けるものだった。なるほど老人もそう歩けばいいんだなと、今でも散歩中に思い出しては、姿勢をただすことがある。

 再生数一七五〇万回のうち、たぶん四十回ほどは、私である。

似ている

 傘をさして散歩するのは、べつだん苦にならない。靴が濡れるのも、シャツが湿っぽくなるのも、平気だ。けれどもやはり、雨もよいの散歩は、もうひとつ気分が盛りあがらない。
 へーぇ、毎年あそこに咲くのはハナミズキじゃなくて、ヤマボウシだったんだ、などという私一個にとっては重大な発見があっても、立停る時間が短くなってしまう。公園で子どもたちがどんな遊びに興じているか眺めたくても、人影がない。
 それよりなにより、沿道のアパート・マンションや二階家のかたがたが、ベランダに干しものを出されないことが大きい。

 干しものから、お住まいのかたの性別・年齢層・衣類のご趣味だけでなく、ご職業や家計状況、ご家族構成まで、想像つくことがある。独身者か、子どものあるご家族か、お年寄り・ご病人はあるかで、干しものは異なる。

 作家志望の若者たちの話し相手を仕事にしていたころ、我がゼミでは一年間、観察だけを教えた。
 この一週間で眼にした街路樹をすべて書き出せ。知らない樹木は人に訊け。ハンディーな植物図鑑を携帯せよ。この時期に花を着けている花木・庭木はなにか。
 八百屋かスーパー野菜売場で値段に注目しろ。量のわりに、何回使えるかのわりに、高い野菜と安い野菜の、それぞれベストスリーを次回までに書いて来い。次は魚屋かスーパーの鮮魚売場で、同じことをやって来い。季節が移ったら、またやれ。
 レジに行列する間には、前の人の買物かごから、家族構成を想像しろ。日々買いかまとめ買いかの別も、ヒントになるぞ。
 立ち話している主婦たちを見かけたら、手前からゆっくり歩け。
 入門編は山ほどあった。

 散歩しろ、干しものを見逃すなは、やゝ中級編だ。下着泥棒や空巣狙いと疑われないためには、さりげなく素早く観察する習慣がついてからでないと、誤解を招く。
 恥かしいだって? みっともないだって? 小説を書こうなんて料簡自体が、そもそも不審者行動なのだ。解ってるのかっ。
 乗物のなかでは、スマホ・携帯を閉じろ。スマホに気を取られて癖をダダ漏れにしている人たちを観察しろ。来週までに、人の癖を最低二十、拾って来い。

 あの~、この教室では、小説の書きかたは、教えてくれないんですか? 毎年一度は出てくる質問だ。
 だから、教えてるじゃねえかっ。
 しかし若者は鈍感じゃない。やがて血まなこで観察するようになってゆく。
 私は二年生担当。三年生四年生時は、小説家だの学者だのという教員たちの各ゼミへと散ってゆく。
 二年後の卒業式。優秀卒業作品五篇が表彰される。四年生時の全ゼミから選抜されてくるわけだが、受賞した顔ぶれの来歴を洗い出してもらえば、毎年ほゞ三人は、二年生時に八百屋の店先でメモを取った学生だ。やりましたっ。にんまり顔で挨拶に来る。
 なぁ、大丈夫だったろう?

 文芸創作は、下着泥棒でも空巣狙いでもない。が、似てはいる。

耳が

 蘆溝橋事件から日中戦争へと泥沼化してゆく半年くらい前のこと、内務省警保局の切れ者官僚が、一部作家らと気脈を通じて、昭和文芸院の設立を企てた。国を挙げて文芸復興を支援するとの名目で。むろん反国家的言説への目配りが主目的であり、言論統制への一段階である。
 直後の新聞・雑誌で表明された諸家の反応が面白い。

 まず与謝野晶子の云い分。まじめな芸術家・学者の仕事と、勲章なんぞという未開の象徴とはそぐわない。鏡花、荷風、白鳥、白秋、里見弴、佐藤春夫…礼装を着込んで胸に勲章をぶらさげて悦ぶ顔など想像もできない。
 晶子ひと言――ウッソクセ~、マジ、ニアワネエシ。

 正宗白鳥の云い分。年金・勲章、ありがたくおめでたいことだらけ。だというのに何だろう、この気の重さは。だいいち、優秀作品をお国が選ぶって、どういうこと? ナチスの文化統制、国民が知らないとでも? 天保の改革でね、水野越前が西鶴を発禁にしたり、源氏を上演禁止にしたり、そりゃ政治権力でできましょうさ。でもそんなことで西鶴や源氏が傑作だということは、動かないのですよ。
 白鳥ひと言――保護なんかしなくていいから、邪魔しないでくれないかな。

 徳田秋聲の云い分――文芸院を名乗るからには、大学や学士院と同様、政治から独立したものでなければならんでしょう。お役人の肝入りで設立するってことは、そのお役人が我々よりも芸術鑑賞・判定において、優れていることが前提ですよね。
 秋聲ひと言――明治このかた、乞食同然に放置されてきた我々に、今さら支援だ顕彰だと云われてもねえ。

 文芸院設立構想は撤退して、小さい懇話会となった。
 私ごときによる乱暴な「ひと言」などではなく、信用できる研究業績や証言を、きちんとお読みになりたいかたは、和田利夫『昭和文芸院瑣末記』および広津和郎『年月のあしおと』。

 感想はふたつ。昔の文士は、世間知らずを標榜していながら、誰もかれも、しっかりしていたんだなあ。あとひとつ、耳が痛い。