一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

たぶん

 怏々として楽しまぬ夜、と申せば大袈裟だが、気勢が挙らぬときに、ふと思い出して、ユーチューブで宇佐美里香さんの動画を観返すことがある。二〇一二年、フランスでの世界空手道選手権「個人・形」決勝の演武。世界で一七五〇万回も再生された、有名な動画だ。
 日本人の眼には、そこは息を詰めて観て欲しい演武中でも、ヨーロッパの観客からは我慢しきれぬというような拍手が、たびたび湧く。そして長くやまぬスタンディングオベーション
 この時、宇佐美さんには、間違いなく何かが降りていた。そうとしか思えぬ集中力で、何度観ても、身が引締まる。

 今日は落込んでいたわけではなくて、三人での「団体・形」における日本チームを観返したついでに、宇佐美さんをも観たのだった。
「団体」の日本チームも見事で、世界大会でもつねに優勝候補だ。一秒の何十分の一でも間がずれれば、一致も調和も崩れる。危険ですらある。完璧な呼吸と、研ぎ澄まされた美意識が求められる。


 思うに、日本人選手にとって、持味を発揮しやすい種目かもしれない。スピードスケートの女子パシュートの例もある。一人ひとりの持ちタイムを総合すれば、オランダがはるかに上だが、完璧なチームワークを求められるパシュートにおいてだけは、この数年間、日本チーム以外から世界新記録は出ていない。

 さて宇佐美里香さんだが、世界女王獲得を花道に引退され、大学院への進学を経て指導者の道へと進まれた。ご結婚され、ママさんにもなられた。だが二〇一二・パリの動画は不滅である。


 南米のとある国の空手少女は、私と同じ動画を観たことから、宇佐美さんを憧れの人と仰ぐようになった。彼女は空手愛を日本のテレビ・クルーに猛アピール。首尾よく「ニッポンへ行きたい人応援団」とか云うテレビ番組の被写体として、来日を果した。凄まじい過密スケジュールだったことだろうが、空手の聖地沖縄へも赴き、忘れられぬ修業となったようだ。
 とあるサプライズ・プレゼントの一日。都内のビル。ここは、なんですか? 促されてドアを開けると、そこは道場で、宇佐美里香さんが立っている。身が固まるとは、こういうことだろう。少女は一歩も動けるはずがないではないか。観ようによっては、テレビというものの、悪趣味な一面であり、エンターテインメントというものの必要悪でもある。
 泣き出すしかない少女に宇佐美さんから歩み寄った。
 「ようこそ日本へ。私まで涙出てきちゃう。さ、一緒に稽古しましょう」
 全日本を六連覇し、アジアをも世界をも制した武道家から、花ほころぶような乙女の笑顔がこぼれ出た。本当に、あの動画の女性だろうか。
 その後の、外国の少女へのアドヴァイスは、いちいち頷けるものだった。なるほど老人もそう歩けばいいんだなと、今でも散歩中に思い出しては、姿勢をただすことがある。

 再生数一七五〇万回のうち、たぶん四十回ほどは、私である。