一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

ひでえ

  一年前に、腸捻転の外科手術を受けた。長過ぎて絡みやすい形状をしている大腸の一部を、摘出したのである。
 それまでは内科で、内視鏡治療をしていただいていた。端的に申せば、肛門から挿入した火掻き棒でかき回して、捻れた腸をもとに戻していたわけだ。何日も苦しんだ果てだというのに、あっと云う間の治療だった。

 ドクターからは、この病気は再発しやすいのでねえ、気を付けてください、と云い渡されていた。ご存じのかたがおいでなら、お教えいただきたい。大腸が捻れぬよう気を付けて過すとは、どのように暮すことなのだろうか。
 案の定、再発した。排便・排ガスがふいに止って、苦しんだ挙句に火掻き棒。処置後の様子見をかねての、三四泊の短期入院なれど、十三か月のうちに四回。季節ごとのペースだ。
 さすがに四回目ともなると、ドクターも次の手を講じねばと思われたのだろう。外科のドクターを交えてのご相談、との運びとなった。

 いゝですよ、切りましょっ。外科ドクターは話が早い。で、院内引越し。手術に向けて呼吸法の練習やら、腹内環境の整備やらに入ったわけだが、この外科病棟というものがまた、入退院のベテラン揃い。重症がん患者の群れである。

 週に一度の教授回診。「白い巨塔」さながらの、ぞろぞろご一行様のご到来だ。八人部屋の七人には、教授もご丁寧な対応。かねてより顔見知りの患者もあるらしく、その後どう? お孫さんお見舞いに来る? なんて会話も聞えてくる。
 さて私の番。がんでもないのに、なんでここにいるの? と云わんばかりの軽い対応。軸捻転の慢性化で、壊死の危険がありまして、内科から…などと主治医が説明してくれているが、まるで言い訳しているように聞える。
 どんな場所にも、どんな分野にも、マイノリティーの肩身の狭さというものは、あるものだ。

 退院後一週間目の報告に、外科外来へ。病棟での主治医=執刀医とは、また別のドクターだ。
 「あゝ、写真も数値も視たよ。あんたさぁ、なんでもっと早く、外科へ来なかったのよお」
 そうおっしゃられましても……。ソルジェニツィンの『がん病棟』を、生きてる間にもう一度読み返してやると、そのとき思った。
 「ときに先生、内科へもご報告に伺うべきでしょうか?」
 「行くのは勝手だけど、内科ですることは、もうないよ。薬ったって、あんた血圧の薬、常用してるんでしょう。そんなに薬ばかり服んでどうするつもりぃ」

 ロシア小説ってのはどうしてあゝも、必要人物が遅くに出てくるんだろう。『がん病棟』でも、主人公のコストグロートフが出てくるの、遅過ぎんだろう。『罪と罰』のポルフィーリイもそうだ。『悪霊』のスタヴローギンなんざ、いくらなんでも、ひでえじゃねえか。

ところ変れば

 前回は何年前か、うっかりすると十何年前か、憶えがないほど久しぶりに、スーパーで米を買った。
 両親の郷里は米どころで、さすがに伯父伯母はすでに他界しているものの、従兄弟たちが、農家のお爺だったりお婆だったりする。中元・歳暮など無沙汰挨拶といえば、農産物詰合せが普通で、味噌漬けや餅なとが同封されてはいても、要するに米を贈ってくださる。
 拙宅の口はこの二十年で減る一方。ついにはひと口となった。到来米が底を突くことなど、年間を通じてありえなかったのである。
 ところが近年、様相に若干の変化が生じてきた。自然の代替りで、従兄弟の息子たち娘たちが、次つぎ当主となってきた。正直申して、顔もよく憶えていない。その嫁さん・婿さんともなると、まったく見知らぬに近い。

 ある時、こちらから申し出た。
 「けっして縁を切るってわけじゃねえけんどもさ、これからは気遣いねえようにしてくんなせえ。ご無沙汰はお互いだすけさ、今ふうに軽うく、付合ってゆこうさね」
 先方は人生まっさかりの中年男女たちだ。異存のあろうはずがない。
 という次第で、今なお米を贈ってくださる、私と同齢の老人が一人だけあるけれども、その程度であれば、私一個の消費量と釣合う。
 で、今から新米拝領までの数か月分の米を、スーパーにて贖う運びとなった。はたしてどんな米なのか、楽しみではある。

 これが信州を郷里とするご家庭であれば、リンゴや蕎麦が届くのであろうか。もしや朝鮮人参や蜂の子まで、届いたりするのであろうか。

 北海道の釧路あたりをぶらぶらしたことがある。阿寒湖にも足を延ばした。車からキタキツネや、うまくすれば鹿も観られますぜ、と聴いていたが、ほんとうに両方視た。根室本線に乗って、霧多布岬の先端を観にも行った。車窓からの景色は、人間の背丈より高い蕗の群生がどこまでも続く。根釧原野とはこれか。
 途中の厚岸駅では停車中に、駅弁売りのような姿で生ガキ売りが、ホームを歩いてきた。金属のヘラでグリッと殻を開けてくれたのを、乗客は窓から身を乗出してすすり込むのである。なるほど、これが地元の味というものか。
 よく知られる釧路の朝市で、シシャモを売っていた爺さんの噺が、忘れられない。
 「北方領土なんて云うてもさ、釧路の船はロスケの倍のでっけえエンジン積んでるからね、逃げきっちまわあ。捕まるのはたいてい、高知や静岡から来た船だね」

 釧路の名物は霧である。釧路空港の発着便は、急遽変更が珍しくない。出張に有給を繋げた旅も今日限り。月曜には出社しなければならないのに、霧だ。時刻表を視ると、帯広空港から、もう一便ある。タクシーへ。
 「三時間半しかないんだけど、帯広空港まで行けますか」
  森の中道をしばらく行くと、水辺の低地一帯に白っぽい小花が、霜降りのように敷詰められている。
 「スズランです。お客さん、摘んでゆきませんか。濡れハンケチで下を包めば大丈夫、東京までもちますよ。私も、娘に少し摘んでゆこう」
 シートベルトを外して、ドライバーはさっさと車を降りてしまう。なんて呑気な運転手だ、大丈夫なのだろうか。しかしお言葉に甘えて、しばし花摘みした。

 ふいの運動が効いたか、うとうとしかけた。
 「お客さん、もう十勝へ入りました」
 外を視て、驚いた。根釧原野とは、土の色がまったく異なる。肥沃ぅ~~。
 ゆるやかにマウンドをなす若緑。鹿もキタキツネもいるはずない。倍賞千恵子高倉健でも出てきそうだ。途中で、大きな矢印。直進帯広、右折池田町。あっ、十勝ワインの産地はここか。
 さすがプロ・ドライバー。きっちり離陸三十分前に、帯広空港に着いた。

 空港ロビーで、また驚いた。土産品売店である。豆六種詰合せ、フルーツ砂糖漬け詰合せ、十勝ワイン、唐黍ナニヤラ、じゃが芋ナニヤラ……。釧路空港で視た、氷下魚(こまい)の子の甘露煮、シシャモ(雄)お徳用、めふん瓶詰めなど、影も形もない。
 洗面所でハンケチを濡らしながら、思った。海産王国釧路と農産王国十勝帯広。その間わずか、車で三時間。旅の最後に、いゝものを見せてもらった。

レターパック

 古くからのよしみある雑誌が、創刊五十年だとのことで、その記念号にお祝い原稿を書いたところ、執筆者への配給として、十冊送ってくださった。自主活動として同人雑誌刊行に経験ある者であれば、一冊一冊がおろそかにはできぬものと解る。自分用の取置きぶんを別として、九冊は有効利用したいものだ。

 かつてともに活動した先輩お二人が、すぐに思い浮んだ。ご著書を頂戴したこともある。ともにご高齢だ。お元気とはいえ、外出の機会などはほとんどなくなったという。ご無沙汰のお詫びと、近況お見舞いと、過去の思い出のほんのひとかけらを話題にしていただく、云うなればお退屈しのぎとして、お届けしようと思ったわけだ。

 次に同年代の友人三人が決った。いずれも定年退職者だが、老け込むには早いと、なにかしらの活動を続けている連中だ。しかもこの雑誌の昔を、ある程度知っている。

 最後に若者二人。卒業して社会人になっても、ない暇を何とかやり繰りして、書き続けている者たちだ。筆の筋も、悪くはない。
 うちの師匠は二十数年前に書くのをやめたと、本気で思われても癪だから、機会さえあれば今でも書くと、見せておくのもいゝだろう。
 それよりなにより、中央文壇や文芸ジャーナリズムを目指すばかりが文学じゃない。地道にこつこつと、自分の歩みを進めている大人たちが、世にはたくさんいらっしゃって、そのほんの一例が、ほれこゝにと、見せておくのも有意義だろう。

 小冊子ゆえ、書籍小包を仕立てるにも及ぶまい。ダイソーでクラフト封筒を買ってきて、七個の定形外郵便を仕立て、郵便局へと赴いた。現今の料金体系を承知していないので、切手は貼らずに、料金は局で訊くという算段だ。
 二十代の仕舞いから三十ちょいにかけて、カタログ通販会社に勤めた時期がある。コピーライター兼カタログ編集者としてだったが、零細企業だったから、DM企画や広告出稿や商品仕入れや、パートご婦人がたのご機嫌とり結びまで、なんでもやった。郵便料金表など、速達・書留はもとより、書籍や農産種苗、離島や海外、別納や大量局出しや重量別と、すみずみまで頭に入っていたものだ。すべて忘れた。記憶していたとしても、四十年前の情報など、今ではまったく役に立たない。

 「小冊子に挨拶状一枚付きですが、普通の定形外で出せますか」
 我ながら、なんと幼稚な質問であることか。もちろん出せるに決ってる。みすぼらしい老人のたどたどしい質問に、アラフォーの女性局員は丁寧に対応してくださった。
 「あと、レターパックの青をください」
 彼女は引出しから二三枚のレターパックを出したものの、ちょっとお待ちください、と云い置いて、奥の倉庫らしき部屋へ入って行ってしまった。あれっ、あるじゃないかと、かすかな違和感を覚えはしたものの、人を待たせやがってというような不愉快は感じなかった。
 奥からひと束の青レターパックを持ち返った彼女は、指先でしっかり七枚数え、お待ちどうさまでしたと、差出してくれた。

 事態はこうだ。七件の冊子発送は済んだ。あとはご著書をご恵送くださった別のかたへの返礼に、こちらからも本を一冊。帰宅して準備するために、書籍用レターパックを一枚。これが私の心づもり。
 この老人は、七人の相手にまずは小手調べの小冊子を送り、その後により部厚いものを送る必要があるのだろう。これが彼女の解釈というか推量である。
 いえ、レターパックは一枚あればいいのでと、六枚を返すべきだろうか。それが合理的というものだろう。だが彼女は、引出しにまだ数枚残っていたのに、わざわざ奥まで補充に行ってくれたのだ。それに私も、レターパック青とは申したものの、一枚と、念押ししなかった気がする。さて、これをどう判断したものか。死んだおふくろだったら、こんな時どうするだろうか。一秒間に、いろんなことを考えた。

 結局、腐るものでもなし、七枚のレターパック青を、いただいてきた。ここ当分は、ご著書を頂戴しても、即日お返しを投函できる。

ざまあ

 いささか旧聞に属するけれど、日曜昼のテレビ番組「噂の東京マガジン」が、TBSからBS-TBSへ「お引越し」したそうだ。
 テレビレスライフの暮しゆえ、近年は視聴していない。が、なにせ放送開始から三十年以上にもなる長寿番組だ。かつては観ていた。「噂の現場」には興味惹かれる話題が多かったし、「やって! TRY」には毎回腹を抱えて笑わされた。

 森本毅郎さんには、NHKアナウンサー時代から、注目していた。室町澄子さんとのコンビによる「女性手帳」には、心に残るインタビューがいくつもあった。
 毅郎さんもさることながら、亡くなられたお兄さまの、森本哲郎さんのご著書からも、おおいに蒙を啓かれた。その地中海紀行や、フェニキアカルタゴの貿易路についての考察などは、今も古びてはいないと思っている。

 さて、BSへの「お引越し」番組だが、広報を観てみると、久びさの私でも知る顔ぶれ。つまり不動のメンバーがずらりと並んでいる。完成した型を築いてしまった番組の宿命とでも云おうか、出演する顔ぶれの高齢化が顕著だ。
 それでも型のご利益、番組はきっと面白いに違いない。
 森本さんとのコンビは、なんとも知的な笑顔の持ち主・小島奈津子さんだが、私ですら知っているくらいだから、彼女もお長い。
 かつてその席には、多くの美女たちが腰かけてきた。黒谷友香さんも。

 私は黒谷友香さんのもっとも古いファンの一人と自認している。この番組での森本さんのお相手や、刑事ドラマでの溌剌とした女性巡査などで、徐々に頭角を現していった黒谷さんだが、それより前に、およそ取沙汰されることもあるまいが、「HEN(変)」というドラマの脇役があった。いかにも漫画作品を原作とする学園ものといった、前向きで、正直申せば若者に媚びたこしらえだった。

 主役の佐藤藍子さんをめぐって、数名の男子が絡む運びだが、一人の男子が漫画を描かねばならぬ破目となり、急遽漫画研究会の女キャプテンから特訓を受けることとなる。黒縁の大きな眼鏡をかけて、ひょろっとした長身で、猫背。引っ込み思案で、声も小さく、いつも俯いて、相手の顔を視てしゃべることなどない。ただ漫画の技量だけは抜群だ。それが黒谷さんだった。
 小柄だがエネルギッシュで、超陽性の男子のこと。ゲッ、こんな暗いオタクから教わんなきゃいけねえのかよと、始めはしぶしぶ。ところが教わるうちに、彼女の控えめで豊かな魅力を発見しだして、気づけば彼女を好きになっている。
 そんなはずあるもんかと、自分に云い聞かせ、また男子仲間からは、選りにも選ってあんなオタクを、シンジランネ~と冷かされる。
 が、彼はついにある日、校舎の廊下に黒谷さんを追詰め、壁を背負わせて、交際を迫る。黒谷さんとて、彼を憎く思ってはいない。けれど男子と口をきいた経験もろくにない彼女のこととて、対応に窮する。男子はここぞと、押しに押しまくる。
 そこで、自分より背丈の低い男子を前に黒谷さん、俯いた姿勢のまま、
 「でも、恋とか、そういうのって、わたし、時間かかると思うよ」
 この台詞に痺れた。顔の半分を隠している前髪と横髪を上げ、黒縁の眼鏡を外し、演技で前かがみにしている背をすっくと伸ばした姿を想像すると、この少女はとんでもない女優さんになるのでは……。わが直覚に手応えがあった。

 エンドロールには配役名がなく、役者名だけが出た。えーと、先頭が佐藤藍子だろ、これが彼と彼、三人の女性がいて、次だとすれば、黒、谷、友香、これが彼女かしらん。
 そう当りをつけてはみたが、確証はなかった。当時は調べるすべも持たぬままに、お名前だけは記憶した。
 それからどれほど経ったろう。「噂の東京マガジン」で画面中央に黒谷さんが映し出されたとき、どういうわけか判らぬが、ざまあ見やがれと思った。

 今はもう、溌剌とした女性巡査などではない。玄人はだしの乗馬を楽しまれて、ナイスミディの理想的イメージと評される、あの黒谷友香さんである。

ご都合

 SNSやユーチューブほか、私設媒体が増えることは、総体的に看れば、好いことと思っている。個人情報が抜かれ、機密が流出したなどという弊害も耳にするし、国際規模のハッカーの横行も取沙汰されるが、それらは機能の可能性に人間の知恵が追付けぬところに生じるジレンマであって、改善の余地はある。
 ただし、いかに改善したところで、抜け道の完全撲滅など望むべくもないもので、イタチごっこの様相を呈するは必定だ。
 幕府がいかに眼を光らせようが、抜け荷の品と交換に金銀は流失したし、いくたび贅沢禁止令を更新しても、オモテ太物ウラ呉服は姿を消さなかった。
 時代の動きは、人智の計らいなどをはるかに凌駕する。

 けれどもそれは大局の形勢であって、渦中に生きる一個人の信条においては、旧弊に立てこもって時流に棹差すも、また勝手だ。
 私設媒体隆盛のなかで、未訓練の話者や国語認識稚拙の字幕筆者が跋扈することも、避けられない。世に云う「ラ抜き言葉」なぞも、私設媒体にあっては、完全に市民権を得た恰好だ。

 この件に関して私は、旧弊立てこもり頑固論者だ。理由は簡単。耳に汚いからだ。そして「汚い」と感じない人が増えれば、話し言葉など、他愛もなく変化してゆく。
 ラ抜き容認の弁にしばしば顔を出すのが、「言葉は活きている」との言い草だ。おっしゃるとおり、言葉は活きている。が、それは本来別の意味であって、字面だけ都合よく援用しては、いけやせんぜ。

 一段活用の動詞未然形には「られる」が付いた。人に避けられたのであり、この服はまだ着られるのである。ところで五段活用の動詞では、未然形末尾がア段となるので、新聞が読まられ、記事が書かられるでは、ア段の連続が発音しづらく、耳にも汚い。ラが省略されて、読まれ書かれることになる。動詞が四段・二段に活用し、助動詞が「らる」「る」だった文語時代からの、慣用の自然だろう。

 繰返すがこんな慣用など、発音しづらく耳に汚い、という感性が失われれば、ひとたまりもなく踏み破られる。であるから、それでよろしいとおっしゃるのであれば、どうぞご自由に。
 でもこんな場合はどうですか。貧乏下宿のひと部屋。なげしのフックに、よれよれのレインコート。持主はまだ、このコートは〈着れる〉と思っている。冷蔵庫には、先週の宅配ピザの残り。彼はまだ、大丈夫〈食べれる〉と思っている。
 『青い鳥』や『森は生きている』じゃないけれど、深夜になって、物たちの生命が動きだす。レインコートは云う。「本音を云やぁ、おいらずっと前から、こいつに〈着られる〉のは大嫌いだったんだ」すかさずピザが歌いだす。「危ない危ない今のあたい、〈食べられ〉たりでもしたら、悪さするかもね~」

 容認論者の先生はおっしゃる。助動詞「れる」「られる」の意味は受身・可能・自発・尊敬など。可能用法ではラ抜きとなり、受身用法ではラが残る。誤解を避けようと無意識に使い分けている、庶民大衆の知恵なのだ、と。
 どうですかねぇ。ご都合主義の後付けじゃないかしらん。