一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

染井詣で

 

 芥川龍之介一家は染井の地に眠っている。染井霊園に眠る、というのは、正確ではない。東京都が管理する染井霊園に隣接する、日蓮宗慈眼寺の墓地に眠っている。
 墓所域内に、龍之介の墓石と芥川家の墓石とが並んである。俳優芥川比呂志と作曲家也寸志の兄弟も、ここに眠っている。
 十代の新劇少年だったころ、芥川比呂志の物真似をしてみたくて、彼の出演作品が掲載された演劇雑誌を買い求めたりした。彼が語りてを務める NHK 教育テレビの随筆的番組に観入ったりもした。しょせん気紛れ少年ごときに、とうてい真似のできる話術ではなかった。

  
 慈眼寺(じげんじ)は江戸時代初期に深川にて開山されたとのことだが、明治の末にたび重なる水害に見舞われ、当地へ移転してきたという。
 芥川家は横丁を入って、奥まった袋小路の手前にある。表通りへ出ようとすると、その角地が谷崎家である。奥深い、たいした面積のご墓所で、墓石がいくつも立っている。さすがは日本橋の大店のお家柄だ。係累も多いのだろう。
 文豪潤一郎がいずこに眠っているか、近寄って墓誌を克明に読めば判るのだろうが、近づけない。二重の鉄格子扉が堅く閉じられてある。愛読敬愛するあまりにイタズラしたり、記念品を持帰ったりする不届き者による被害にでも、遭ったものだろうか。芥川家から谷崎家までは、ほんの十メートルといったところか。

 「君のころの『新思潮』は、芥川君、僕のころとは変ってきていたねえ」
 「そりゃあ谷崎さん、西洋文学が紹介される速度が、目覚ましかったですもんねえ」
 「しかし京橋入船の君と、日本橋蛎殻町の僕とが、巡りめぐってこんな処で、ご近所になるとはねえ」
 「まったくです。大震災もありましたし、私が失敬したあとでは、戦災もひどかったそうじゃありませんか」
 「あれにはまったく、腹が減って困ったもんだった」

 谷崎家の前を西へ三十メートルも行くと、儒学者で画家の司馬江漢がいる。そのすぐ裏手には、儒学者の斎藤鶴磯がいる。

  
 慈眼寺を出て、染井霊園の桜道を歩く。岡倉天心は今でも、東洋美意識による世界平和を提唱し続けている。東へほんの一分歩いたあたりに、二葉亭四迷がいる。

 「天心先生、ちょいと寄らせていただきました。どうです、ご一緒に散歩でも」
 「ちょうど四迷さんからご教示いただきたいと、思っていたところさ。ロシア人ってのは、どういうもんですかねえ。あんなもんなんですかい?」
 「変っちゃいません。昔からああいったもんです。どうです、光太郎君にでも声を掛けて」
 岡倉家から西へ一分。横丁の奥まった処が、高村光雲、息子光太郎、嫁智恵子の墓所である。
 「ごめんください光雲先生、いっこう衰えぬ創作力で、敬服しております。光太郎君はご在宅でしょうか」
 「おやおやご両所お揃いで。あいにく用足しに出てますが、すぐに戻ります。なにね、ここんところ嫁の智恵子の具合が、ちょいとね」

 江戸時代、各藩江戸屋敷の庭手入れを任された庭師・植木職たちがこの界隈に集り住んだという。染井の、どのあたりだったのだろうか。なかにより美しく、より強い花を目指して、桜の品種改良に熱心な者があった。接ぎ木の工夫を重ねに重ねて、ついにヤマザクラを親とした新種を産み出し、歌枕の桜名所を取って「吉野桜」と命名した。人気を博し、全国に広まった。ソメイヨシノである。
 わが家のソメイヨシノは、つい先日役割を了えて滅んだ。しかし染井の空には、近代日本の美意識が層をなし渦を巻き、今も雲となっている。むろん私の感傷である。