一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

現金

 今現在、少々機嫌がいゝ。久しぶりに煮た肉じゃがの、出来が好かったからだ。

 学生時代同級だった大北君は、文学や芸術や政治運動やらに捩れてしまいがちだった仲間うちでは珍しく、すっきり社会人になってゆけた、都会型スマート人間だ。学生時代からの恋人と、周囲も羨む結婚をして、人生着々、云うなれば私とは真逆の人生を歩めた男である。
 唯一残念だったのは、健康を害して、少し早くリタイアせねばならなかったこと。しかし彼のことゆえ、なにかしら生甲斐を見つけられぬはずはあるまいと、心配には及ばなかったが、なんと家庭菜園に熱心になっていった。体調を窺いうかがい、運動量を加減しうる分野だったのかもしれない。それに日光浴と健康な肉体労働。
 季節々々に、ご丹精の成果を、送ってくださる。今年の気候と作柄の傾向、手入れの問題点と反省などの、ご報告を添えて。

 昨月は、蕪と玉ねぎと春菊をくださった。なにせ収穫間もない野菜類だ。段ボール箱を開けると、小分けに包んだ新聞紙が、汗をかいたように湿っている。まだ呼吸している野菜たちだ。
 ご婦人の拳ほどあろうかという大きな蕪を、菜つきで三株。老人一人の口には十分な量だ。菜を切離して入念に洗う。八百屋やスーパーの商品と違って、産地直送物の場合は、根洗いがことのほか重要だ。刻んで塩を振って、浅漬けの準備。蕪本体は、今回は鶏肉・竹輪・人参・生姜を合せて、煮物にした。
 世間ではブリ大根とおっしゃるが、私は作らない。ブリはブリで、粗であれ血合であれ、こんがり焼くなり、生姜や酢を使うなりして、ブリとして食いたいのだ。ブリの代りに鶏肉を使って、トリ大根であれば、納得する。今回はさらに、大根の代りに蕪というわけだ。

 玉ねぎも、普段私が買う「お徳用サービス品」とは段違いの大きさ。乾燥がまだだと、大北君から連絡が入っていたので、君たちはしばらくそこに、伏せっ! と云い聞かせ、ひげ根がもじゃもじゃ生えた尻を上にして、冷蔵庫の脇に陰干し。日用在庫を仕入れたばかりだったので、インターバルもちょうどいゝ。

 うわっ、春菊である。憧れは持ちながらも、普段自分ではついぞ買わぬ、私にとっては高級野菜。
 かなり前から一日二食生活だが、どうかするとその二食ともが米飯だと、少々重く感じることがある。そこで最近では、野菜類をなんでも入れて、竹輪かさつま揚げかウィンナソーセージなどを合せて、陽気に関係なく鍋にして、一杯やりながら、「ラジオ深夜便」など聴いて、一食としている。
 大北君は、春菊少々などとおっしゃるが、なんのなんの、いちどきに使用はもったいなく、三日分の鍋スターとして登場してもらった。満足であった。

 そんなことがあったのが、わずか三週間ほど前だったというのに、今度はじゃが芋が来た。これまたほんの少々との添書き付きだが、産地直送の特色とでもいうべきか、形も大きさもまちまち。つまり、幾種類もの食べかたを考えてみよとの、生産者からの挑戦であろう。
 で、まずは、前回はどれくらい前だったか、思い出せもしないほど久かたぶりに、肉じゃがを仕立てる気になったのである。おあつらえ向きに、玉ねぎも程よく乾燥しあがっている。
 久かたぶりなのは、肉じゃがを好かないからではない。牛肉や豚肉を買う習慣が、ほとんどないのだ。鶏肉もベーコンもウィンナソーセージも使う。が、牛豚肉は、とんと使わない。独居老人には、べつだん不可欠でもない食材だと思っている。

 調味料の量や比率や、煮かたの加減など、まったく忘れている。かといって、今さら調べるのも、面倒臭い。客人に振舞うわけでも、家族の食を支えるわけでもない。多めに作って、自分で何日か食べるだけのことだ。調べでもしたら、どうせ味醂だダシの加減だと、ごちゃごちゃ云うのだろう。そんなもん、拙宅にはねえよ。えゝいっ、こんなもんでどうだっ。
 まぐれと云うか、怪我の功名と云うか、私の口に合うものができた。で、ただ今、上機嫌なのである。ただし計量はすべてヤマ勘。同じものを、明日は作れない。
 作りかたについて、またスーパーでしげしげ眺めたカナダ産とアメリカ産と国産の豚肉について、あれこれ思うところあったけれども、今の今、必要な噺でもない。

 現金なもので、こうなってみると、誰か一杯やりに来やがらねえかな、などとも思う。
 

そりゃあ

 慶応義塾大学国文科に、池田弥三郎という名物教授がいらっしゃった。テレビからの招きにもしばしば応じた、「タレント教授」草分けのお一人だ。視るからにお洒落で、軽妙な話術を駆使されて、随筆の名篇も多い。
 銀座の老舗天ぷら屋の息子さんで、かの泰明小学校(アルマーニの制服を導入したとかで、近年話題にもなった)から市立一中(現都立九段高校)を経て慶應義塾という、生粋の都会っ子だ。

 あるテレビ番組で池田さん、こんなふうにおっしゃった。東京対地方という主題トークの中でである。
 ――東京には独自文化がないと、おっしゃる。はい、ございません。もとはあったんです。でも首都になっちゃいましたから。今は無理なんです。
 都というものは、文化を産み出したりはいたしません。磨いて、普及させ、保存するだけです。かつては京都がさようでした。観世親子も、出雲の阿国も、地方の土俗に発したわけですよね。それを京都へ持って来て、美意識の高い連中の間で洗練させて、成熟するわけですね。オリジナルは都からは出ません。
 ですから、東京には文化がないとおっしゃられましても、どうお応えしてよろしいやら。あなたがたがドヤドヤやって来られたからでしょう、としか……。

 別の機会に、こんなふうにも、おっしゃった。
 ――近代の芸術家はしばしばおっしゃいます。萬葉は偉大だ、新古今は芸術的洗練の極致だ。そこへゆくと、間にあって古今ってのは月並で平凡で、詰らぬと。ですがね、萬葉を時代順に下ってきて、六歌仙を読んで、さて古今となりましたときね、フウッと軽くなる。あたりが明るくなるんですね。これは、近代の読者がなかなか気付けぬことです。
 芭蕉にせよ、本居宣長にせよ、お弟子たちから、まず最初に何から勉強し始めたらよろしいかと訊ねられて、どこでも好きなところから始めなさい、それを自分で決められなかったら、とりあえず、古今から始めてみたら、と答えてますがね。伊達じゃないと思いますよ。

 その池田さん、慶應義塾では、折口信夫の愛弟子だった。中央公論社折口信夫全集』の中心的編纂者のお一人だ。
 これは画期的全集で、三十数巻の著作篇も国の宝だが、後に『全集ノート編』が二十巻近くも刊行された。ノート編とは、慶應義塾や他大学で折口講義を聴いた、学生たちによる講義録集である。
 長い長い歳月をかけて、多くのノートが渉猟・校訂されたことだろうが、圧倒的多数部分が池田弥三郎のノートだという。容易に想像できるが、「どうして池田のノートばかり。俺だってノートを保存してあるぞ」と申し出た先輩も、多かったことだろう。
 「はい、先輩、おっしゃるとおりです。できるだけ多くのノートを参照いたしたく。つきましては先輩のノートも、ぜひご提供ください。ちなみに、池田のノートはこれでございます」
 見せられてなお自分のノートを引込めなかった同門は、少なかったという。

 晩年には、こんなふうにもおっしゃった。
 ――巨大な師の側近弟子として最期までカバン持ちしてしまいますとね、師の業績の整理だけで、私の一生なんぞ終ってしまいます。自分のオリジナルなんか、な~んにもございません。
 近くに上手に腰掛けて、師のいいとこ取りして、栄養を吸収したら巣立ってゆく。それでなくちゃ一家を成すことなどできません。山本健吉先輩も、戸板康二君も、立派なものです。私は脱けられなかったから……。

 文芸批評家の山本健吉も、演劇評論家推理小説家の戸板康二も、そりゃあ素敵なかたがただ。けれど池田弥三郎教授も素敵だと、私は思うのである。

変電所

 俳句修業をしたことはない。ただ酒場で肴代りのお慰みに、心得おありの先輩に導かれながら、歌仙を巻いたことはある。連句である。
 以来、巷に紛れ込んでいる、俳句でも川柳でもない、ただの五七五を面白く感じるようになった。金網にのぼるべからず変電所。日暮れたらスピード落とせ鹿が出る。貼り紙にも標識にも、佳作は尽きない。

 あまりに俳句臭い俳句が、嫌いである。切れ字も、できる限り用いたくない。切れ字とは、「や」「けり」「かな」など、そこで云い切って、もしくは云い止めて、その先を「思い入れ」に託す遣り口である。たしかに俳句らしくなるのではあるけれども。
 むしろ平句の好さということを、考える。歌仙において、発句・脇・第三や、花の定座・月の定座や、揚句などは、一巻の骨組みとなる花形句だが、平句とはそれら以外の、前を受けて後へ繋いでゆく中間の句のこと。面白いに越したことはないが、花形句を邪魔してしまっては、元も子もない。いわば平民の句であり、わざとくすんだ句を詠むというような、ひねった腕前を発揮せねばなぬ場合すら出てくる。脇役の芸と云えよう。
 一行の独立した俳句作品として眺めれば、まだ散文の尻尾が残って詩的昇華度いかがか、完成度いまだしではないのか。そう見えかねぬところを、好しとする。
 コハダ酢の〆加減に似て、かすか手前が絶好だ。

 芭蕉翁も俳諧(=歌仙)から出発したのだったが、命を賭けるからには遊びばかりではいられないと、どんどん心境を深めてしまった。世に云う「蕉風」の確立だ。いくら世を捨てても出自はオサムライ。どうしても求道が目立つ。
 そこへゆくと蕪村は、文人絵師だったことも与っているのか、爺さんになっても色気満々、エロチックでさえある。かなり高度ではあるけれども。
 さらに一茶となると、上品・下品もへったくれもあるかっ。キレイ汚いも大きなお世話。アタクシ現にこう生きてますけど、なにか? てなものだ。じつによろしい。

 芭蕉翁が置いてくれた俳諧の土台は、今の私までをも支えてくれている、気が遠くなるほどの功績だが、その後の器量人たちが、さらにずいぶん豊かなものにしてくださった。それに輪をかけて、明治になってから、正岡子規という独特才能人が、俳諧を「俳句」という芸術的なるものに、仕立て直してしまった。
 素晴らしいことだとは、思うんだけれどもねえ。尊敬してるんだけれどもねえ。
 私一個としては、そんな芸術、する気はない。金網にのぼるべからず変電所、いゝじゃねえか。 

 デジタルカメラというものに、生れて初めて触っている。

 定年退職を機に、考えついた遊び・暇つぶしのひとつに、句を捨てるというものがある。放っておいても、日々どんどん忘れてゆくわけだが、どうせ捨てるのなら、屑籠に投げるよりも、ブログに捨ててみてはどうかと、思いついたわけだ。となると、携帯もスマホも持ったことない身には、せめてデジカメが必要となるらしい。

 カメラ類については、五年ほど前だったか、すべて下取り業者に出した。断捨離事始めのつもりだった。私が使っていたのは、カメラらしいカメラ一台と、当時ウマシカナニガシと称ばれたオートフォーカス二台の三機種のみ。だが死んだ父は、なにが愉しいのかニコンばかり五機種も六機種も所持していた。父歿後も、私は一度も使ったことがない。それらを交換レンズも含めて、みんな出した。残ったのは、その時うっかり出し忘れた双眼鏡一台きりである。

 今となっては自分でも不思議だが、以前は私にも、カメラを手にした時代があった。ご先代のころから懇意にしていただいていた、近所の「弥生スタジオ」さんにDPEをお願いしながら、撮影技術やフィルムについて、教えていただいたりもした。
 履歴書写真やパスポート写真は、ごちゃごちゃ荷物の多い二階の狭苦しいスタジオで、ご先代に撮っていただいた。だが時代の波というのか、二代目の若に代ったころから、なんとなく店に元気がなくなってゆき、やがて廃業してしまわれた。
 それが大きかったのか。どういうものかそのころから、私もカメラを手にしなくなった。

 で、久かたぶりに手に執ったカメラが、このデジカメである。かねて存じ寄りの若者から、お安く譲っていただいた。普段日常のひと齣ならスマホ撮影で足りる時代。めっきり使用頻度が落ちた、との口上だった。渡りに船とはこのことか。じつに、ありがたい。
 第一感、小型なのにカチンとして重い。当然だ。超ハイテク部品が詰っているのであって、フィルムスペースががらんどうになっているわけではない。
 第二感、スイッチボタンがどれも小さく、いかにも精巧そうだ。案の定、手ほどきを受けながらも、私の手や指は、触れてはならぬスイッチに触れてしまうこと数度。イケネッ、を連発。
 思えば、小型機械と称べるものに触れるのは、どれくらいぶりであろうか。冷蔵庫や電子レンジの開閉は、機械に触れると云うには当るまい。炊飯器や扇風機のスイッチも。となると、私はもう何年も、自転車(名を次郎と申します)より小さい機械を手入れしたことなどないのである。

 教わった使用説明はいずれも筋道とおって理路整然。深く納得。パソコンにデータを送り込んで、ブログを開いて…と、ひととおり教わった。
 夜半、ひとりで行動開始する。アレッ出てこない。ヨシッ始めから。ここであの画面を呼出すんだが、どこをクリックだったかナ、いや右クリックか…。おやっ、出来てる。というより出来ちゃった。かくして、一枚目の画像が挙った。
 しかしどのような道筋で、なぜ挙ったものか、もうひとつ得心がゆかない。二枚目は、一枚目より時間短縮できた。が、明らかに異なる道筋で画像が挙ったのである。

 「言うてきかせ やって見せては やらせてみ 誉めてやらねば 人は動かじ」
 たしか東郷平八郎の言葉と、聴いた気がする。
 お言葉ではございますが元帥閣下、盲滅法体当りってのも、これはこれで乙なもんですぜ。