一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

そりゃあ

 慶応義塾大学国文科に、池田弥三郎という名物教授がいらっしゃった。テレビからの招きにもしばしば応じた、「タレント教授」草分けのお一人だ。視るからにお洒落で、軽妙な話術を駆使されて、随筆の名篇も多い。
 銀座の老舗天ぷら屋の息子さんで、かの泰明小学校(アルマーニの制服を導入したとかで、近年話題にもなった)から市立一中(現都立九段高校)を経て慶應義塾という、生粋の都会っ子だ。

 あるテレビ番組で池田さん、こんなふうにおっしゃった。東京対地方という主題トークの中でである。
 ――東京には独自文化がないと、おっしゃる。はい、ございません。もとはあったんです。でも首都になっちゃいましたから。今は無理なんです。
 都というものは、文化を産み出したりはいたしません。磨いて、普及させ、保存するだけです。かつては京都がさようでした。観世親子も、出雲の阿国も、地方の土俗に発したわけですよね。それを京都へ持って来て、美意識の高い連中の間で洗練させて、成熟するわけですね。オリジナルは都からは出ません。
 ですから、東京には文化がないとおっしゃられましても、どうお応えしてよろしいやら。あなたがたがドヤドヤやって来られたからでしょう、としか……。

 別の機会に、こんなふうにも、おっしゃった。
 ――近代の芸術家はしばしばおっしゃいます。萬葉は偉大だ、新古今は芸術的洗練の極致だ。そこへゆくと、間にあって古今ってのは月並で平凡で、詰らぬと。ですがね、萬葉を時代順に下ってきて、六歌仙を読んで、さて古今となりましたときね、フウッと軽くなる。あたりが明るくなるんですね。これは、近代の読者がなかなか気付けぬことです。
 芭蕉にせよ、本居宣長にせよ、お弟子たちから、まず最初に何から勉強し始めたらよろしいかと訊ねられて、どこでも好きなところから始めなさい、それを自分で決められなかったら、とりあえず、古今から始めてみたら、と答えてますがね。伊達じゃないと思いますよ。

 その池田さん、慶應義塾では、折口信夫の愛弟子だった。中央公論社折口信夫全集』の中心的編纂者のお一人だ。
 これは画期的全集で、三十数巻の著作篇も国の宝だが、後に『全集ノート編』が二十巻近くも刊行された。ノート編とは、慶應義塾や他大学で折口講義を聴いた、学生たちによる講義録集である。
 長い長い歳月をかけて、多くのノートが渉猟・校訂されたことだろうが、圧倒的多数部分が池田弥三郎のノートだという。容易に想像できるが、「どうして池田のノートばかり。俺だってノートを保存してあるぞ」と申し出た先輩も、多かったことだろう。
 「はい、先輩、おっしゃるとおりです。できるだけ多くのノートを参照いたしたく。つきましては先輩のノートも、ぜひご提供ください。ちなみに、池田のノートはこれでございます」
 見せられてなお自分のノートを引込めなかった同門は、少なかったという。

 晩年には、こんなふうにもおっしゃった。
 ――巨大な師の側近弟子として最期までカバン持ちしてしまいますとね、師の業績の整理だけで、私の一生なんぞ終ってしまいます。自分のオリジナルなんか、な~んにもございません。
 近くに上手に腰掛けて、師のいいとこ取りして、栄養を吸収したら巣立ってゆく。それでなくちゃ一家を成すことなどできません。山本健吉先輩も、戸板康二君も、立派なものです。私は脱けられなかったから……。

 文芸批評家の山本健吉も、演劇評論家推理小説家の戸板康二も、そりゃあ素敵なかたがただ。けれど池田弥三郎教授も素敵だと、私は思うのである。