一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

リズム感

 劇場公開の新作映画を、映画館で観た最後が、さていつだったか、思い出せもしない。「スターウォーズ」二作目か「地獄の黙示録」か。とにかく、ずうっと以前のことだ。
 もともとは嫌いな質ではなかった。年に百五十本の映画と、四十本の舞台(新劇と小劇場)を観て歩く生徒だった。いつの頃からか、世間で繰広げられている文化現象が、なにやら遠くの出来事と感じられるようになってきて、足が動かなくなった。小遣いが不足していた事情もあったが。
 久びさに今、これは俺が観るべき映画だと、公開を待つ気になっている映画が登場した。ワーナーブラザースミュージカル映画「イン・ザ・ハイツ」だ。
 七月三十日公開とある。オリンピック関連の話題に掻き消されて、取沙汰されることも少なかろう。

 (オリンピックに関しては、最悪シナリオというか、ひとつの悪夢を予想している。急遽来日できなくなった有力選手や、来日しても出場できなくなった選手や、コンディション調整できなかった選手が続出して、結果として日本人選手のメダル・ラッシュ。メディアに煽られてバンザイの嵐。国内だけは浮かれに浮かれ、世界中からは馬鹿にされるという悪夢だ。どうか正夢となりませぬように。)

 さて「イン・ザ・ハイツ」だが、舞台はニューヨーク。貧しいラテン系移民が集中して暮す、ザ・ハイツと称ばれる地区の若者たちの噺だという。主人公の青年の名からしてウスナビ。両親がドミニカ共和国から運ばれてきた船のどてっぱらに、US.NAVYと書いてあったからだという。
 貧困から脱け出そうともがく青年たちのエネルギーと夢。そして現実。アングロ・サクソンやゲルマンほか白人は、一人も登場しない映画だそうだ。
 なぜ私がこの映画に関心があるかと申せば、ひと言、「ウェストサイド物語」から六十年か、との感慨による。
 人種差別問題や経済格差問題など物語背景の社会性に注目するならば、二作の間に本質的な変化も進歩もあるまい。たんにアメリカの、ではなく、世界の六十年を想えば、当然だ。だがそんな問題は、秀才たちにお任せしよう。

 スラム化したアパートからも、広場や道路からも、ゴミ溜めや野良犬の糞からでさえ、リズムがにじみ出し、音楽が立ち上ってくる、あの感じ。道行く人たちも、たむろする不良少年たちも、陽だまりにしゃがみ込むホームレスたちさえも、スイッチが入った途端に、突如とびっきりのダンサーに変貌する、あの感じ。まるで地滑りでも起きたかのように、空間全体が動き出す「ウェストサイド物語」の感じが、六十年経つとどういう表現になるのか、観せてもらいたいのだ。
 日米での予告編や、ミュージック・クリップを検索する限りでは、期待できる。

 初めて「ウェストサイド」を観たとき、将来はダンサーになりたいと思った。でもジョージ・チャキリスほど、足が挙らなかった。もたもたするうちに、バスケットボールと出会い、文学と出会って、奇妙な方向へとひん曲っていった。素直にビートルズに添っていれば佳かったものを、モダン・ジャズに入れ込んで、どんどん暗い道を選ぶようになっていった。
 この齢になってみれば、身に残ったものなど、何もない。あるのは、なんと云い表すべきか……、リズム感とでも云おうか、とある空間性への憧れだけである。