一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

籠める

 編集者や教職にあるかたから、お若い作者の小説を、読んでみて欲しいとの依頼を受けることがある。老人に理解できるものかどうか、もとより自信はないけれども、それでも私でよいとおっしゃられれば、読ませていただく。
 力を籠めて書かれた労作だろうから、丁寧に拝見したいところだが、ざっと読んで、すぐに感想を欲しいとの、無理難題を課されることが多い。業界最底辺の「闇の片づけ屋」「ハイエナ集団」の一人だった頃のシガラミで、いたしかたもない。
 とりあえず、原稿用紙の束を、ぺらぺらめくってみる。それから冒頭の三枚と末尾の三枚を見せてくださいと、お願いする。

 芹沢博文という将棋の九段がいらっしゃった。筆禍・舌禍事件で物議をかもされた個性的な棋士だが、そういう面も含めて、天才的なかただった。座談の名手でもあって、解説は明快で面白く、タレント棋士としてテレビ番組に招かれることも多かった。
 ほろ酔い九段、ざっくばらんに放言、というようなインタビュー番組では、こんな発言があった。

 ――こう見えても俺、若かった一時期、天才だったと思うよ。でも、升田幸三大山康晴、絶頂だったからねえ。その先輩たちが指し盛りを過ぎてきてね、後輩の米長や中原が上ってきても、もうひと勝負してやろうかって気は、まだあったんだ。まぁだ、こいつらに負けてたまるかってね。
 しかしその後、谷川浩司って少年が、出て来ちゃったんだ。これはスゴイ。才能が桁違いなんだね。あゝ俺はもういゝって、思っちゃったね。
 今はこうして、お酒飲んでりゃいいの。俺は、谷川浩司と同じ時代の将棋指しだって、思ってね。楽しみにしてりゃいいのさ。

 達観した円満を視るか、ついに天下を取れなかった天才勝負師の屈折を聴くかは、茶の間の力量次第だ。いい場面だった。インタビュアーが、ここでファインプレー。
 「ほかの一流棋士と谷川さんと、なにがそんなに違ったのですか?」
 酔眼朦朧の九段、うなだれるように首を落して、しばし無言。まさか居眠りしたでもあるまい。やおら顔を挙げて、
 「一手に籠められた、想いの深さの違いだな。初手七六歩。谷川の七六歩と凡百の七六歩の違いが、君には見えまい」
 イヤイヤイヤ芹沢先生、それは見えんでしょう。インタビュアーも、煙に巻かれたような表情を隠せないでいた。

 原稿用紙の束を、ぺらぺらとめくってみる。生意気な申しようで恐縮だが、原稿になっているかどうか、七八割がたは感じ分けられる。
 冒頭三枚で、主人公が朝もやの中から現れるとしようか。末尾三枚で、主人公が夕焼けに向って去って行くとしようか。巧い拙いを診ているのではない。月並か珍奇かを診ているのでもないのだ。
 若い書き手は物語展開を凝ろうとする。また表現の細部を凝ろうとする。そんなことはこの先、いくらでも勉強できるし、稽古できる。この子は、一文字に籠める想いの深さを蔵しているかどうか、問題はその一点だ。

 まずほとんどの若者は、健全・健康な青年たちだ。文学を佳き思い出にして、就職活動を頑張ったらいゝし、親に余計な心配をかけないほうがいゝ。
 谷川浩司なんて、そうそう出てくるわけじゃない。