一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

カレー連想



 思い出したように作ってみた惣菜は、その後なん度か補充に補充を繰返して、作り続けるという悪癖がある。

 しばらく間遠になっていたので、カレーを作る。ラジオか CD を聴きながらの気楽な夜鍋作業には真向きだ。思いのほか、好い味に仕上った。なんたって S&B だぜぃ、と独り言ちる。
 ビッグエーの棚にはいく種類かのカレールウが品揃えされてあるけれども、かならず最安値の商品を買う。味を比べるなんぞという齢は、とうに過ぎた。先日、SB 食品の商品が値引きされた日があって、最安値商品と同価格だった。利幅を抑えての眼玉サービスだったものか、卸し段階での在庫調整期に当ったものか、理由は判らなかったが、ともあれ同価格ならばと、買っておいたのだった。

 じゃが芋と人参と玉ねぎをそれぞれ油通し。それに、残っていた竹輪の最後の一本の匂いがそろそろ強くなってきたので、刻んで入れてしまう。隠し味は、おろし生姜とマーガリンだ。どちらも常識的に思い浮ぶよりは多量に投じる。肉類はいっさい入らない。以前の眼分量は忘れてしまったが、得意技のヤマ勘と度胸である。たいていの場合は結果オーライだ。
 カレーライスにもカレーうどんにも、する気はない。小鉢によそって一菜とする。間食としてひと匙ふた匙づつ立食いすることも多い。それで三日くらいは保たせる算段だ。


 「あん時、瀬古が云ったっけなぁ」
 SB 食品からマラソン瀬古利彦選手へ。古びた脳のなかで固定化した連想経路とは、なんとも奇怪なものだ。

 一九八〇年モスクワ・オリンピックのマラソン競技を目指す世界の選手のなかで、瀬古利彦は間違いなく優勝候補の筆頭だった。だが前年十二月に、ソ連アフガニスタンへ軍事侵攻した。西側諸国やイスラム教国など、多くの国ぐにが抗議の意思を表明し、オリンピックへの選手派遣をボイコットした。
 日本国内でも議論は沸騰した。看過できぬとする説と、政治とスポーツとは別だとする説とに、国論が二分された恰好だった。この日を目指して長らく精進してきた選手が可哀相だとの説も、当然ながら多かった。結局は西側諸国というよりはアメリカへの配慮が勝ち、日本はアメリカと足並みをそろえて、モスクワを全面的にボイコットした。
 国家としては抗議の意思表示しながらも、選手の参加は容認するというヨーロッパの国ぐにもあった。選手団の先頭に国旗はなく、各国のスポーツ協会旗などが翻った。

 もしも瀬古利彦がモスクワを走っていたら……虚しい歴史の if である。競技者として絶頂点を迎えていた名選手は、少なくなかった。もしも山下泰裕がモスクワの畳に立っていたら、あるいはもしも三屋裕子がモスクワのコートでブロックやクイックに跳んでいたら。
 名選手たちの執念は凄まじかった。気持を切替え、肉体をいったん戻してから創り直し始めて、四年後のロサンゼルス・オリンピックまで精進を持続させたのである。
 山下泰裕三屋裕子も、ロサンゼルスでメダリストとなった。だが瀬古利彦は敗れた。

 敗者にも容赦なくマイクが向けられた。今の心境はどうか、今後の目標はどうかと。この四年のあいだに、大きな故障から辛抱強い復活という、とてつもないドラマが瀬古利彦にはあった。だが彼は、それらをひと言も口にはしなかった。
 「結婚します。これでぼくは、結婚します」
 意表を衝かれるほど場違いな、すっ頓狂にすら聞える応えだった。この日を目処として絶望的に持続されてきた、禁欲と忍耐、自重と内省の日々がどれほど苛酷なものであったかを、その奇異な応答は如実に表現していた。テレビ画面のこちらがわで、私は残酷で痛ましい光景を眼にしているような気がしていた。

 「あん時、瀬古が云ったっけなぁ」
 ちょうど四十年前の、ある光景の記憶である。