一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

母恋物語

長谷川伸『沓掛時次郎 瞼の母』(ちくま文庫)。

母の子別れ、子の母捜し。

 ―― 諸君ねえ、長谷川伸をご存じないでしょう。数値的根拠のないヤマ勘だけど、日本国中に長谷川伸作品を知っている人と、漱石の『坊ちゃん』を知っている人とでは、どちらが多いと思う? 答えは決ってます。長谷川伸です。
 (エーッ、というどよめきが教室内に起る。)
 ―― 大学の塀の内、しかも文学部なんてところにいるとね、こういうことが見えなくなっちゃうんだ。
 二十年以上も前の教室で、しばしば言及したもんだ。現代文学史、小説論、エンターテインメント文学論、文学概論……、勤務先の大学事情で科目名はそのつどまちまちだったが、どこかで一度はこの脱線雑談噺を挿入した。世に作家という職業があることの根本を、若者たちに一度考えてもらうためには、欠かせぬ挿話だった。

 現在ではもはや通用するまい。知識でも教養でもなく、暮しのなかであたりまえに伝承されてきた長谷川伸の世界を、耳にし記憶する世代が急速に去り、その後は継承されていると思えないからだ。山田洋次監督『男はつらいよ』シリーズで寅さんが、峠越えの道のお地蔵さんの前で、あるいは木賃宿の玄関先で、その他いろいろな場所ですれ違っては声を掛け合った旅役者たちの一行が、どんな観客相手にどんな芝居を懸けていたかをありありと想像できる人は、急速に減ってしまったことだろう。

 『瞼の母』:渡世人番場の忠太郎は、幼くして母に生き別れた。今云うところの家庭事情だ。いっぱしの侠客となった今も、母を訪ね歩いている。料亭水熊の女将おはまがその人ではないかとの噂が耳に入り、忠太郎はさっそく訪ねる。堅気の客商売の家を訪ねるからには、忠太郎なりに精一杯の礼儀を尽して口を利こうとした。
 おはまは一人娘お登世の婚礼準備に夢中だった。お登世は忠太郎には異父妹となる。
 「もしや女将さん、その昔、あっしくれえの息子をお産みなすったことは、ござんせんかい」
 「知らないねえ、覚えがないと云うのに。だいいちここは、あんたのような筋の者が来るとこじゃないよ。あんまりしつこいと、人を呼ぶよ」
 忠太郎はすごすごと退散する。廊下でお登世がすれ違う。
 「おっかさん、今の人、もしやよく聞かされてた兄さんじゃないかしら。あたしなんとなく、そんな気がしたんだけど」
 「まさか。あんなどこ吹く風の渡世人風情が、あんたの兄さんなもんかね」
 町内の頭(かしら)が気を利かせて浪人者を雇い、あんな渡世人が二度と寄りつかぬように腕の一本も斬り落せと手配したという。
 おはまの葛藤と、お登世による説得。「家の身代なんか、兄さんにあげたっていいじゃないの。あたしは赤ン坊のときから可愛がられて来たのに、兄さんはきっとそうじゃなかったんでしょう」
 「……駕籠を云っとくれ、三枚だよ。お登世、支度をおし。板さん、あんたも来とくれ」
 「駕籠はまだかねぇ、駕籠は……」

 そのころ忠太郎は、寒風吹きすさぶ河原で有名な台詞。
 「おっかさんなんて、いらねえやい。上の瞼と下の瞼をこうして合せりゃあ、懐かしいおっかさんの顔が、今も見える」
 追手の浪人者やゴロツキが、忠太郎を取囲み、斬りかかってくる。その腕を取った忠太郎は訊ねる。
 「てめえ、親は? 子は?」
 「そんなもん、ねえやいっ」
 「そうかい、そんなら」
 相手をバッサリ斬り倒す。次つぎ訊ね、次つぎ斬り倒してゆく。

 『一本刀土俵入』『沓掛時次郎』『雪の渡り鳥』ほか、どれを観たって長谷川伸の芝居には、母そのものか、もしくは女性における母性的なるものかへの渇仰と讃美とが貫かれてある。膨大な量の長篇娯楽小説(新聞雑誌の連載)にまで眼が届いてない私ごときが、断定は避けねばならぬが、「母捜し」は長谷川伸生涯に一貫する主題であり、傾向・作風でもあった。

 とある大企業の PR 雑誌の誌面で、新藤兼人さんにインタビューしたことがあった。百歳まで活躍した映画監督である。他の監督の作品で担当した脚本も三百七十本にもなるという。話題は当然『愛妻物語』にも『裸の島』にも及んだ。新藤映画における女優乙羽信子さんの役割、意味合いという点にも及ぶ。監督は夫人を終始「乙羽さん」と称んでおられた。
 ―― 『裸の島』はね、ただただ絶望的に、作物に水をやり続けるだけの噺なのですよ。ふらついて桶の水をこぼしたといっては、殿山泰司さんに殴り倒される。起上ってまた天秤棒を肩に、水を汲みに行く。それだけの映画です。
 ―― 生きるというのは無償の行為ですね。ことに子を育てる母の愛なんていうものは、無償の行為の典型ですよ。
 ―― 男が心の底から描きたいと思うのは、おっかさんに対するアイラブユーの想い以外には、ありえませんね。それを演じてくれているのが、乙羽さんです。

 私はインタビュアーの慎みも忘れて、感動した。新藤兼人監督からは、耳新しい噺はなにひとつ伺わなかった。ただどこかでいく度も耳にした噺が、だれよりも強い想いで発せられるのを伺った。
 以後三十年と少々が経ったが、これより強い母恋の言葉を、まだ聴いていない。